第十九話 鹿目浩輔の終わりと始まり

 ふふ、と金魚屋の女はしてやったりと言わんばかりにいやらしい笑みを浮かべた。


「どういう事ですか」

「頑張ったバイト君にインセンティブだ」


 女は俺の後ろに隠れた浩輔の顔をひょいと覗き込んだ。びくりと浩輔は震えてさらに身を引いてしまうが、女はおやおやとわざとらしく肩をすくめた。


「逃げるとは薄情な兄君だ。桜子は君を想って泣き続け、おめめが出目金のように腫れてしまったというのに」

「……桜子?」

「そうさ。君の大切な桜子さ」


 いつの間にか弟はいなくなっていて、その代わりに女の右肩にいた桜色の金魚がくるっくるっと浩輔の目の前で踊り始めた。

 桜子はぱくぱくと口を動かしているが、それだけだった。言葉を発する事ができなくなっているようで、ただ浩輔と見つめ合っているだけだった。


「じゃあ本当に、お前が桜子なのか……金魚が魂って、そんな事が……」


 俺には何の声も聞こえなかったが、浩輔は桜子と何か話しているようで会話が成立していた。事情が分からず二人に声を掛けようかと思ったが、金魚屋の女に猫の子ように首根っこを引っ張られた。


「バイト君はここまでだ。ここから先は正社員の仕事だよ」


 ぐいっと右腕も引っ張られ、見るとそこには弟がいた。


「お前は金魚の通り道を用意しておくれ。浩輔君は帰りも送ってあげないと駄目そうだ」


 弟はこくりと頷くと、たたっと庭へ出て行ってしまった。帰りという事は、やはり今俺達をここに連れて来てくれたのは彼なのか。

 けど浩輔には彼が桜子に見えているようだった。浩輔は妹に連れられてここへ来たという事になる。それなら俺と同じだ。俺は沙耶に連れられてここへ来たつもりだった。まさかあれも弟だったのだろうか。

 俺は自分の足で歩いて行ったけど、よく考えれば金魚屋は日常とは異なる場所だ。歩いていてもそこは異次元のような場所で、あれも金魚の通り道だったのかもしれない。

 女は浩輔と桜子を連れて、俺が出目金になった沙耶を連れて歩いた通路を通って葬儀場へ向かっていった。

 俺もこっそりとその後を付いていくが、浩輔は桜子と何かを話しているようだった。次第に目に涙を溜め、こらえきれずに泣き出してしまった。

 それにしても順応性が高い。いきなりこの状況に馴染むというのはなかなかのものだ。俺はそこそこ慌てた記憶があるが、あれは俺だけなのだろうか。

 だがここに来る人間の様子を思い返すと、あまり金魚と金魚屋に驚く様子は無い。もしかしたら普通はここに来て金魚を連れ帰るか弔うかの過程を疑問に思わないような、魔法的な何かが作用するのかもしれない。じゃなければこんな状況をすんなり受け入れるはずがない。沙耶のように依頼をして何かをするのは特殊事例のようだし、きっとこれが普通なんだろう。

 そしてあっという間に葬儀場に到着した。桜子と浩輔はずっと何かを話していて、浩輔は涙を流しているけれどそれでも笑顔を見せていた。

 浩輔は女から金魚鉢を受け取ると、桜子はそこにぽちゃんと飛び込んだ。


「さあ、金魚の弔いだ」


 桜子の入っている金魚鉢の水がぐるぐると渦巻くほどに回り出した。


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 ぐるぐる


 ひゅうっと風が吹いた。

 ああ、これで桜子は本当にいなくなってしまうのか。最期に少しでも話したかったなと思っていると、そこにふわりと女の子の姿が見えた。


「……え?」


 それは写真で見た桜子の姿だった。また弟が化けているんだろうか。だが弟はさっき外に出ていったはずだ。ではこれは。


「まさか、人に戻ったのか?」


 金魚が人間に戻る事は無いと金魚屋の女は言っていた。女を見ると、彼女も吃驚したようで目をひん剥いている。桜子自身も驚いたようで、顔をペタペタと触り手足がある事を確かめていた。

 けれど一番驚いていたのは浩輔だった。抱き着こうとしたけれどそれは無理で、その手はするりと宙を撫でてしまう。それが寂しさを感じさせたのか、浩輔はぼろぼろと涙を流した。桜子は慌てて浩輔を抱きしめるようにして、二、三会話をすると浩輔はまた笑顔に戻っていった。

