第2話 聖夜の逃走劇

 雪は本降りになった。


 まずは、どうにかして、地上に辿り着かなければならない。階段で降りるか。


 すると、階段を駆け上がる硬い足音が聞こえてきた。まずい。


 確か、屋上の隅に非常用の梯子があったはずだ。ええと、どこだっけ? 


 下手に動き回るとサーチライトに捕まる。しかも階段の足音はさらに近づいてくる。


 こっちだ! おそらくこっちだ! 多分こっちだ!


 記憶と勘を頼りに、リュウスケは屋上を斜めに横切って、給水用タンクの裏側を抜けた。


 屋上の隅から地上に梯子がかかっているのを見つけた。


 よし! ビンゴだ!


 冷え切った梯子に両手と両足をかけた。両手に冷気とざらついた感触が伝わる。


 地上まで15メートルほど。暗闇のなか、下を向いても地面が見えない。横からの突風で、身体が吹き飛ばされそうな恐怖を感じる。両手に力を込めた。


 1段づつ、慎重に梯子を降りていく。暗闇で見えないが、おそらく錆び付いて、しかも相当古い梯子だろう。


 その証拠に、1段降りるたびに、梯子は弱り切った猫の鳴き声のような、情けない金属音をたてる。


 あの、すみません。大丈夫ですか? この梯子?


 どうにかして、地上に降りることができた。真冬だというのに、額から汗が流れ、目に入った。リュウスケはライダースジャケットの袖で汗を拭った。


 さて、どこに逃げるか。


 サイレンは相変わらず鳴り響いている。


 これが昼間だったら、八百屋のハチさんの店、駄菓子屋のミキちゃんの店、いや、ヒロキかカズヤのアパートが安全か。


 いずれにしても転がり込むことができる。しかしこの時間帯じゃ、みんなもう寝ているだろう。呼び鈴を押している間に捕まるのがオチだ。


 幸い、こっちには地の利というものがある。リュウスケは、狭い路地の突き当たりの角を右に曲がり、次の角を今度は左に曲がった。


 もしここがだったら、地面はアスファルトで走りやすい。高層ビルの立ち並ぶシチュエーションの逃走劇は、かなり様になるのではないかと思う。


 だがここは砂埃が舞い上がる細い砂利道だらけだ。もちろん高層ビルなんて、ありはしない。バラック小屋とアパートが建ち並ぶ、枯れ葉のような街だ。


 結局、まるで絵にならない。


 とにかく聴覚だけが頼りだ。サイレン音が遠のいていけば、それだけ連中との距離が離れたことになる。


 焦りで足がもつれ、砂利道に何度か足を取られながら、リュウスケは雪の舞う路地を深く潜っていく。


 呼吸は荒くなり、心臓を打つ音も激しさを増す。わずかだが、サイレン音が遠ざかった気がする。


 よし、この方角で合っているはずだ。


 少しペースを落とそう。感覚のすべてを聴覚に集中させて、音が小さくなるルートを選ぶんだ。


 それにしても、あの連中、異様にしつこいな。それにタバコが切れかかっている。


 まったくタバコぐらい吸わせてくれよ。クリスマス・イヴだぜ、今夜は。少しぐらい手を抜いてもバチは当たらないと思うんだが。


 今ならどこかに逃げ込めるだろう。ここから一番近い場所、駄菓子屋のミキちゃんの店だ。


 雪はさらに激しくなった。リュウスケは砂利を踏む音が聞こえないように、慎重に歩みを進めた。


 辿り着いた。「山本駄菓子店」の看板を見上げた。シャッターは閉まっており、店の二階にミキが住んでいる。


 店の右端にある鉄製の階段を、音を殺しながら上る。二階の廊下にたどり着いた。慎重に歩みを進めるたび、廊下が軋んだ音をたてた。


 茶色の木製の扉。その横にある、呼び鈴を押す。ブザーの鳴る音が扉越しに聞こえた。


 30秒ほど経った頃、扉の向こう側から声が聞こえた。


「どなたですか?」


 眠たげな声だった。


「ミキちゃん俺だ、リュウスケだ」


「どうしたの? リュウ君、こんな時間に?」


 ミキは驚いた声をあげた。


「ああ、ちょっと追われてるんだよ」


「何をしたのよ?」


「ウチの屋上でハーモニカ吹いてた」


「何やってんのよ、そりゃ追われるに決まってるでしょ」


 呆れた声が返ってきた。


「いや、ちょっと酒入っててさあ」


「しょうがないなあ、サチコちゃんは無事なの?」


「ああ、あいつはベースメントに逃がした」


「じゃあ、開けるから、とりあえず中に入って」


 リュウスケの胸に安堵感が広がりはじめた。ここなら、連中もさすがに気づかないだろう。


 ミキがカギを開け、ドアノブを回し、ドアを開いた瞬間だった。


 再び、サイレン音が耳をつんざいた。


 階段を見下ろすと、サーチライトが路地をまっすぐ貫いている。


「ねえ、大丈夫なの? リュウ君。私なら平気だから入りなよ」


 グレーのスウェット姿のミキが小声で囁いた。


「いや、ここもやっぱり危険だ。ミキちゃんを巻き添えにするわけにはいかないからさ、気持ちだけ受け取る。俺は大丈夫だからドアを閉めてくれ」


 音もなくドアが閉まったことを確認すると、リュウスケは廊下の奥から、フェンスに登り、斜めに傾いた電信柱に飛び乗った。


 両手と両足に渾身の力を込め掴まったが、ずるずると引きずり落とされてしまう。両手と太ももに熱い痛みが走る。


 リュウスケが落ちたのは、駄菓子店の隣にある民家の庭だった。慎重にコンクリートの塀に近づき、穴の開いた塀に顔をあて、路地の様子をうかがった。


 サーチライトは光っていなかった。少しずつ、サイレン音が小さくなっていく。


 リュウスケはコンクリートの塀をよじ登り、再び路地に立った。


 このまま逃げ続けても体力がもたない。ライダースジャケットの内に着込んだTシャツは、汗でぐっしょりと濡れている。


 どこだ、連中に嗅ぎつけられない安全な場所は?


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