第六章 雨降って地固まる02


       ×  ×  ×


 次の日、おりは気合を入れ直して学校に向かった。


すずはらさん、おはよう」

「……ん、おはよう」


 返事はしてくれるが、気もそぞろなのは見て明らかだ。ショートホームルームぎりぎりでやってきたところを見ると、今日もあちらこちらを探していたのだろう。


すずはらさん。俺にも何か手伝えることがあったら──」

だいじようぶだから」


 温度のない声で食い気味にさえぎられる。は感じない。けれど、何者も関わらせる気のない強固な意志をひしひしと感じる。

 それでもおりは。


あきらめてたまるか)


 かえでに本気できよぜつされても構わない、とかくを決めていた。


       ◆  ◆  ◆


 かえでがやってきたのは駅の近くにある公園だった。


「ここで、もしかしたら落としたのかも……」


 思い当たる場所はもう、ここしかない。いちの望みにすがって探し始める。

 この公園のしばは背が高いものが多く、ストラップくらいの大きさだと簡単にかくれてしまう。


「はやくでてきて……」


 必死でしばをかき分けながらつぶやく。

 呼吸が浅い。目の奥が熱い。どうして身体がこんなにおかしくなっているんだろう?


(そっか、私……)


 原因はストラップが見つからない不安だけではない。こうしてだれにもたよらずに行動していると、過去のおくまでいっしょに引っ張り出してしまうからだ。

 小学生のとき、男子に見た目でからかわれた。すずや他の女友達がかばってくれたけれど、あのときも自分からは決して相談しようとしなかった。すずたちが現場を見かけたからこそ助けてくれたのであって、かえでから助けを求めてはいなかった。

 れつないじめを受けたわけではない。中学も女子校に行ったことでおおむね平和だった。

 でも、今までずっと、自分はだれかにたよるのが下手なまま生きてきた。生きてきてしまった。

「あのときたよれなかった」という小さな失敗体験が積み重なって積み重なって、今、すずの助けさえ借りずにひとりでストラップを探す自分がいる。

 のうによぎったのは、最近少しずつ話すようになった、となりの席の男子。

 彼も自分を助けてくれようとした。でももうおそい。明確にきよぜつしたのは自分だから。


「もう、自分で見つけるしかない……っ」


 しばを見つめながら、なけなしの力をしぼって、かえではつぶやいた。


       ×  ×  ×


 その日の放課後。

 おりは買い出しのため寄り道していた。いつもは週末にひよりとまとめて買い出しをするのだが、今朝になってひよりが急に「今夜はお兄のエビクリームパスタが食べたい!」と言い出したためだ。


「お兄があっちこっちにふらふらするちょうどいい理由になるんじゃない?」


 ひよりに内心感謝しつつ、スーパーへ向かう。今日は買い出し目的のため、自転車移動にしていた。


(ひと雨来そうだな)


 ちかごろえない天気が続いていたが、今日は朝から夕方のような暗さだった。見上げればにごった厚い雲が立ち込めている。

 学校内をさがくしたかえでの姿を見つけることはできないだろうか、でもそんなに都合よく見つかりはしないか……などと思っていると。


すずはらさん……?)


 近くの緑豊かな公園で、かえでの姿を見つけた。ベンチの周りのしばは少しばかり背が高く、ストラップくらいの大きさのものを落としたらたちまち見失ってしまいそうだ。


「うわ……マジか」


 公園に入って自転車をめたところで、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。さほど冷たさを感じない夏の雨。念のためもってきたかさを差すも、かえでが雨を気にすることなく探し物を続けていることに気付く。

