第4話 魚屋

 光の家は、楓の家からは少し離れていた。最寄り駅からも少し、遠い。商店街の中の魚屋で、自宅も兼ねていた。昔は繁盛したであろう商店街も、今や近隣に出来た大型スーパーの煽りを受け、更に、経営者の高齢化と、後継者不足で、今はシャッター街となっていた。『○○商店街』と、市名がデカデカと掲示された色鮮やかな、商店街のアーケードは、所々塗装が剥がれ落ちていた。魚屋の看板も、文字が消えかけており、年季を感じる。今や、営業しているのは、光の父、光雄の魚屋と、布団屋、和菓子屋、駄菓子屋のみと、なってしまっていた。布団屋は、数日前から締まっている。そんな中でも、常連客に支えられ、何とか辛うじて、経営している状態だった。

「おう!お帰り!」

光雄の腹の底から出る、威勢の良い、大きな声が聞こえた。頭には捻り鉢巻き。腰には青い前掛け。

共に、年期が入り、くすんでいる。

「ただいま」

光は、表情変えずに答えた。階段を昇ると、ギシギシと音を立てた。年期の入った建物は、今にも崩れそうだ。だか、幾度の台風にも、耐え忍んでいる。その後ろに、鈴子が続く。部屋に入ると、光は畳の上の座布団に腰掛けた。鈴子に話し掛ける。

(うちは狭いけど、ここでくつろいでね)

(とんでもないです。こちらこそ、おまねきいただき、ありがとうございます)

姿は見えないが、鈴子が丁寧に頭を下げているのが目に浮かんだ。楓の家で見た鈴子は、小学生くらいに見えたのを思い出す。

(鈴子ちゃんは、何歳なの?)

(わたしは8さいになります)

思わず声が漏れた。とてもしっかりした話し方と、礼儀正しさで、感心してしまった。

(探す手助けを出来ればと考えてる。出来れば、お母さんの名前、特徴を教えて欲しい)

(おかあさんのなまえ、なぜだかおもいだせなくて、、、。おかあさんは、いつもにこにこしていて、おでこがでていて、かみのけをおだんごにしていたの。くうしゅうけいほうでにげてて、おかあさんとてをつないでいたけど、あしをすべらせて、さかをころげおちてしまったの。そのときに、わたしもおかあさんも、あたまをつよくうって、きをうしなっていたの。きづいたら、しんでしまっていて。めのまえには、わたしもおかあさんも、ふくがはだけていて。あたまのないわたしがいて、しんでいた、、、)

鈴子は、そこで言葉を詰まらせた。抱き締められるのならば、鈴子を抱き締めてあげたいと、光は思った。頭を打って、意識が無いところを襲われた?殺された?何て酷い事をするのだろうか。同じ人間なのだろうかと、光は考えていた。

(辛いのに、話してくれてありがとう。絶対に、お母さんを探そうね!)

(ありがとうございます。ほんとうに、ありがとう、、、)

鈴子の声は、涙声で震えていた。


 光雄が声を張り上げていると、馴染み客のヨネおばあさんがやって来た。

「威勢がいい声だねぇ。こちらも元気になりますよ。お魚、下さいな」

小柄で肩までの白髪を、後ろで結んでいる。

その背中は丸まっており、手元には杖があるものの、足取りは震えており、転倒しないか冷や冷やする。

「ばあちゃん、いつもありがとう!今日は、秋刀魚がお勧めだよ」

「じゃあ、秋刀魚を頂きますね」

光雄は、ほぼ連日買いに来てくれるヨネおばあさんの為に、予め出来る限りの骨を取り除いていた秋刀魚を袋に入れる。ヨネおばあさんは、財布ごと光雄に預ける。財布を預かった光雄は、料金分を抜き取り、お会計を済ませる。年々目が悪くなり、手元も震えてしまい、財布ごと預けてしまった方が早いと思ったのが、もう何年も前からの事だった。長年の信頼関係があってこそだった。

「おばあちゃん!!」

階段をギシギシと、勢い良く降りてきた光が声をあげる。

「あぁ、光ちゃん。今日もね、美味しいお魚を買いに来たよ!」

「父さん!駄菓子、買いに行ってもいい?!」

光雄からお小遣いを貰い、ヨネおばあさんの魚が入った袋を持ち、体を支えながら、光は自宅を後にした。


 光の母は、持病があり、光を出産してから直ぐに亡くなった。なので、母親の記憶は無い。光雄から聞いた話しと、アルバムの中の写真に写るきらきらとした笑顔の母親が、光の中での思い出だった。そんな光を本当の孫のように可愛がってくれたのが、ヨネおばあさんだった。

