第16話 パンク・ロックとコーヒーカップ

 翌朝、目覚まし時計が鳴った。午前7時30分。いつもなら起きる時間だが、とてもじゃないが仕事なんてする気になれない。全身に倦怠感を感じる。自分が眠っていた実感がまるでない。


 リュウスケはアラームを止め、頭から毛布を被った。


「リュウちゃん、お客さんだよ。お客さん」


 サチが自分の身体を揺すっている。


「犬かあ? それとも猫かあ?」

 

 我ながら情けない声だと思う。


「違うってば。都庁の人。女の人だよ」


「都庁が俺に一体何の用だよ?」


「わかんないよ。とにかく起きてよ」

 

 リュウスケは気だるい身体を引きずって、診察室へ向かった。ソファーに女性が座っている。セミロングの少し茶色がかった髪、グレーのスーツ姿だった。

 

 さらに歩みを進めると、リュウスケは驚きのあまり裏返った声をあげた。その声に気づいた女性が振り向く。


 黒目がちの大きな瞳、整った鼻稜、薄い唇、透き通るような白い肌。

 

 香織だった。


「久しぶり、リュウスケ」


 リュウスケはすぐに返事ができなかった。一体何故、香織がここにいるんだ?


「日本語忘れたの?」


「あ、いや、どうもおはよう」


「もう朝はとっくに終わってるんだけど」

 

 時計を見ると午後1時過ぎだった。


「ずっと寝てたの? また二日酔い?」


 香織は眉をひそめ、呆れた口調で尋ねた。


「いや、そういうわけじゃなくて、香織だよな? お前」


「そうだよ。まだ寝ぼけてるの?」

 

 柔らかく、懐かしい声に触れると、リュウスケは少しづつ冷静さを取り戻した。


「ちょっとコーヒー入れてくるから」


「いいよ、気を遣わないで」


「俺が飲みたいんだよ」

 

 リュウスケは奥のキッチンでコーヒーを入れ、診察室へと運んだ。


「インスタントだけどいいか」


「平気。いただきます。それより座ったら?」

 

 リュウスケは香織の隣に座った。落ち着いた香水の香り。昔と同じだった。


 奥の方から足音が聞こえてくる。サチだった。


「じゃあ、バイト行ってくるね。あ、どうそごゆっくり」

 

 香織は笑顔でサチに会釈した。


「観光ツアーで来たのか?」


「違うって。仕事」


 香織はポケットから名刺ケースを取り出し、リュウスケに手渡した。

 

 リュウスケは名刺を覗きこんだ。


「東京都 福祉保健局 ケースワーカー 桜木香織さくらぎかおり」と書いてある。


「年明けの異動で、この地区の担当になったの」


「ケースワーカーってどんな仕事なんだ?」


「幅の広い仕事だけど、やっぱり一人暮らしのお年寄りのお話聞いたり、相談に乗ったりが一番多いかな。特にこの地区はお年寄りが多いでしょ。あとは経済的な理由で困っている人かな。バックアップできるようにプランを考えたりとか」

 

 香織はコーヒーカップを唇に寄せ、息を吹きかけた。


「そうか、頑張ってんだな」


「リュウスケ、今はあの子と付き合ってるんだ」


「バカいうなよ。あいつはまだ17歳だぞ。ただの居候兼家事手伝い」

 

 リュウスケは早口で答えた。


「冗談で言ったのに。そんなに動揺しなくてもいいじゃない」


 香織が悪戯を含む微笑を見せた。


「だってお前が突然、妙なこと言い出すからだよ。で、香織、お前はどうなんだよ?」


「仕事三昧でそれどころじゃないよ。それよりリュウスケ、お父さんの跡継いだんだね。立派な開業医じゃない」


「立派なモグリの開業医だよ」


「忙しいの?」


「まあ、ぼちぼちってとこだな。香織は今でもパンク聴いてんのか?」


「もちろん。あ、職場では内緒にしてるけどね」


「お前パンク聴くと人格変わるからな。言わないほうがいいよ」


「実は私、リュウスケのバンド、結構通ってるんだよ」


「本当かよ? だったら声かけてくれればよかったのに」

 

「うん。でもなんか照れくさくてね。ベースメントの一番奥でこっそり観てた。かっこいいバンドだね。固定客もたくさんいるし」


 香織がベースメントに来ていたのか。だが、実際に声をかけられたら、気持ちは揺れてしまっただろうと思う。香織が正解だ。


「ありがとさん。でさ、香織」


 リュウスケは上半身を前方に傾けた。


「どうしたの? 急にトーンダウンして」


「ちょっと教えてほしいんだけどさ、セカンド・チャンスってあるだろ。あれって香織は関わったりしてんのか?」


「大人になったね、リュウスケ。政治の話をするなんて。セカンド・チャンス政策は厚生労働省と文部科学省の共同プロジェクトなの。私は全然タッチしてないよ」


「なんか噂とか、そういうものもないのか?」


「どうしたの? 真剣な顔して。ええと、ああ、確か被験者が決まったって話は聞いたことがあるよ」


「そっか、ありがと。週にどれぐらいのペースでここに来るんだ?」


「最低でも週に2回は来るよ。何か困ったことがあったら言ってね。なんでも相談に乗るから」

 

 見送ったリュウスケは、香織が残していった、わずかな香水の香りに触れ、口紅の痕が残るコーヒーカップを見つめていた。


 香織がまだ隣に座っているような幻のなか、リュウスケは香織にすべてを打ち明けて楽になりたい衝動を、静かに胸の奥にしまいこんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る