第16話 どうしても許せない
ベルの背中に乗り、雲の上を飛んでいた。こうしてドラゴンの背で、空を味わうのは、実は、初めてではない。
あのとき乗っていたドラゴンは、ベルではなかった。
『うわあ! ドラゴンだ! おっきい!』
彼女は、
『なぜ、子を連れてきた?』
『待つように言っても聞かなかったので……』
『──まあよい』
背中のママとドラゴンの会話を聞き流していると、はしゃぎすぎた私は、どんどん眠くなっていった。もっと、ママと一緒にいたかったけれど、眠気に逆らえず、ママにもたれかかって、とうとう寝てしまった。
それが、ママと過ごすことのできる、最後の時間だとも知らずに。
「ボク、すごく怖かった」
回想に浸っていた思考が、ベルの声で現実に呼び戻される。気づけばベルは、
私が地に足をつけると、ベルはドラゴンの姿のままで、私の正面に向き直った。
「怒ってるアイネを見て、今度こそ、本当に嫌われたんじゃないかって、怖かった。もう二度と、話してもらえないんじゃないかって。アイネを助けるのなんて簡単だったし、人風情、ゴミくらい容易く倒せるし、銃弾ごとき、痛くもかゆくもないけどさ」
何言か多いそれを聞きながら、太ももを、脱いだ上着できつく縛り、止血する。当たりどころが悪かったのか、かなりの血が流れていった。想像すると気分が悪くなるので、考えないようにして。
「でも、撃たれそうになってるアイネを見て、初めて、嫌われててもいいから助けたいって、そう思ったんだ。そう思って、気づいたら、体が動いてた」
「……そんなの、信じない」
また、適当なことを言っているだけに決まっている。私が謝るなと言ったから、その代わりになる言葉を探しただけだ。
嫌われてもいいなんて、そんなこと、簡単に思えるはずがない。
本心を言えと迫っておきながら、自分でもどうかと思う。
だが、信じない。
――信じるのが、怖い。
「アイネ!」
ベルの大声に、体が震える。先ほどの
「アイネこそ、ボクの顔なんて、少しも見てないじゃん!」
言われてやっと気がつく。自分こそ、正直な彼女が眩しくて――怖くて、顔が見られないのだと。
「ボクは、アイネが大好きだよ。アイネを守りたい。――でも、アイネは、ボクのことが嫌いなんじゃないかって、ずっと、怖かった」
返事すらできなかった。彼女の言葉が恐ろしかった。なんとか顔を見ようとして、どうしても、見られなかった。
「だって、アイネ、あの日のこと、まだ怒ってるでしょ?」
ただ、何か返事をするなら、ちゃんと顔を見たかった。だから私は、黙っていた。
「……やっぱり、そうだよね」
「待って」
また、自分で結論を出そうとするベルに、私はうつむいたまま近づき、鱗で覆われた鼻先に抱きつく。
「もう少し、待って」
嘘はつけない。本心を言わなくてはならない。それが、怖い。絶対にベルを傷つけると知っているから。
「いいよ。ボク、待つのは苦手だけど、ゆっくりでいいから。ちゃんと、待ってるから」
彼女はじっとしているのが苦手で、静かなところが苦手で、重苦しいのも苦手だ。今、こうして待っているのも、きっと、すごく苦しいだろう。
だからこそ、じっくりと時間をかけて、強い覚悟を築き上げる。
息を吸って、数歩下がり、ベルの顔を正面から見据える。大きな緑の瞳は透き通るように真っ直ぐで、輝いていた。
「私、やっぱり、どうしても、ベルのことが許せない」
――彼女の顔は、悲しみや罪悪感だけで彩られているわけではなかった。少し、安心したようだった。
だから、言葉が
「あの日、ドラゴンの上で寝ちゃった私を、お城に連れ帰るよう、ママに頼まれたって、前に言ってたよね。……私だって分かってる。あのとき、駄々をこねてママについていったけど、本当は、いい子で待ってなきゃいけなかったんだって」
私が危険な目に
目覚めたら、ママはいなくなっていた。あれから八年が経つ。
――だから、七歳のあの日、私をママのもとから引き離したベルのことが、八年経った今でも許せない。
ひどく、幼稚な理由だ。あのとき、ママと一緒にいれば、ママは行方不明にならずに済んだのではないかと。
それに、ベルはただ、頼まれただけなのだ。私を誰よりも愛してくれた、誰よりも優しいママに。
それでも、どうしても、許すとは言えない。
「……もし、また同じようなことがあったら、ベルは同じ選択をするでしょ?」
「――うん、そうだね。何があっても、ボクは、アイネを守る方を優先するよ」
自分の弱さは知っている。万に一つも、彼女に勝てる可能性などないのだと。彼女は生存している中で、最古のドラゴンだ。人類程度が及ぶ相手ではない。
「本当に、悪いと思ってるなら。私のことは放っておいてよ」
弱い自分だけが守られるのは、嫌だ。そのせいで、大切な人と引き離されるなんて、耐えられない。
だが、強くなろうと足掻いても、無駄なことは分かっていた。一匹のミジンコがどれだけ努力しようとも、人より強くなることなんてできない。私がどれだけ努力を積んでも、ベルには勝てない。個の力なんてそんなものだ。ママは特別だとしても。
やはり、遠ざけるしかないのだろう。次なんて、必ずあるとは限らないのだから。後悔する前に。
「そんなの、嫌だ!」
ベルは人の姿に戻ると、黒髪のツインテールを揺らしながら駆け寄ってきて、私の手を割れ物のように優しく取り、緑の
「嫌だ! アイネまでいなくなったら、ボク、本当に一人になっちゃう……」
「私から、ママを取り上げたくせに! それをあんたが言うの!?」
「そんなの、お母さんに甘えてるアイネが悪いじゃん! いつまでも、ママ、ママ、って、いい加減自立しなよ!」
「そんなの言われなくても分かってる!! 分かってる、もん……っ」
「――アイネ、泣く?」
「泣かないっ!」
涙を
「まぶぢい。……眩しくて、目から汗出てるだけだもん」
「あー! 泣き虫アイネちゃんだー!」
「だから! 目汗なの! 涙じゃないの!」
って、いかんいかん。ちゃんと、ベルの顔を見なきゃ。
でも、前を向くと、顔中の汁が、だらーって、垂れてっちゃう。
「うわ、汚ない顔。もっとかわいく泣けないの?」
「自分だって泣いてるくせに! それに私はいつでもかわいいの!」
「うわぁ、ナルシストアイネちゃんだ。てかボク、思うんだけど、顔を見て話すってさ、気持ちの話じゃない? だって、アイネは耳の方がいいでしょ?」
「……全部垂れる前に言いなさいよ、馬鹿!」
「ごみんごみん。はは」
緑の瞳からこぼれる涙は、太陽の光に照らされて、虹色の輝きを放っていた。
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