第十六話 人間が人間のためにできること
何の策も出ないまま、翌朝俺は大学へ行く前に鹿目家を訪ねた。鹿目の爺さんは快く迎えてくれて、居間へ行くと浩輔と爺さん二人で朝食を食べているところだったが、俺を見るなり浩輔は味噌汁の椀を置いて睨みつけてきた。
「……何だよ」
「大学行くだろ? 一緒に行かないか?」
「俺一限無いから」
浩輔は味噌汁を飲み干すと、白米と焼鮭、卵焼きという和朝食に手を着けないまま部屋へと駆け込んでしまった。そして、バンッ、と二階からここまで聞こえるほど強く扉を閉める音がした。
「浩輔!」
「俺ちょっと見てきます」
俺は浩輔を追って二階へ上がった。ドアをノックしても返事は無く、声を掛けても何も返してはくれない。
「爺さん食わないで待ってくれてるから降りてこいよ」
きっと下ではハラハラしながら待っている事だろう。どうみても浩輔を怒らせているだけの俺に助けを求めるなんて藁にも縋る想いではないだろうか。
死んだ人間の冥福を祈るように、生きてる人間の幸せを祈ってくれる人がいる。
金魚になる人間とならない人間がいる。金魚にならずに済むのは幸せだったからだ。幸せを願ってもらえるのなら、決して手遅れではない。
「お前を想ってくれる人を無下にするなよ。桜子だって今のお前を見たら悲しむぞ」
金魚になってまで浩輔の事を想っている桜子に今の浩輔の状態なんてとても報告できない。こうならないで欲しいと心配した姿に陥っているのだから、きっとこのままでは心残りを抱えたまま逝く事になる。何とか出て来てもらえ無いかと思い言っただけだったが、突如俺は壁に叩きつけられた。
一瞬何が起こったか分からなかったが、目の前に浩輔の顔があった。
「お前に何が分かるんだ! 自分のために妹を殺してのうのうと生きてるお前に!」
浩輔は目に涙を浮かべ、俺の襟首を掴まみ首を締め上げられてきた。だがその言葉はとても聞き覚えのある言葉だった。
『のうのうと生きてるお前に沙耶の何が分かるって言うんだ!』
俺が大学で陰口を叩いた奴に言った言葉だった。俺はそれ以上何も言えなかった。
浩輔と何も話の出来ないまま、俺は重い足取りで大学へ向かった。説得しなきゃいけないのに喧嘩してどうするんだ。
「何だ。元気ないな、宮村」
「せんせー……」
ここは数学準備室だ。この柏木先生は大学で数少ない俺の味方をしてくれる人で、勤続年数も長く五十代半ばを過ぎている偉い教授で学校側からも生徒からも信頼が厚い。まだまだ居場所の少ない俺の相談にも乗ってくれている。
「先生、鹿目浩輔って知ってる?」
「お、ついに友達になったか!」
「いや全然。鹿目の爺さんってうちのじーちゃんの友達なんですよ。鹿目の爺さんがめっちゃ心配してて」
「そりゃそうだろうな。もうずっと大学にも出てこないし」
「ずっと? 来たり来なかったりとか言ってましたけど」
「ちらほらだな。お前さんが来るようになって鹿目もよく来るようになった」
「鹿目って俺の事知ってたんですか?」
「この学校でお前を知らん奴なんかおらん」
「そうじゃなくて。直接。個人的に」
「そんなこた知らんよ。気にしてたみたいだけど校内でお前と話すの度胸いるだろ」
ぐうの音も出ない。俺自身は金魚屋で濃密な数日を過ごして色々あったが、周りからしたら気分屋で暴れるだけの男なのだから。
「鹿目も多少のいざこざはあったよ。お前が派手すぎて忘れてたけどな」
「すみませんってば」
「ごめんで済めば警察はいらん。お前が反省したって殴られた怪我は治らんし、息子を殴られた親の気が収まるわけでもない」
「……はい」
柏木先生はじーちゃんと同じような事を言う。大体の人間は俺を腫物のように扱い、言う事といえば仕方ないだの元気出せだとという言葉ばかりだ。