 かえではベンチにカバンを置いていた。おりもカバンを並べて置き、自転車移動時に雨が降ったとき用のレインコートでおおう。

 おりがすぐ近くまで来ても、かえでは夢中で探していて一向に気付かない。


引くぞ」


 銀のかみがこれ以上れないようにかさを差しかける。かえでがびくりとね、おどろいた顔でき、その顔からまたすぐに温度がけた。今朝も見た、静かに人をきよぜつする顔。


「……なんでここにいるの?」


 しゃがみこんだまま、しばに視線をもどして探し続ける。


「通りかかったんだよ」


 かえでかさの存在に気付き、そんなものはらないと言わんばかりにするりと移動する。夏の気配がする雨とはいえ、れればを引く。そんなことはわかっているだろうに。


「ここを探してるのはどうして?」


 かえでの動きがぴたりと止まり、ちょっとだけずかしそうにく。横顔以上は見せることのないままに、


「……このあいだ、ここですずとクレープを食べたから」


 思った以上にわいらしい理由だった。探し物の件をすずから聞いたことについてげんきゆうするつもりはないようだ。


「俺も探すの手伝うから」

「いい。かまわないで」


 かえでの声がよりこわる。すぐ目の前にいるのに、初めてとなり同士の席で話したときよりもずっと、ずっときよが遠い。急にさびしさが込み上げた。

 雨がわずかに強く、太くなる。風もいていて、かさを頭にくっつけないと飛ばされそうになる。


「いいから。俺も探す」


 かえでとなりにしゃがむ。かさは彼女の頭上にばしたまま。無防備になったおりの身体を雨風がでる。


「……なんで? 私はひとりで探したいの。手伝わなくていいから」


 ひとり、という言葉に心臓が締め付けられる。かえではスカートをまくり、ひざをついていた。れいな手も、ひざも、どろだらけになっている。


「大事なものなんだから……ぜったいに、見つけるんだから……」

 風がやみ、かえでの声が少しだけ聞こえやすくなった。


「どこ……? やだ、どこ……? はやく、でてきて……」


 おりの存在を忘れたかのように、幼子にもどったかのように、よつんばいになって背の高いしばをかきわける。

 雨にれているからわかりにくいはずなのに。

 かえでは泣き出しそうになっている、いや、もう泣いている、と思った。

 つらい目にあっていたときのひよりの姿が重なる。胸の中にこうかいしようそうかん、いら立ちがうずまき、ふくがる。

──なんで俺は、すずはらさんが泣いてるのをぼーっと見てるんだ?

 雨にれた身体のしんに火がともる。

 すぅぅ、と静かに息を吸った。


「だあぁぁ! もう!」

「きゃっ!?」


 おりの声にかえでねる。うつぷんといっしょにした声は辺りによくひびいた。


「え、えっ、と……?」


 頭が真っ白になったのか、きょとんとしているかえでの前にひざをつく。制服のよごれなどどうでもよかった。

 かえでと正面から向き合う。雨にれたれいな顔。だんであればこんな近いきよで見ただけで全身が熱くなることちがいなしだ。けれど今は、そんなふうにかれている場合じゃない。


すずはらさん」

「は、はいっ」


 しんけんこわに、かえでが反射的にひざ立ちのまま背すじをぴしっとばす。りちに手をひざについていた。


ごうじようすぎ」

「えっ」

「人の助けはちゃんと借りていいんだっての」

「えっ、あ、その……だって……」


 くちびるとがらせる仕草がなんだか幼い。それがほほましくて、少しだけ肩の力がけた。


すずはらさん。いい? 俺は、たよってもらってもぜんっぜんめいわくじゃないの! ていうかそっちのほうがうれしいから! 手伝えないときはちゃんと事情を説明して断るし!」

「あ、う、え、えぇ……?」

「……ごめん、熱くなりすぎた」


 目をぱちくりさせて混乱するかえでに頭を下げ、自分のほおをぺちぺちたたく。


「ただのおせつかいだと思って。……お願いだから、手伝わせてほしい」


 かえでがかすかに口を開けて閉じる。薄い唇を引き結び、ひざに置いた手をきゅっと握りしめた。


「……私、意地になってたと思う……。ごめんなさい、ありがとう」


 今さらだけど、お願い……と今にも消え入りそうな声でつぶやく。かえでの顔がくしゃりとゆがんだ。



「……助けて」



 すがるような声に胸がけられる。


「わかった」


 あのときはつかめなかった、心の中でびた助けを求める手。今度はそれを、しっかり、決して手放さないようにつかむ。

 ぜったいに、意地でも見つけると心にちかう。


「手分けして探そう。この公園以外で探すところはある?」

「ううん、もうないはず。交番も聞いて回ったから、道に落ちてることもないだろうし」

「わかった。じゃあ、このしばが一番あやしいわけだ」

「うん。……この辺りがかなりあやしい」

「なんで?」

「……クレープを食べてテンションが上がって、すずと追いかけっこしてたから」


 なにそのわいらしい光景?

