第2話 訓練の音

 訓練場へ向かおうと考えていたが、ギルデの執務室しつむしつから人の気配がしたため、通り道に、部屋の前を通るルートを選ぶ。聞き耳を立てる限り、やはり中にいるらしい。コンコンコンとノックすると、


「少し、待ってくれ」


 と、中から返事がある。訓練場にはまだ、行っていなかったようだ。よほど見られてはならないものでもあるのか、ギルデは鍵を開けるのに時間がかかることが多い。


「入って――ああ、アイネちゃん!」


 私の後ろから後光でも差しているかのように、ギルデの顔は、ぱあっと明るくなった。怖い。


「今日の課題。早くして、寝てないから」

「ああ、分かった。こんな時間まで、本当によく、頑張ったね」


 一刻も早く、この場から立ち去りたいところだが、課題の確認が終わるまで、待っていなくてはならない。適当な椅子に座ると、ふわあっとあくびが出た。


「あまり、無理はしないようにね」

「自分が課題二倍にしたくせに……」

「正当な理由にもとづくものだ」

「はいはい」


 何が正当な理由だ。ギルデと呼んだだけで二倍にしたくせに。――ふわあ、また、あくびが出た。


「――あまり大変なようなら、期限を伸ばしてもいいよ」

「減らしはしないんだ……」

「勝手に減らすと、ステアに怒られるからね。それで、どうする?」

「いい。ちゃんとやるから」


 話しながらも、採点を済ませていくギルデを、私はぼんやりと見つめる。海のような緑の瞳が、私の字を追って、左から右へ、流れるように動く。ページをめくると、サンゴのような赤髪がひらひらとれる。


「そんなに見つめてどうしたんだい? パパに抱きしめてほしいのかな? 遠慮なんてしなくていいさ、さあ、僕の胸に飛び込んでおいで!」

「いや、頼んだこともないし……。別に、他に見るところがなかったから見てただけ」

「小さい頃は、あんなに抱きついてきたじゃないか」

「いつの話よっ」

「アイネちゃんが、二、三――いや、四、五、六だったかな? まあ、そのくらいのときだ、多分」

「十年以上昔だし、そこまで言うなら、歳くらい覚えておきなさいよ! 三歳のときでしょ!」

「ああ、時の流れとは残酷なものだね……」

「成長を喜べ!」

「それじゃあ、間違ったところは後日、やり直して提出するように。日記と感想文と写真はステアに渡しておくからね」


 ちらとノートを見ると、恐ろしいほどに付箋ふせんがたくさん貼られていた。あんなに頑張ったのに、なぜ。


「いいかい? 間違うのは、悪いことじゃない。やり直せばいいだけだからね」

「はいはい、聞き飽きました。じゃ」

「おやすみ、アイネ。少しでもちゃんと休むんだよ」


 ――そのたった一言の挨拶あいさつに、あふれんばかりの愛情を感じ、喉が締めつけられて、声が出なかった。


***


 仮眠を取り、すぐさま、剣の稽古けいこのため、訓練場に向かう。その間に、ギルデは訓練を始めていた。ただし、今日の師範しはんは彼ではないと聞いている。


 昔は、ギルデに習っていたが、あっという間に彼のレベルを越してしまい、今は、各地から色んな先生に来てもらっているのだ。


「アイネ姫、本日も元気なご様子ですね」

「そちらもご壮健そうけんのようで何よりです、クロスタ。お待たせしてしまい、申し訳ありません」


 クロスタは、帝国の北端に位置する島国、ヘントセレナを治める国王だ。国王ではあるものの、公務の合間を縫って、こうして度々、稽古けいこをつけに来てくれる。強さという点では、まあ、弱いのだが、それでも、見習うべき点はまだまだある。


「社交辞令は結構です。早速、お手合わせ願え――ッ!?」

「はい。承知しました」


 私に対する返事の前に、クロスタは間合いに入り、袈裟けさ斬りを放つ。咄嗟とっさに防いだはいいものの、体勢が悪い。


 すぐさま後退し、間合いの外に逃れる。向こうの方が手足が長いため、もちろん、私の剣も届かない。


「油断は禁物です。戦いの前に長々と話す敵は、相手の油断を誘っている場合がほとんどですから」

「……はい、気をつけます」


 に落ちないが、油断していたのは事実なので、否定もできない。咄嗟に防ぐ練習もしておかなくては――。


「えい」

「いだっ!?」


 肩に強い衝撃を受けて振り返ると、そこには訓練中のギルデがいた。


「油断したね、アイネちゃん?」


 ギルデはにやにやしている。殴りたい。


「敵は一人とは限りません。不意討ふいうちで殺られることも少なくありませんから、平時から常に、気配を感じ取れるように訓練しておくことをおすすめします」

「はい、そうします」


 クロスタにも指摘されたが、どうにも、に落ちない。とはいえ、実戦なら、終わっていたと考えれば、もっともではある。……あるけどさあ。


「というわけで。クロスタから学ぶことはまだ残っているが、今日は、僕とクロスタの二人を相手にしてもらうよ」

「二対一?」

「ああ。アイネなら、このくらいはこなせると、信じているからね」


 何が信じている、だ。白々しらじらしい。単にそういう訓練なだけだろうに。


「姫は、複数人を相手にした戦いをしたことがありますか?」


 クロスタの問いかけに、少しばかり考える。複数人との戦いに、慣れていないわけではないのだが。


「……ええ、一応。ただ、格下相手としか戦ったことがなくて」

「格下とは言っているが、アイネは自分が所持する部隊の兵士たち百人を相手にしても、確実に勝てるんだ」

「なるほど――。さすがは、皇帝の娘だ」


 ギルデの補足を受けて、クロスタが大きくうなずき、眼鏡を中指で押し上げる。それは事実だが、単に今まで勝てたというだけで、確実に、というのはさすがに言いすぎだ。それはともかく。


 血の皇帝――私の母は、十六のときに私を産んだ。それから三年後、十九のときに、帝国を築いた。


 次の誕生日が来たら、私は十六歳になる。そのときに、正式に帝位を継ぐつもりだ。――それなのに。


「……いえ。まだまだ、全然です」



 ――曰く。手を振り下ろせば、海が割れ。


 ――曰く。手を合わせれば、雲が散り。


 ――曰く。手を地に叩きつければ、大地が崩れる。



 そんな母の娘であるとは、到底思えないくらいに、私は、弱い。さすがに、それらの言い伝えのすべてが事実だとは思っていないが。



 そのとき、耳がぴくっと動いたのを感じた。私の意識とはかけ離れたところで、剣を握る腕がひとりでに動き、正面から首筋へと向けられる剣を打ち落とす。すぐさま伏せ、頭を背後からかすめた剣を、突き上げて飛ばす。


「やはり、アイネは考えていないときが一番強いね」

「ギルデまで、私を馬鹿だって言うつもり?」

「僕は、アイネも、アイネの父親も、馬鹿だとは思っていないさ」

「……あっそ」


 それからも、稽古は続き、徹夜明けの体で、私は昼まで剣を振り続けた。




 ――そして、倒れた。

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