 そして浩輔が桜子に何かを告げると、桜子はまるで金魚が泳ぐように消えていった。

 浩輔は桜子が泳いで行った天井を見上げていた。その目にはまだ少しだけ涙が溜まっていた。


「鹿目!」

「……宮村?」

「大丈夫か? 倒れたんだぞ」

「倒れた……?」


 俺の布団で横になってた浩輔はゆっくりと身体を起こした。どこかぼうっとしていて、ええと、と額を抑えている。

 金魚屋の女が言うには、金魚や金魚屋の事は忘れてしまうらしい。


「忘れる? 今桜子と話した事も?」

「そうだよ。じゃなきゃ今頃UFOより金魚の方が大人気だろうよ」

「俺がっつり覚えてますけど」

「ずっと憑かれてたんだろうね。君達兄妹は色々おかしいからよく分からないよ」

「じゃあせっかく立ち直っても意味無いって事じゃないですか」

「そんな事は無い。金魚との対話は魂の通い合わせだ。桜子の想いは浩輔の魂に刻まれたのだ。記憶が無くても魂が覚えているよ」


 一体何で俺がそんなイレギュラーなのかは分からないが、とにかく普通はこうして忘れてしまうらしい。

 それでも女の言う通り、浩輔はどこかスッキリしたような顔をしていた。


「宮村。あのさ、その……」

「ん?」

「よかったら、なんだけど。その、桜子の墓参りに来てくれないかな」

「俺? いいの?」

「うん。何となく……お前を連れて行かないといけない気がする……」

「……そっか。うん。行くよ」


 これもきっと桜子の想いが刻まれたからだろう。最期に挨拶もできなかったけど、桜子は喜んでくれたに違いない。


「依頼完了、だな」


 約束した通り、浩輔は俺を桜子の墓参りに連れて来てくれた。入園の際に記帳を求められたので名前を書いていると、浩輔がへえ、と言った。


「宮村って夏生まれなの?」

「惜しい。十二月八日だ」

「全然違うじゃないか……」

「あはは。うん。違う。父親が樹生いつきで母親が夏海なつみだったんだよ。んで、足して二で割って夏生。沙耶は待望の女の子で可愛い名前がいいってこだわったらしいけど。長男にもこだわれっつーの。桜子は春生まれ?」

「うん。生まれた時に桜が咲いてたよ。病室にもよく飾ってやってたんだ」

「俺はそういうの全然やってなかったな。花買う余裕なんてなかったし」


 聞けば聞くほど浩輔は良い兄貴だ。金銭的な生活の落差はどうしようもないけど、それでももう少し沙耶にしてやれることはあったはずだ。あの頃浩輔と知り合えていたらもう少し違っていただろうか。

 うーん、と悩んでいると、浩輔が急に顔を伏して俯いた。


「……俺さ、宮村が赦せなかったんだ。桜子が死んで苦しかった。目の前で桜子を馬鹿にされたら俺も殴るかもしれない。だから気持ちが分かるなんて……俺と同じなんだって、そんな気がしてたんだ……」


 浩輔は俺に背を向けて桜子の墓に向かってしゃがみ込んだ。そしてそのまま頭を抱えて顔を隠してしまう。


「なのに急に山岸さんと暮らして、幸せそうにしてるなんて……裏切られた、みたいに、思ってたんだ……」

「俺を気にしてたってそれ?」

「……本当はずっと話してみたかったんだ。沙耶ちゃんが自慢のお兄様なの、って言ってたから」

「大学よりずっと前から俺の事気にしてくれてたんだな」

「そんな大層なもんじゃない。ただ辛さを共有できる相手がほしかったんだ。俺もどこかで……桜子から解放されたかった……」


 高校生や大学生程度の俺らが幼い子供を任されるというのは簡単じゃない。どんなに大切でもそれだけでは補えない物理的な問題はどうしても存在する。俺と浩輔が妹のためにとった行動は真逆だったが、その経過で思っていた事は似ているのかもしれない。


「でも妹の命を繋ぐ選択ができたお前は俺とは全然違う。俺が分かってやれる事なんてきっと無かったよ」

「でも人に話す事で気が晴れたりもするよ。もしあの頃俺が宮村に声かけてたら……」


 何か違ったかもしれない。分かりあえて、助け合って、何か変わったかもしれない。

 もしかしたら俺はもっと早くに山岸さんに出会って、生活面も精神面も楽になったかもしれない。そうすれば心中なんて考えなかったかもしれない。


「もしもの話してもキリ無いから止めよう。俺達に変えられるのは自分の未来だけだ」

「……凄いな、宮村は。俺はまだそんな風に思えないよ」

「別に俺が正解ってわけじゃないよ。お前にはお前の正解がある。正解は一つじゃない」

「はは。お前カウンセラーになれそうだね」

「正解。今のはカウンセラーの受け売りだ」

「加藤さんだっけ。通ってるって本当?」

「そ。義務」


 よいしょと浩輔はようやく立ち上がった。ぐしぐしと目を拭っていて、すっかり目は赤くなっていた。


「不思議だな。お前と話してると桜子がそう言ってくれてるような気がする」


 ふと金魚屋の女の顔が頭をよぎった。


金魚屋は誰にどんな言葉を伝える?』


 俺は金魚屋のアルバイト業務をこなせただろうか。弔う以外の事ができたのだろうか。


「なあ。沙耶ちゃんは最期どんなだった?」

「金魚みたいだったよ」


 空を見上げると夕日が真っ赤に染め上げていた。それはまるで、たくさんの金魚が埋め尽くしているようだった。

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