第25話 日比谷野外音楽堂にて
鈍い頭痛で目が覚めた。リュウスケはスマートフォンで時刻を確認する。午後1時過ぎだった。昨夜の疲れがまだ残っている。マルボロに火をつけ、上半身を伸ばした。肩の関節が音を立てる。
スマートフォンがメール着信を告げた。香織からだった。
「リュウスケ、あの場所で待ってるから気が向いたら来て。ずっと待ってるから」
香織の顔が頭に浮かんだ。リュウスケは着替えを済ませると、診察室を抜け、扉を開けた。
待ち構えていた人数は昨日よりも多く感じられた。
「片桐さん、昨夜のライブで、火炎瓶が投げ込まれたそうですが?」
「ご近所のみなさんに、お伝えしたいことはありますか?」
「バンドを脱退するという話は、本当ですか?」
「ネットの反応について、一言お願いします」
リュウスケは立ち止まり、自分を囲む一人一人の顔に視線を向けた。視線を向けられた相手は沈黙し、後ずさる。
「あんたらさあ」
リュウスケは静かに口を開いた。
「仕事や好奇心でここに来てるのは分かるよ。だけど、そんなものよりも自分の命を大切にした方がいい。俺は危険思想保持者って呼ばれてるだろ? いつ、誰に命を奪われるか分からない。俺一人が命を落とすんならいいけどさ、誰かがこのビルにダイナマイトでも仕掛けていたら、あんたらも巻き添えくらってあの世行きだよ。昨日はライブで火炎瓶を投げつけられた。俺はもう覚悟が決まってる。あんたたちは覚悟、決まってるか? 死ぬ覚悟ができているのなら、明日も明後日もここにくればいいよ。でも、もし覚悟がないのなら、帰った方がいい。みんな家族がいるだろうし、子供もいるんだろう? 家族に悲しい思いをさせちゃだめだよ。別にあんたらを脅しているわけじゃない。偉そうに忠告するつもりもない。俺のせいで誰かが傷つくのが悲しいだけなんだよ」
取材陣と野次馬たちは黙ったまま、道を開けた。
地下鉄のホームに着いた。
「タケさん、A2番まで連れてってよ」
「珍しいね、リュウちゃんが都心に行くなんて。ひょっとしてデートかい?」
「まあ、そんなとこかな」
トロッコバイクが走り出した。地下鉄の生ぬるい風を浴びながら、リュウスケは瞳を潤ませた。
自分は覚悟など決まっていない。身体中で怯えているだけのちっぽけな存在だ。
涙は溢れ、やがてこぼれ落ちた涙はトロッコの床に落ち、黒い染みとなった。
★
日比谷野外音楽堂を訪れるのは何年ぶりだろう。かつてはフェンスがあって自由に出入りできなかったと聞いている。
今は朽ち果てたフェンスが横たわり、どこからでも入ることができる。
香織の後ろ姿は、最前列の真ん中にあった。昔と同じだった。階段を降り、黙って香織の隣に座った。
「昔はさあ、このステージで、いろんなバンドがライブやってたんだよなあ」
コケやシダが生い茂る壁に囲まれたステージを眺めながら、独り言のようにつぶやく。
「ここでライブやりたいって昔から言ってたもんね」
「うん。でもどうやら夢で終わりそうだ。ライブハウスでさえ、まともに演奏できなくなちゃったよ」
「うん」
「実はさ、香織、サチが被験者に選ばれたんだよ」
リュウスケはステージを見つめながらつぶやいた。
香織が隣で驚きの表情を浮かべているのが見なくても分かる。
「でさ、カズヤがバンド、フリークスの音楽でサチを救おうって言ったんだ。で、俺は反対した。バンドを手段として使うのが、なんか嫌でさ」
「カズヤさんとは和解したの?」
「いや、根っこの部分ではお互いわかり合ってないんだ。ギクシャクしてる」
「でも、このまま平行線でいるわけにはいかないでしょ?」
「うん。俺はロックンロールってさ、上手く言えないんだけど、ただの楽しみ事だって思ってたんだ。でもカズヤは真剣にロックンロールに向き合ってる。あいつに言われたんだ。お前はただ楽しければそれでいいのかって。そしたら、今までの自分が、チャラチャラした偽物みたいに思えてきてさ」
自分の口調が、信じられないほど弱くなっていることに気づく。
「そんなに自分を責めることないよ。考え方の違いなんだから」
「いや、俺の考えが甘いんだよ、きっと。カズヤにはかなわない。自分でも変わらなくちゃいけないって分かってるんだ。でもさ、どうやって変わればいいのか全然分からなくてさ」
「少しづつ変わっていけばいいじゃない?」
「サチの実験日が白紙なんだよ。いつ実験が行われるか分からないんだ。だから、どこかで覚悟を決めなきゃいけないんだよ」
「リュウスケ、覚悟を決めるが怖いの?」
優しく、手を伸ばすように香織が尋ねた。
「うん。とっても怖い。ネットで叩かれたり、自宅を囲まれたりするのも怖いけど、それよりもっともっと怖い。もし、自分が覚悟を決めて、何も変わらなかったらさ、サチを救うこともできないし、俺自身もきっと壊れるだろうなって」
「何かと真剣に向き合うって誰だって怖いよ。勇気もいるし」
「ロックンロールっていう音楽がこんなに怖いものだとは、夢にも思わなかったよ。カズヤはそれを乗り越えたんだろうね」
香織の前では、何故こんなにも素直になれるのだろう? 昔と全く同じだった。
「カズヤさんに、その気持ちを伝えてみたら?」
「これ以上あいつに負担はかけられないよ。自分で乗り越えなきゃ。自分を信じることは自分にしかできないからね」
気がつくと、リュウスケは香織の肩に頬を乗せていた。風が吹き、香織の髪がリュウスケの頬を撫でた。その香りに触れたリュウスケは、母親に抱かれているような安堵感を感じていた。
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