第21話 世界で一番美味しい煮物

 目が覚めた。今何時かなんてなんてどうでもいい。もっと眠っていたかった。眠りの中にしか自分の居場所がないのだから。

 

 睡眠導入剤がまだ、身体に残っている。頭が重く、倦怠感と疲労感を感じる。

 

 キッチンのあたりから、金属音が聞こえた。何だろう? すると、また金属音が聞こえる。


 リュウスケはふらつく足取りで、キッチンへ向かった。キッチンの隅にある勝手口をノックする音だった。


 あいつら、こんなところまで嗅ぎつけてきたのか? リュウスケは警戒心を強めた。

 

 勝手口の下から、小さなメモが現れた。手に取って、視線を向ける。


「リュウスケ君、私だから、安心して」と書かれている。その下に滝川という名前が書かれていた。


 リュウスケは、慎重に勝手口を開いた。緩くウェーブのかかった、白髪の小柄な女性の姿があった。ビルオーナーの滝川だった。

 

 滝川を招き入れたリュウスケは、自室へ案内し、滝川にベッドを勧め、自分は椅子に腰掛けた。


「食べなさい。何も食べてないでしょ、昨日から」


 滝川は二つのタッパーと箸をリュウスケに手渡した。温かい温もりが手に伝わる。中を開けると、それぞれ白米と煮物が入っていた。


 パソコンモニターを見ると、時刻は午前10時過ぎだった。ほぼ一日、眠っていたことに気づく。

 

 リュウスケは急に空腹感を覚え、滝川の差し入れを口に運んだ。


「滝川さん本当にありがとう。生き返ったよ」


「あんたは本当にいつも、美味しそうに食べるねえ」


 滝川は笑顔を浮かべる。


「だって滝川さんの煮物はウバステでナンバーワンだもん」


「こんなおばあちゃんの作った煮物でも喜んでくれて嬉しいよ」


「話があって来てくれたんでしょ? 滝川さん」


 滝川の表情が曇る。


「俺は単純バカだけどさ、だいたい想像つくよ。近所から苦情がきて板挟みにあってるんでしょ?」


 滝川はうつむいたまま、静かにうなずいた。


「私は古い人間だから、パソコンも持ってないし、あんたのやってる音楽も知らないけどさ、みんな薄情だよ、手のひら返してあんたのこといじめて」


 滝川の頬を涙が伝う。


「おまけに、こんなものをビルの周りに貼り付けて」


 滝川から、20枚以上あろうかと思われる紙を受け取った。


《ウバステから出て行け》

《とっとと警察に出頭しろ》

《刑務所で一生暮らせ》


 リュウスケのみぞおちに鈍い痛みが走る。


「私は、あんたがウバステに来てから、本当の孫みたいに可愛がって来たのに。悔しくて仕方ないよ」


「ありがと、滝川さん」


 リュウスケは涙を必死で堪える。


「ウバステには、人情ってもんがあったのにねえ」


「いつ、ここを出ていけばいいんだい?」


 滝川はしばらく沈黙して、口を開いた。


「今すぐにとは言わないよ。私も最後まであんたを応援するから」


「あんまり無理しないでね」


「すまないねえ。あんたの力になれなくて」


 滝川は顔を両手で覆った。


「そんなに泣くなよ、滝川さん。今はさ、たまたま星の巡り合わせが悪いだけだって。なるようになるよ」


「私は、ずっとあんたの味方だからね。それだけは忘れるんじゃないよ」


 滝川を見送った後、リュウスケはベッドに顔を埋めた。心に浮かんだのは、滝川の気持ちへの感謝と罪悪感の入り交じったものだった。

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