 光のお母さんの話も沢山してくれた。妊娠した時にとても喜んでいて、生まれてくる赤ちゃんに早く会いたいと話していた事。赤ちゃんが女の子と分かると、ヨネおばあさんと2人で、肌着や、光が2歳くらいまでの服を、デパートに買いに行った事。レストランで互いに日頃の愚痴を言い合った事。光にとっては、ヨネおばあさんだが、光の母にとっては、お母さん的な存在だったのだろう。

 ヨネおばあさんはよく、言っていた。

『光ちゃんのお母さんはね、本当に心が綺麗で、優しい人だったんだよ。光ちゃんが生まれてきたらね、生まれてきてくれて、ありがとう。困っている人に、手を差し伸べられる、優しい人になって欲しいって、言ってたのよ』

光は、ヨネおばあさんから聞いた、亡き母の思いを、胸に刻んでいた。


 光雄と光の母は、駆け落ち婚だったと聞いたのは、光が中学生になってからだった。通常ならば、多感な時期で、そんな話しはしないだろうが、光には反抗期はとうに過ぎており、また、色々理解し始めていると思い、光雄が話してくれたと考えていた。

 光雄は、先祖代々続く魚屋で、光の母は大学教授だった。母は、親の決めた許嫁がいたが、自分の将来は自分で決めたい!と、着の身着のまま家を飛び出し、光雄と結婚したのだった。どのように知り合い、どのように恋に発展し、結婚に至ったかは、光雄からは聞いておらず、光も結果、自分がこうして、生を受けているので、聞かなくても良いと考えていた。

 光の母が亡くなり、光が3歳前頃から、光雄はの様に、飲み歩くようになった。光はそのたびに、ヨネおばあちゃんに預けられた。普通ならば、悲しい気持ちになる。だが、ヨネおばあさんと、折り紙で遊んだ事、絵本を読んで貰った事、楽しい記憶しかないので、悲しさは無かった。光雄が再婚相手を連れて来た時が、悲しかった。その時が光の反抗期だった。

 突然、光雄が再婚し、再婚相手を自宅に連れて来たのだ。光がその再婚相手に初めて会ったのは、再婚した後だった。自宅に連れて来た時も、事前に会わせず、相談も無しに勝手に決めた光雄に怒り浸透だったが、今になって思えば、男で一つで子育て、仕事で、思い詰めていたのかもしれないし、心の拠り所が欲しかったのかもと、考えられるようになっていた。

 光雄の再婚相手は、腰までの茶色い髪、化粧は濃く、ピチピチの服、ミニスカート、真っ赤な口紅とマニキュア。何より、鼻が曲がりそうなくらいの、香水の匂いだった。

 初対面の光に、再婚相手は、作り笑顔で挨拶した。

「光ちゃん、こんにちは!」

その時だった、その言葉と同時に、

(邪魔なクソガキだな)

という言葉が聞こえてきた。それが、光の力の始まりだった。それからが、光の戦いだった。朝から晩まで、その再婚相手は父の前や、光の前でご機嫌取りを始めた。たが、言葉とは裏腹に、光を快く思ってはいなかった。光は聞きたくもない、心の言葉を朝から晩まで聞かされ、疲弊していた。

 そんなある朝の事だった。3人で朝食を食べていると、いつも通りに、

「光ちゃん、残さず食べようね!」

(さっさと、食えよ、クソガキ!洗い物めんどくせー!何で私がガキのご飯作らなきゃならないの?!)

光は、再婚相手を睨みつけて、心で叫んだ。

(ガキじゃない!!光!名前で呼べ!!お前こそこの家を出ていけ!!)

この時に、光は自分の考えを念じて、相手に伝える力を発揮した。毎日毎日、聞こえてくる再婚相手の悪口に、対抗する為、自分の声を相手に伝える特訓を、密かにしていた。言い負かされっぱなしの、光ではなかった。特訓の練習相手は、野良猫のジャンボ。灰色のもふもふとした毛が特徴で、何より体の大きな野良猫だった。ジャンボと会話が出来た時は、大喜びした。

 光の心の声を聞いた再婚相手は、顔面蒼白になり、手にした茶碗と、箸を落とした。茶碗の割れる音。飛び散る破片。再婚相手は、ハンドバッグを手にすると、家を出て行った。暫くして、光雄は離婚した。

 後日、ヨネおばあさんに会った時、光をぎゅっと抱きしめて、こう言った。

「光ちゃん、私はね、いつも光ちゃんの味方だからね。どんなに辛いことがあってもね、人は前に進んで生きていかなければならないの。それがね、人生だからね。辛いときには、心が折れそうになる。自分の事しか考えられなくなる。けどね、光ちゃんの周りにはあなたを愛してる、大好きな人がいることを忘れないでね。この、ヨネばあさんがいつもいるからね」

光はヨネおばあさんの胸で、声を出して泣いた。


 

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