02-008

 電車が停止していたのは川の上を通る橋の上。辛うじて列車は落下していないものの、いつバランスを崩して川に落ちてもおかしくない。窓が割れて放り出されていたら川に投げ出されていただろう。


 そんな不安定な状況だから救助がなかなか来ないのだろうし、両脇に支えるものがなかったから引っ繰り返ってしまい、大惨事になった。


 だから、外から音がするときは救助以外にはない。


 そう考えていたから、彼女は自らの視界を疑った。


 そんな状態の窓を、真っ黒な人影がノックをしている筈はないからだ。


 しかも影は、一つではない。アリやゴキブリの如く彼女の視界に映る窓という窓に貼り付いている。


 その化け物は、上から下まで真っ黒な化け物だ。生き物のそれではなく例えるならば墨汁に近い色をしている。


 反面、目だけは不気味なまでに人間と瓜二つだった。その瞳は、ぐるぐると蠢き明日香には車内の様子を観察しているように見えた。


「なに、これ……」


 その内の一体と、明日香は目が合った。


 黄色い目がぐにゃりと曲がってアーチ状になると、その三日月のように細い目の下、何も無いと思っていたところに一本の筋が出来、その筋は人間の口のように閉会して聞き慣れた日本語を放った。


「ミツケタ」


 恐怖という色で装飾されたはっきりとした感覚が、直に自分へ向けられている。


 ――逃げなきゃ……!


『シードの限界値を突破』


 襲いかかる無邪気な殺意が、明日香の理性を破壊していく。


 脳が停止したかのように、明日香の視界から色が消えていく。次いで現実感が消え、その次は遠近感が消え、そして次第に抑揚も消えていき、気がつけば彼女の視界には彼方まで続いてしまいそうな白い地平線が広がっていた。


 普段暮らしている二次元とは異なる世界。三次元の中に迷い込んだ様だとさえ感じてしまう。


 そんな無垢な世界に、一つの色が上から落ちた。


 青紫の、鋭利な色。


 その色は空中で遊んでいたかと思うと、おもちゃを見つけたように明日香の元に駆け寄って何かの形を象りだした。


 ――イタチ……?


 はっきりとした見覚えのある形になると、そのイタチと思われる何かはにこりと首をかしげて明日香に話しかけてくる。


『コネクトを強制起動いたします。コード〝ライメイ〟』


 何か忘れた物を見つけたような、薄れた心に色づけするような――何かが蘇る感覚を得た明日香は、同時に生まれた強烈な不快感を振り払うかのように、空へ〝ソレ〟を吐き出した。


「……来ないで!」


 怒りと共に抱いた不快感が形となる。


 放たれたのは雷だ。


 映像で見た自分と同じ、青紫色。


 今度はイメージではない。ちゃんと、立体感を孕ませた現実の物質だ。


 鋭利な素早さを保持しつつ、雷たちは体中の至るところから放出される。


 ――感覚は、似てる。


 不快感が体に刻まれた無意識の感覚を思い出す。

 体中が切り裂かれるような。あるいは、全身が釜ゆでされているような。そんな痛みだ。


 ――けど……あの時とは違う。


 確かに、彼女の全身には痛みが走っている。呼吸はどうしようもなく苦しいため浅く、例えようのない気持ち悪さが脳にこびり付いており視界は歪んでいる。


 しかし、決定的に以前の自分と異なっているのは、意識がある、という点だった。


 明日香自身に、というのは勿論のことだが、それだけではではない。


 雷にも、だ。


 まるで自分の意識のように、体中から飛び出していく雷が感情を爆発させている。


 喜怒哀楽どころではない。


 細かな心の機微ですらも共有するそれらの雷は、明日香の前で旋回を始めた。


 やがてその無象は、しっかりとした一匹の有象――抑揚のない世界で語りかけてきたイタチとなって、今度は現実の明日香に語りかけた。


『随分とまあ頼りないこと……まあ、仕方ないの』


 そう明日香に語りかけると、再び雷は強い光を放った。


 目も眩んでしまうほどの眩い光。


 そんな光の中に、あの少年にも感じた暖かさを覚える。太陽の様な――親のような優しい光だ。


 その光の中に、明日香は躊躇うことなく飛び込んだ。


 飛び込んできて、とその雷が語りかけていたからだ。


 光に包まれた明日香からは一切の不安が消え去り、失った感情と入れ替わりで安心が包み込んだ。


 光の流れに身を任せていた体に、何かが触れる。


 確かな感触を得、その感触を握りしめると、明日香の体を包んでいた光は、ぱん、という炸裂音を残して弾け飛んで消えた。


 消滅したのではない。


 あの雷たちは、明日香の道衣となって場に留まったのだ。


「これ……」


 雷が変異した道衣は、きらびやかな羽織だった。


 桃色をベースにし、黄色の花柄が所々に施されている。


 普段着の上から羽織っているだけなのにも関わらず、放たれる異質な神々しさはよくドラマや映画で登場する戦国時代の姫に似た……というよりも、コスプレをしているみたいだった。


 自らに見とれるも一瞬、そんな暇はない、と置かれている状況を思い出した明日香は化け物に手のひらを向ける。


「いけっ……!」


 映像にいた、あの自分じゃない自分と動きを重ねる。


 すると、彼女の手から雷が放たれた。

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