第四話 叶冬の選択

 叶冬は重い瞼を持ち上げると、瞳に突き刺さる灯りが眩しくて目を細めた。

 ひどく頭がぼんやりとしていて、何を考える事も無くぼうっとしていると頬に水滴が落ちて来た。視線を上に向けるとそこには見覚えのある顔があった。


「かな! 叶冬! 聞こえるか!?」


 幼馴染の声と顔だという事は分かったけれど、それにリアクションしなければいけないという考えには紐づかない。

 しばらく名前を呼ばれ続け、数分してようやく返事をしなければいけない事に気が付いた。


「……ゆき……」

「かな! 分かるか!? 見えてるか!?」

「見えてる……」


 雪人が押していたナースコールを聞いて看護師が数名と医師が駆けつけた。医師が具合はどうですか、と質問をし始めたがやはりまだぼうっとしている。

 その様子を見て、雪人は金魚屋の女の言葉を思い出していた。


「そうそう。起きたら叶冬君は金魚だった時の事は覚えていないよ。下手すりゃ人生全部覚えて無い」

「は!? 何でですか!」

「君は前世の記憶あるかい?輪廻転生すると忘れちゃうんだよ、過去。仕組みは知らんけどもね。一応これ輪廻転生だからさ、その方式でいきゃあ忘れるよねーえ」


 まあ死ぬよりはいいだろ、と女はきゃらきゃらと笑った。


「さあさあ葬儀の準備だ。叶冬君はこの鉢にお入り。あ、魂は呼吸しないから水中平気だよ」


 女はいつの間に持って来ていたのか、ベッドの下から水の張ってある金魚鉢を引っ張り出した。

 叶冬は恐る恐る水に飛び込んで、自分が呼吸をしていない事に初めて気が付いた。何をされるか分からず少し不安になったけれど、雪人がそっと金魚鉢に頬を寄せてくれた。


「叶冬。忘れても傍にいるから。今度こそずっと」


 雪人はきらきらと目を輝かせた。

 叶冬はうん、と小さく頷いて金魚屋の女を見上げた。


「さあ、金魚の弔いだ」


 女は両手を広げると、バンッと大きく床を踏み鳴らした。

 それを合図に、金魚鉢の水が渦を巻く。


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 渦に巻き込まれ、叶冬もぐるぐると回り出す。


「叶冬!?」

「大丈夫だよ。こうして金魚は輪廻する」


 その時ひゅうっと風が吹いた。それに合わせたたかのように渦はぴたりと止まり、何も無かったかのように凪いでいく。

 するとその中に金魚の叶冬は居なくなっていた。雪人は顔を真っ青にして金魚鉢に抱き着いた。


「叶冬!? 何、何で!?」

「おいおい、どこを見てるんだい。そりゃあもうただの鉢さあ。叶冬君はこっちだよ」

「え?」


 女はこっち、と人間の叶冬の頬を突いた。

 叶冬はくうくうと寝息を立てている。相変わらず医療器具は生きている事を示しているけれど、特に変わったようには見えない。


「あの、これ本当に戻っ――え?」


 雪人が振り返るとそこに女は居なかった。ただそこには大きな金魚鉢だけが残されていた。



 問診が終わり、もうしばらく安静にするようにと言い医師と看護師は病室を出ていった。

 やはり叶冬はまだぼうっとしている。


「かな。金魚の事覚えてる?」

「……雪祭りは金魚すくい無いぞ……」


 叶冬は何言ってんだ、と馬鹿にしたように笑った。

 覚えているともいないとも言わず、ただ笑った。


「……いや、意外とあるかもよ」

「無いって」

「じゃあ確かめよう。雪祭り再来週だから早く退院してよ」

「何だ。結局俺と行くの」


 叶冬は拗ねたように口を尖らせた。

 それは雪人が小さい頃からずっと見て来た、叶冬の照れ隠しだった。


「ごめん。ごめん、かな。一緒に行く。一緒にいさせて」

「……雪祭り、楽しみだな」


 それから、叶冬と雪人は金魚屋の話をする事は一度も無かった。

 そして空飛ぶ金魚も金魚屋の女も、二人の前に現れる事は二度と無かった。

 

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