ウバステ-実験都市のブルースー

言の葉工房

第1章 天国への階段

第1話 追跡者

 もし、ここがなら、最新ショップのイルミネーション、手をつなぎ、街を歩く恋人たちの姿、誇示するかのようにそびえ立つ高層マンションが視界に広がるのだろう。

 

 タクシーのエンジン音、クラクション、アスファルトを歩く人々のざわめき、流れる最新の音楽たちも、耳を澄ますことなく、勝手に飛び込んでくるはずだ。


 外の地区には、あらゆる幸福の証がある。彼らはそれを信じて疑わない。幸福は当然のように転がっており、すぐに消費され、また新たな幸福が再生産される。


 幸福の定義など自分には縁のない話だが、自分は外の地区の幸福に、穏やかな軽蔑を抱いてしまう。もっとも、相手もこの地区に住む人間を憐れみ、同情しつつも、心の裏側では侮蔑のまなざしを向けているのだろうけれど。


 インディゴ・ブルーのライダースジャケット、細身のブラックジーンズに白のラバーソウル。シルバーのメッシュが入った肩にかかる黒髪。


 カタギリリュウスケは、4階建ての自宅雑居ビルの屋上にいた。


 高さ2メートルほどの給水タンクに、身長178センチの上半身を預け、片膝をつき、腰を下ろしている。


 ここは喧噪とは無縁だった。寒空のもと、耳の奥にわずかに響く鼓動の他には、何も聞こえない。時間が止まったような静寂に包まれていた。


 正面に視線を向ける。


 朽ち果てて倒れたままのフェンスの向こう側の光景を眺める。月明かりと頼りなげな外灯に照らされたバラック小屋のトタン屋根、倒れかかった電柱、迷路のように張り巡らされた細い路地が遠くまで広がっていた。


 12月の澄み切った東京の空には雲一つなかった。


 瞬きをするように、星たちが輝いている。


 冷たい風が頬を撫で、髪をわずかに揺らせた。


 深く息を吸い込み、冷えた空気を身体に送り込むと、部屋で飲んでいたバーボンの余熱と中和した。


 吐く息が視界を白く染める。


 小雪がひらり、舞い降りてきた。リュウスケの長い睫毛にかかる。片眼を閉じ、小雪を溶かす。瞼に広がる心地よい冷気が、酔いを覚ましていく。


 ポケットのスマートフォンが、メール着信を告げた。取り出して、確認する。


 都庁からのメールだった。


 タイトルは《経済特区B13番地区にお住まいのみなさまへ》とあった。本文に目を向ける。


 《ご存じのように、あなたのお住まいの地区では、経済特区特別措置条例第25条により、一切の表現行為が禁じられております。住民各位には、ご理解とご協力をお願い致します》


 またか。今年に入って358回目だ。毎日毎日ご苦労なこった。


 ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」のハミングが聞こえた。隣で膝を抱えて座っている同居人のサチだ。


 リュウスケは顔をゆっくりと左に向けた。ショートカットの黒髪、赤のダッフルコートにブルーのデニム、ブラウンのチェック柄のマフラー。


 小柄なサチは、首を下に傾けながら、メロディーを口ずさんでいる。


 リュウスケはブラックジーンズのポケットから、ブルースハープを取り出した。左手で口元に寄せる。冷え切ったブルースハープが、唇に伝わった。


「ハミングなら大丈夫だと思うけど、さすがにハーモニカは危ないよ、リュウちゃん」


「でもさ、実際に捕まったヤツって、俺は見たこともないぜ。どうせアレでしょ? ただのデモンストレーション。だからさ、歌ってくれ、サチ」


 サチのメロディーの合間に、即興でブルースのフレーズを入れる。むせび泣くように、また囁くように、ブルースハープの音色は、サチのメロディーに溶け込んでいった。


「リュウちゃん、ハーモニカも吹けるんだね。初めて見た」


 サチの白い息がふわりと舞い上がる。


「吹けるっていってもさ、真似事くらいのレベルだよ」


「ベース弾いてるときとは目が違うね」


「そうかな?」


「うん。優しい目してる。いつ頃から吹いてるの?」


「まだ外にいた頃。15歳くらいだったかなあ」


「ベースは?」


「同じ頃だよ」


 リュウスケは右手で、ブラックジーンズの太ももを叩いた。乾いた音が寒空に吸い込まれていく。


「サチ、ぼちぼち部屋に戻るとすっか。もうすぐクリスマス・イヴも終わっちまうよ」


「お風呂ってまだだよね。私、作るから」


「いつもありがとな。身体も冷えたし、ゆっくり温まるとするか。お前も冷えただろ? 浴槽は洗わなくていいから、お湯だけ張ってくれ」


「ちゃんと洗うよ。一応、家事手伝いだもん。よいしょっと」


 サチが立ち上がった。遅れてリュウスケも立ち上がる。


 リュウスケが階段を目指し、右脚を上げた瞬間だった。


 爆音に近いサイレン音が鼓膜を刺激した。


 クリスマス・イヴにまるで似合わないサイレン音は、次第にボリュームが上がっていく。


 鼓動が高まり、全身に緊張が走る。


 サーチライトが、夜空に向かって伸びてきた。獲物を探す蛇のように、光は屋上の2人を捕らえようとする。


 リュウスケは舌打ちをした。


「サチ、悪かった。ごめん。お前の言った通りだったよ。すぐにベースメントに行け。あそこなら安全だ。それから盗聴の危険がある。連絡はするなよ」


「だから言ったでしょ? もうリュウちゃんは楽天家すぎるよ。私はベースメントに行く。リュウちゃん、絶対に無茶したらだめだよ」


 小声で囁くと、サチは小走りに階段を駆け下りていった。


 サチの背中を見届けたリュウスケはつぶやいた。


「やべえな、こりゃ」

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