1・3契約
男が消えると私たちはいつも通りに遊んだ。小さい子供たちと走り回ったり、大きな子供たちの読み書きを見たり。
端から見たら公爵令嬢の慈善、かもしれない。けれど私にとっては週に一度の息抜きだ。
この孤児院にたどり着いたのは一年ほど前。街で偶然ここの子供たちと知り合って通うようになった。
楽しいけれど。
今まで何もなかったからと言って、この先もそうとは限らない。
ある日突然、日常が破壊されるのを私は経験したじゃないか。
ゲームが始まるまで、死んでしまうことはないだろうけど、なんの危険もないわけじゃないんだ。
実は私の元婚約者も、現在行方不明だ。
私たち一行が盗賊に襲われて、着の身着のままで都へ戻っている最中に隣国ではクーデターが起こった。王家は断絶させられ、生死不明の人も多いという。
私がもし予定通りに旅をしていたら、確実にクーデターに巻き込まれていた。
この世界はどことなく不穏だ。
◇◇
帰る時間となり教会へ入ると、あの男は座面の狭い参列席に器用に横になって眠っていた。
だけど顔は見えないままだ。やっぱり怪しい。
声をかけようとすると男はもぞもぞと動いて、起き上がった。
寝ていなかったのか。
「帰るか?」
声がちょっとかすれている。意外にもセクシーだ。
やっぱり眠っていたのかな? ま、どっちでもいいんだけどさ。
「うん。でもその前にお願いがあるの」
「なんだよ。金額アップするぞ」
「週一回、護衛してくれないかな。ここへの行き帰り」
帽子と前髪で男の目は見えないのだけど、それでも私をまじまじと見ているのがわかった。
「もちろん毎回銀貨三枚を払うよ」
「……会ったばかりの男を信用するのか?」
呆れた口調だ。
「仕方ないでしょ。他に頼める知り合いがいないんだもの」
そりゃ屋敷には護衛やら侍従やらはいるけれど、頼れない。外出を止められちゃうからね。
「銀貨三枚なんて、相場の倍以上だぜ?世間知らずのお嬢ちゃん」
「そうなの? じゃあ1枚でいい?」
男はため息をついた。
「俺に頼まない選択肢は?」
「ない!」
「変なお嬢ちゃんだ」
男は立ち上がった。
「歩きながら話そうぜ」
「……了承ってことでいいのかな?」
「もちろん条件があんぞ。これでも忙しいんだよ、俺は」
そういえば、さっきも忙しいと言っていたな。こんな平日の昼間にプラプラしているのに。
「なんの仕事をしているの?」
「ヒモ」
「ひも?」
ひも? 紐? 干物?
「ほら、帰るぞ。家はどこだ?」
「あ、えーと」ちょっとだけ迷って。でも正直に。「私の名前はアンヌローザ・ラムゼトゥール」
男は足を止めた。
「父はラムゼトゥール公爵。税金を上げた嫌な宰相よ」
男はちっと舌打ちをした。
「厄介なのを拾っちまったか」
「でも家は分かりやすいよ」
「……そうかい。ま、善良な市民を代表してラムゼトゥールから金をむしりとってやるのもいいか」
「……あなたはあまり善良な市民には見えないけどね」
男は鼻を鳴らした。けれど契約成立と考えていいのだろう。
私は右手を差し出した。男は僅かな間のあと、それを握った。その手は体のわりに大きくて、ゴツゴツしていた。
「名前は?」
「リヒター」
「そう、よろしくね。リヒター」
「ほんと、変な女だな、お前」
『宮廷の恋と陰謀』にリヒターという名のキャラはいない。もちろんこの怪しげな男が本名を名乗ったとは限らないけどさ。
ゲームを序盤までしかやってないから、悪役令嬢がどんな結末を迎えるのか詳しくは知らない。だけどネット情報によると、どんなエンドでも悲惨だという。
回避するための努力は惜しまないけれど、万が一という場合もある。そんな時に備えて、貴族社会とは関係がなさそうで、自称ごろつきに顔が利くリヒターとの縁を保っておくのは良策だよね。お金さえ払えば逃げ道を用意してもらえるかもしれない。
教会を出て子供たちに別れを告げる。また来週ねと約束をすれば、みんな嬉しそうな顔をしてくれる。
ここは私の大事な居場所だ。
公爵令嬢ではない、素の私でいられる。
しばらく歩いて追いかけてくる子供がいなくなると。
「あんたって全く公爵令嬢って感じじゃねえな」
とリヒターが言った。
「そうね。自覚はあるよ。でもなんであなたは私がいいところのお嬢様ってわかったの?」
服装は完璧に町娘だし、素の私は喋り方だって庶民ぽいはずだ。ロザリオは高価な品かもしれないけどさ。
「手」
「手?」
自分の両手をまじまじと見る。
「町娘はそんな手をしてねえよ。それはティーカップより重いもんを持ったことがねえ奴らの手だ」
私の手は普通の手だと思った。だけどそれこそがこの世界では、生活に苦労をしてない人種の証なんだ。
「気がつかなった」
「傲慢なお嬢様にはわからねえことだろ。庶民がどんな手をしてるかなんてよ」
そう言うリヒターの左手には甲に大きな傷痕がある。自分を傲慢だとは思いたくないけど……。どんなに馴染めなくても、私はやはり公爵令嬢なんだ。
「ありがとう、リヒター」
「何が?」
「傲慢さに気がつかせてくれて」
前世が庶民だから、今の自分の立場がたとえ公爵令嬢だとしても、気持ちは庶民だと思っていた。
それに私は自分の運命を知っている、という傲慢もあるようだ。
どこかでやっぱり、私はゲーム開始まで安全と思っていたに違いない。
盗賊に襲われたのは地方だった。あれはイレギュラーだ、都内の昼間なら大丈夫、と。
「それから助けてくれたことも。護衛も引き受けてくれたことも。ちゃんとお代金は払うし、危険なことがあったときは上乗せするね」
「……それなら、上乗せはがっつり貰うぜ」
「もちろんよ。私の取り柄なんてお金持ちなことぐらいしかないもの」
「……まあまあ美人だぜ?」
「あ、そっか」
記憶を取り戻したころは、自分の美少女ぶりに舞い上がって鏡ばかり見てたんだけど。美人は三日で見飽きるってほんとだね。
「忘れてたよ。だけどさ、『まあまあ』ってことはないよね?『けっこうな』美人でしょ?」
「……変な女」
その声はほんの少しだけ、楽しそうに響いた。
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