第16話 どうしても許せない

 ベルの背中に乗り、雲の上を飛んでいた。こうしてドラゴンの背で、空を味わうのは、実は、初めてではない。



 あのとき乗っていたドラゴンは、ベルではなかった。


『うわあ! ドラゴンだ! おっきい!』


 彼女は、白銀はくぎんのドラゴンだった。角の先からうろこの先端まで、磨き抜かれたように輝いている、美しいドラゴンだった。


『なぜ、子を連れてきた?』

『待つように言っても聞かなかったので……』

『──まあよい』


 背中のママとドラゴンの会話を聞き流していると、はしゃぎすぎた私は、どんどん眠くなっていった。もっと、ママと一緒にいたかったけれど、眠気に逆らえず、ママにもたれかかって、とうとう寝てしまった。




 それが、ママと過ごすことのできる、最後の時間だとも知らずに。



「ボク、すごく怖かった」


 回想に浸っていた思考が、ベルの声で現実に呼び戻される。気づけばベルは、人気ひとけのない平原に降り立っていた。おそらく、ミーザス平原だ。


 私が地に足をつけると、ベルはドラゴンの姿のままで、私の正面に向き直った。


「怒ってるアイネを見て、今度こそ、本当に嫌われたんじゃないかって、怖かった。もう二度と、話してもらえないんじゃないかって。アイネを助けるのなんて簡単だったし、人風情、ゴミくらい容易く倒せるし、銃弾ごとき、痛くもかゆくもないけどさ」


 何言か多いそれを聞きながら、太ももを、脱いだ上着できつく縛り、止血する。当たりどころが悪かったのか、かなりの血が流れていった。想像すると気分が悪くなるので、考えないようにして。


「でも、撃たれそうになってるアイネを見て、初めて、嫌われててもいいから助けたいって、そう思ったんだ。そう思って、気づいたら、体が動いてた」

「……そんなの、信じない」


 また、適当なことを言っているだけに決まっている。私が謝るなと言ったから、その代わりになる言葉を探しただけだ。


 嫌われてもいいなんて、そんなこと、簡単に思えるはずがない。


 本心を言えと迫っておきながら、自分でもどうかと思う。


 だが、信じない。



 ――信じるのが、怖い。



「アイネ!」


 ベルの大声に、体が震える。先ほどの咆哮ほうこうよりは断然、小さな声で、だからこそ、しっかりと、鼓膜こまくを揺さぶった。


「アイネこそ、ボクの顔なんて、少しも見てないじゃん!」


 言われてやっと気がつく。自分こそ、正直な彼女が眩しくて――怖くて、顔が見られないのだと。


「ボクは、アイネが大好きだよ。アイネを守りたい。――でも、アイネは、ボクのことが嫌いなんじゃないかって、ずっと、怖かった」


 返事すらできなかった。彼女の言葉が恐ろしかった。なんとか顔を見ようとして、どうしても、見られなかった。


「だって、アイネ、あの日のこと、まだ怒ってるでしょ?」


 ただ、何か返事をするなら、ちゃんと顔を見たかった。だから私は、黙っていた。


「……やっぱり、そうだよね」

「待って」


 また、自分で結論を出そうとするベルに、私はうつむいたまま近づき、鱗で覆われた鼻先に抱きつく。


「もう少し、待って」


 嘘はつけない。本心を言わなくてはならない。それが、怖い。絶対にベルを傷つけると知っているから。


「いいよ。ボク、待つのは苦手だけど、ゆっくりでいいから。ちゃんと、待ってるから」


 彼女はじっとしているのが苦手で、静かなところが苦手で、重苦しいのも苦手だ。今、こうして待っているのも、きっと、すごく苦しいだろう。


 だからこそ、じっくりと時間をかけて、強い覚悟を築き上げる。


 息を吸って、数歩下がり、ベルの顔を正面から見据える。大きな緑の瞳は透き通るように真っ直ぐで、輝いていた。


「私、やっぱり、どうしても、ベルのことが許せない」


 ――彼女の顔は、悲しみや罪悪感だけで彩られているわけではなかった。少し、安心したようだった。


 だから、言葉があふれてきた。


「あの日、ドラゴンの上で寝ちゃった私を、お城に連れ帰るよう、ママに頼まれたって、前に言ってたよね。……私だって分かってる。あのとき、駄々をこねてママについていったけど、本当は、いい子で待ってなきゃいけなかったんだって」


 私が危険な目にうことを恐れて、ママはベルに、私を頼んだそうだ。


 目覚めたら、ママはいなくなっていた。あれから八年が経つ。


 ――だから、七歳のあの日、私をママのもとから引き離したベルのことが、八年経った今でも許せない。


 ひどく、幼稚な理由だ。あのとき、ママと一緒にいれば、ママは行方不明にならずに済んだのではないかと。


 それに、ベルはただ、頼まれただけなのだ。私を誰よりも愛してくれた、誰よりも優しいママに。


 それでも、どうしても、許すとは言えない。


「……もし、また同じようなことがあったら、ベルは同じ選択をするでしょ?」

「――うん、そうだね。何があっても、ボクは、アイネを守る方を優先するよ」


 自分の弱さは知っている。万に一つも、彼女に勝てる可能性などないのだと。彼女は生存している中で、最古のドラゴンだ。人類程度が及ぶ相手ではない。



「本当に、悪いと思ってるなら。私のことは放っておいてよ」



 弱い自分だけが守られるのは、嫌だ。そのせいで、大切な人と引き離されるなんて、耐えられない。


 だが、強くなろうと足掻いても、無駄なことは分かっていた。一匹のミジンコがどれだけ努力しようとも、人より強くなることなんてできない。私がどれだけ努力を積んでも、ベルには勝てない。個の力なんてそんなものだ。ママは特別だとしても。


 やはり、遠ざけるしかないのだろう。次なんて、必ずあるとは限らないのだから。後悔する前に。



「そんなの、嫌だ!」



 ベルは人の姿に戻ると、黒髪のツインテールを揺らしながら駆け寄ってきて、私の手を割れ物のように優しく取り、緑の双眸そうぼうから涙をこぼす。こぼしながら、私の黒い瞳を、両目いっぱいに映す。


「嫌だ! アイネまでいなくなったら、ボク、本当に一人になっちゃう……」

「私から、ママを取り上げたくせに! それをあんたが言うの!?」

「そんなの、お母さんに甘えてるアイネが悪いじゃん! いつまでも、ママ、ママ、って、いい加減自立しなよ!」

「そんなの言われなくても分かってる!! 分かってる、もん……っ」

「――アイネ、泣く?」

「泣かないっ!」


 涙をぬぐい、上を向くと、太陽がまぶしくて、目がやられた。


「まぶぢい。……眩しくて、目から汗出てるだけだもん」

「あー! 泣き虫アイネちゃんだー!」

「だから! 目汗なの! 涙じゃないの!」


 って、いかんいかん。ちゃんと、ベルの顔を見なきゃ。


 でも、前を向くと、顔中の汁が、だらーって、垂れてっちゃう。


「うわ、汚ない顔。もっとかわいく泣けないの?」

「自分だって泣いてるくせに! それに私はいつでもかわいいの!」

「うわぁ、ナルシストアイネちゃんだ。てかボク、思うんだけど、顔を見て話すってさ、気持ちの話じゃない? だって、アイネは耳の方がいいでしょ?」

「……全部垂れる前に言いなさいよ、馬鹿!」

「ごみんごみん。はは」


 緑の瞳からこぼれる涙は、太陽の光に照らされて、虹色の輝きを放っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る