それから、『愚か者』は。

 それから六年後。中学を卒業した後、俺は高校には行かなかった。三年間で三百万円を貯めることを目標に、俺はアルバイトに明け暮れた。ほぼ毎日休まずに掛け持ちのバイトを続けて、そして目的だった三百万を貯めることに成功したのだ。

「お疲れ様でした」

 『家』から程近い場所にある居酒屋。メインのバイト先で地域密集型という名の、単純にそれほど規模を大きくできていないチェーン店だ。

「お疲れ~。こっちももうちょいで終わるから待っててね」

「勿論、まだ貰うもの貰ってないですし」

「確かに」

 珍しい、と思う。いや、そんなことを言えば、そもそもこうして精算などの終業業務を店長がやっていること自体が結構珍しいことだ。信頼されているというかものぐさというか、いつもなら店長は厨房の後片付けが終わると残りの締め作業は全て俺に任せて帰ってしまう。経営者としてどうなのかと思い、一度聞いてみたことがあるが「だって君悪いことしないでしょ。それにちょっとくらい金ちょろまかされても別にいいしね」とのことだった。よくも悪くも緩いのが店長の性分だ。

 まぁこちらとしても深夜料金で残業代は貰っているし、本当に疲れている時や予め言っておけば残ってくれるのでさほど文句がある訳でもない。しかし、今日は平日でそういう例外の日ではない。つまり、普通なら店長はもう帰っていてもおかしくない。

 ただ一点、俺が今日で辞めるということを除いて、今日は本当に普通の日だった。

「そうだ、まだビールサーバーとか締めて洗浄とか終わってないなら、一杯くらいなら飲んでもいいよ。チューハイのサーバーの方でもいいし。あ、焼酎は原価が高いから勘弁で」

「未成年ですよ、俺は。まだ」

「選挙権持ってんだし、実質大人でしょうよ。それに俺がこうしてせかせかと売上の計算をしてる間に君が勝手に飲んだ分に関しては責任はないしね。せいぜい「注意不足でした」って始末書書くくらいだろうし」

「本当によくもまぁそれで店長やっていけますよね。……代わりに冷蔵庫の中の缶コーラ貰っていいですか?」

「小さい方ならいいよ」

「ありがとうございます」

 プシュ、という音を立て缶を開ける。軽く振ってしまったらしく、少しだけコーラが溢れそうになるのを慌ててずずっと啜る。

 甘さと強い炭酸が喉を刺激する。疲労の溜まっている身体に染みていくようだ。

「構わないよ。三年間本当に真面目に働いてくれたからね。コーラ缶一本でそのお礼になるとは思ってないよ。ウチの奥さんからもちゃんと義理は返しなさいって言われてるしね。いやぁ流石は俺の嫁、可愛い上に優しい。あと娘も可愛い」

「急に惚気けないでくださいよ」

 こんな適当な人でも結婚していて、しかも既に小学校入学直前の娘さんがいるらしい。それを聞いた時は本当に驚いた。本当かとつい余計なことを口走ってしまい、奥さんの可愛いところや優しいところ気の利くところ、娘さんの無邪気なところや寝顔の可愛さにその他諸々と、惚気話に延々と突き合わされたことをよく覚えている。

「ほい、やっと終わり、と。じゃあ、君が飲まないから俺が飲もうっと」

「自転車押して帰ってくださいよ」

「バレなきゃセーフだよ」

 それを立場と責任のある大人が言うのはどうなのだろうか、と思わなくもないが口には出さない。世の中というのはそういうものだ。誰もが律儀に真面目に生きていたら破綻する。どこかでみんな手を抜いているし、少しだけズルをしているものだ。

「さてさてお待たせ。えっとまずはコレ。はい、最後のお給料だよっと」

「ありがとうございます。すみません、なんか無理言っちゃって」

 本来ならしばらく後に会社に伝えている銀行口座に振り込まれる予定だった最後の給料。それを無理言って、退職の日に貰えるようにとお願いしていた。

「別に大丈夫だよ。そこまで厳格に規則を護らないといけない程、大きな会社じゃないからね。このくらいの融通は利くよ。――んで、はいこれがボーナス」

「は?」

 ボーナス。そんなものはこれまで貰ったことはなかった。正確に言えば数千円から一万円内の特定報酬なんかはあったが、そういうのは全てその月の給料に含まれていた。別途で封筒を用意されるようなことは、初めてだ。

「会社からじゃないよ。言ったでしょ、俺の優しくて可愛い奥さんが――」

「いやいやいや! そんなの貰えないですよ」

 会社からではない。となればそれは店長とその奥さんの自腹ということになる。封筒から透けて確認できただけで数万はあるはずだ。そんなものおいそれと貰える訳がない。

「いやいやいや、コレ貰ってくれないと妻と娘が口を利いてくれなくなる。そんなの普通に死ねる」

「…………」

 はぁ、と思わず大きな溜息が漏れる。抵抗する気力がどこかに霧散してしまった。

「分かりました、受け取ります」

「二言はないね?」

「まぁ、はい。……で、これ結局いくらあるんですか」

「十万」

「はぁっ!?」

 あまりにも大きな金額に思わず声を出してしまう。

「おっとクーリングオフ制度はないよ。二言はないんでしょ?」

「いや、ですけど!」

「いいんのいいの。そのくらい別に痛くも痒くもないよ。致命傷くらいだって」

「じゃあ駄目じゃないですか!?」

「……あのね。君の目的は知らないけど、高校にも行かずにずっとバイトばっかりしてさ、何なら君掛け持ちで丸々一日休みの日なんてないんでしょ? そんなのは異常だし、そういうのを大人は見過ごしちゃ普通駄目なんだよ」

「…………」

「別に全人類が絶対に学校に行けって言ってんじゃないよ。何か事情があるなら行かなくてもいいと思う。だけど、行くという選択肢があるなら行った方がいい。良くも悪くも、高校は小学校中学校とは違う経験ができる。そしてそれは結構人生において重要なことが多い。だから、行って得も損もしないかもだけど、経験はできる。んでもって、その経験ができるはずの君みたいな子が、高校に行かないっていう選択肢を取らざるを得ないっていうなら、それは何かが間違ってるんだよ。社会とか世界とか、そういう大きな何かがね」

 正しい。俺がいわゆる社会のレールと呼ばれているモノから完全に脱線していることは自覚している。将来設計と呼ばれるモノは何もなく、かなり刹那的な人生を送っていることも。

 そして俺がそんなことになっている理由が、世界が間違っているからだということも。

「ま、大人としてそういう子供は見てられないんだよ。君がこのあと野垂れ死んだとして何もしなかった、できなかったって後悔するよりもこうやってお小言と説教垂れた方が精神的に楽なの。だから君の為っていうよりは俺達の為。そういう打算的な施しだと思って受け取って」

「……分かりました」

 そこまで言われて、それでも尚食い下がることはできなかった。何よりこの押し問答は俺が黙って金を受け取るまで続くのが目に見えている。だから引き下がるしか無かった。

「ま、今度は客として俺がひぃひぃ言ってるところを見に来てよ」

「ええ、ひとまず色々と落ち着いたら、多分そうします」

「待ってるよ」

 その後は店長と他愛もない話をして、それで終わり。帰路に就く前、マウンテンバイクに跨がる前に、一度だけ深く礼をした。

 三年間働いた店の退職はそれで終わりだった。

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