第9話 大切な、そして小さな願い

 リュウスケとサチは帰宅した。8畳ほどの診察室には、診察用の台、机、薬やカルテが収納されている棚が設置されている。

 

 リュウスケは入り口近くの黒い革張りのソファーに身体を預けた。疲労を覚えたが、それは心地よい疲労感だった。


 時計の針は午後9時20分を回っていた。

 

 サチが2つのコーヒーカップをトレイに乗せ、近づいてくる。ソファーの前にある、ガラステーブルにコーヒーカップが置かれた。


「色々と大変だったね。本当にお疲れさまでした」


 サチはリュウスケの隣に腰掛けた。


「今年のクリスマスは、一生の思い出になったよ」


 すると、一匹の真っ白い子猫が、サチの膝元に飛び乗った。


「バニラ、リュウスケ先生にお礼しなさい。助けてくれたんだから」

 

 サチはバニラの頭を撫でている。愛らしい鳴き声が耳に届いた。


「あれもクリスマスの日だったっけ?」


「違うよ。2年前の大晦日」


「ああ、そうか。思い出した。ぼちぼち寝るかと思ってたら、すごい勢いで扉を叩かれて。開けてみたら、お前がバニラ抱えて、半べそかいて立ってたんだよな」


「だって、急に食欲なくなちゃったし、食べてもすぐ吐いちゃうし。いろんな人に訊いて、やっとここにたどり着いたんだもん」


「まあ、軽い胃腸炎だったからな。重病じゃなくてよかったよ。それでサチは帰ったんだっけ?」


「違うって。診療費払えないし、他に行く場所もないって話したら、リュウちゃんが、家事手伝いで居候させてくれるって話になったの」


「そうだったけ? お前が勝手に転がり込んだんじゃなかったっけ?」


「そんな図々しいことしないよ。リュウちゃんが提案してくれたの」


「いや、なんかさ、お前がここにいるのが当たり前の光景になってたからさ。たまには俺も人の役に立つことするんだな」


 すると、ガラス扉をノックする音が聞こえた。


「メリークリスマス。届けにきたよ」


「ありがとう。忙しいなかごめんね」


「二人でゆっくり食べなよ」


 リュウスケは真っ白い箱を受け取った。


「リュウちゃん、何これ?」


「開けてごらん」


 サチが箱を開けた。


「わー、ケーキじゃない。私の大好きなショートケーキだ。リュウちゃんありがとね」

 

 サチの愛くるしい笑顔が輝いた。

 

 二人はケーキを口に運んだ。


「やっぱりクリスマスに食べるケーキって特別だね」


「俺は普段、あんまり甘いものは食べないけど、やっぱり美味しいもんだな」


「あ、リュウちゃん、先にイチゴ食べちゃう派なんだね」

 

 リュウスケは無自覚にイチゴを食べていたことに気づいた。


「サチはどうなんだよ?」


「私は最後に食べる派だよ。口の中がさっぱりするもん」


 ショートケーキの食べ方にそんな派閥があることを初めて知った。


「ねえ、リュウちゃん、話変わるけど、一回ぐらいは私たちのライブ見に来てよ」


「ああ、そのうちな。だけどさ、お前のアイドルグループ、説教系アイドルだっけ? コンセプトはぶっ飛んでるけど、需要ってあるのか?」


「あるよ。今の若い子たちって、疲れ切ってるもん」


「どんな客が集まるんだよ?」


「えーとね、ニートの男の子とか、普段は部屋に引きこもってる男の子たち」


「そいつらに向かって、説教するわけだ」


「説教っていってもカズヤさんみたいに叫んだりしないよ。アイドルだもん。ポップスの曲に乗せて『働きなさーい!』とか『部屋から出なさーい!』って歌うの」


「ベースメントでやってるんだよな。どれぐらいのペースでやってるんだ?」


「月に一回のペースかな。本当はもっとやりたいんだけど」


「ライブが終わったら、サイン会とかするのか?」


「サイン会はしないよ。その代わり、ビンタ会するの」


「なんだよ、それ?」


「私たち5人組でしょ。ライブが終わると私たちの前にそれぞれお客さんが並ぶの。で、一人づつビンタしていくの」


「どんな儀式だよ、そりゃ?」

 

 リュウスケは呆れた声をあげた。


「うーん、みんな孤独なんじゃないかな。なんか寂しそうだもん。でもね、ビンタするとみんなすごくいい笑顔になるの」


「なるほどねえ。で、サチ、お前のポジションは?」


「栄光のセンター」


 サチの大きな瞳が輝いた。


「あ、忘れるとこだった。ちょっと待ってて」

 

 サチは早足で、奥にあるサチの自室へ向かった。そして、ラッピングされた箱を持って戻ってきた。


「はい、リュウちゃん、クリスマスプレゼント」


「ありがと。開けていいか?」


「うん」


 リュウスケはグリーンのラッピングを剥がした。医療用のレーザーメスだった。


「リュウちゃん、最新型のレーザーメス欲しいって言ってたじゃない。バイト代、コツコツ貯めて買ったの」


「ごめん。俺、ケーキぐらいしか用意できなかった」


「いいよ。普段からお世話になってるんだから」


「それとな、サチ」


「なあに?」


「こりゃ、人体用のメスだ」


「嘘、本当に? ネットで注文したんだけど、よく分からないから、とにかく最新型ならいいかなって注文しちゃったの。交換してくれるかなあ」

 

 サチは不安そうな表情を浮かべた。


「いいよ。どこかで役に立つかもしれないしさ。お前の気持ちだけで十分だよ」


「ごめんね、リュウちゃん。私って本当にドジだな」


「そんなことないよ、サチ、こっち向け」


 リュウスケは、サチのまだあどけなさの残る顔を見つめた。そして、この穏やかな日々がずっと続けば、と心から願いながら、ショートカットの髪を撫でた。

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