けど柏木先生は一度も俺を赦すような事は言わなかった。反省しろとも言わないのだ。だからこそ柏先生の言葉は俺が一人で立ち上がる支えになった。
「頭で考えたって行動しないなら何もしないのと同じだ。何かしてても何もしてなくても時間は過ぎていく。悲しいだろうが自分の未来のためにも時間を無駄にしないでほしいもんだ。就職活動だってしなきゃならんしな」
そうだ。時間は有限なのだ。桜子だけじゃない。浩輔だってそうだ。俺のように無駄な時間を過ごさせたくはない。
それから幾つかの授業を受け、あっという間に放課後になった。そして最後は登校する条件であるカウンセリングの時間だ。
「失礼します」
「いらっしゃい。あら、どうしたの。難しい顔しちゃって」
この人はカウンセラーの加藤さんだ。先生と呼ばれるのが好きじゃないらしく、さん付けで呼べと言うのでそうしている。
加藤さんのカウンセリングは特に話題が決まってるわけではなく、沙耶や殴った事についてを言及する事もあまりない。最近調子はどうか、バイトはどうだ、とか他愛もない会話をするだけだ。しかもお菓子作りが趣味だとかでいつも美味しいお菓子を出してくれる。その感想を言ったり作り方を教えてもらったり、そんな感じで三十分か一時間するとカウンセリング時間は終了だ。
だが相談援助のプロというのは、浩輔と話をしなければならない今の俺には心強い。
「今日は教えて欲しい事があるんです」
「あら、嬉しい! 何かしら」
「人を立ち直らせるのってどうしたらいいんですか?」
加藤さんはきょとんと眼を丸くした。
今まで俺から提供する話題なんて簡単な日常会話だけだった。基本的に加藤さんが話を盛り上げてくれるのを聞くばっかりだ。それだけにいかにも『悩み』のような話をするのに驚いたのだろう。
加藤さんはそれについては深掘りせず、そうね、と真面目に向き合ってくれた。
「正解は無いわ。強いて言うならその人に寄り添う事かしらね」
「じゃあ俺みたいに妹を死なせた兄貴を今日中に立ち直らせるにはどうしたらいいと思います?」
「今日中? それはまた難しいわね……」
それはそうだろう。そんな事ができるなら俺がここに通い続ける必要だってない。
加藤さんはうーん、と少し首を捻って眉をひそめた。
「立ち直ったかどうかなんて目に見えるものじゃないわ。今日立ち直っても明日はまた挫けちゃうかもしれない。立ち直るっていうのは自分とどう向き合うかなのよ。でも、そうね。視点を切り替える必要はあると思うわ」
加藤さんは常設のホワイトボードに向かって立つと何かを描き始めた。
「これなんていう図形か分かる?」
「二等辺三角形」
「その通り。じゃあこれは?」
「円」
「そうね。でも実は……」
キュッキュッともう一つ図形を描きだすと、そこには平面の図形ではなく立体が描かれていた。
「これは円錐だったの。真横から見たら二等辺三角形だけど上から見れば円。宮村君からしたら円や円錐だと言う人の方が間違ってるだろうけど、どれも間違ってないわよね」
物の見方は人それぞれだというのは何度も教えられた話だった。それはじーちゃんや柏木先生にも言われた。この世は自分が正義なわけじゃないのだと。
「宮村君は自分が妹さんを殺したという二等辺三角形しか見えてなかったのね。でも山岸さんのおかげで新しい家族っていう違う側面が見えるようになった。円錐だったって気付いたのよ。今見えてるものが全てじゃないって気付いたから宮村君は立ち直れたんじゃないかなと私は思ってる」
だがそのきっかけを作ってくれたのは沙耶だ。俺の力じゃない。
「視点を切り替えるって自分一人じゃできないのよ。そこに宮村君が何をしてあげるかは自分で考えないとね」
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