 内心けつしながら、かえでおくをもとにしばを探す。遊んでいる子どもが気付かずにってしまったり、あるいは遠くへ投げたり……といった可能性も考え、かえですずが動き回った場所の周辺にもそうさくの手をばす。しば以外にもしげった草むらがあり、そこに小さなストラップがまぎれているとなると、見つける難易度が格段に上がる。


「ぜったいに見つける……っ」


 かえでのつぶやきには先ほどまでのそうかんはなく、代わりに強い決意がにじんでいる。雨が強くなり、ふたりの身体はもうずぶれだ。それでも構うことなく探し続ける。

 五分、十分、十五分と時間が過ぎていく。


すずはらさん。この公園の中でまだ探してないところは?」

「ちょっと待ってて。ええと……」


 かえでうでを組み、にぎこぶしをおとがいにえて考え込む。雨に打たれる中でも、いや、雨に打たれるからこそ絵になるとさえ思えた。

 これだけ必死で探すなんて……。


「よっぽど大事な形見なんだな」


 かえでがぴくりとして、おりを不思議そうに見る。


「……? 何を言ってるの……?」

「へ? だって、これだけ大事にしてるなら──」


 不意に雨が弱まり、


かえで? どうしたの?」


 落ち着いた声がをかすめた。


「……へ?」


 かえるなり、おりは、実に間のけた声をあげてしまった。

 視線の先にたたずんでいたのは、美しい女性だった。

 かたより長い銀のかみが美しく流れている。両のひとみあおい。

 かえでと同じ、ぎんぱつへきがん

 まるで、かえでが年を重ねて美しくなったような姿。

 頭によぎったのは、かえでの母という可能性だったのだが、


「おばあちゃん……」

「おばあちゃん……? え、おばあちゃん!?」


 生きてたんかい、とか。若すぎるでしょ、とか。

 あらゆるツッコミが頭をよぎり、パニックになり、何も言えないまま口をぱくぱくさせる。


「ずぶれになってるじゃない。何をしてるの、もう……」


 てきされて気付く。こうようして気にならなかったが、もはやプールに飛び込んだのかと思うほどに濡れてしまっていた。

 かえでが胸に置いた手をきゅっとにぎりしめる。


「だって、だって……おばあちゃんのプレゼントが……」


 かえでの祖母が目をぱちくりさせる。なんだかかえでと仕草が似ている。いや、正確に言えばかえでがこの人に似たのか。


「だから最近、ずっとそわそわしてたの? ……そこの男の子は? もしかしていっしょに探してくれたお友達?」

「この人はパ……クラスメイト」


 パパラッチって言おうとしただろ、今。


「初めまして。すずはらさんのクラスメイトのといいます。ストラップをいっしょに探してるところでした」

「そうなのね……ありがとう、うちの孫のわがままに付き合ってくれて」

「~~……っ!」


 かえでが口をもにょもにょとせる。色々と言いたいことがあったのだろうが、口をつぐむ仕草のわいらしさにかれた。家族の前ではこんな顔をするのか。


「しょうがないわねぇ。また作ってあげるから」

「でも、でも……」


 困ったように笑う祖母と、だだをこねる孫という構図。雨に打たれながらもなごんでいると、不意に。


「……ん……?」


 かかとに何かが当たる。草むらのぜつみようかくれた位置からのぞいているのは、見覚えのあるねこのストラップ。

 手に取ってかかげる。れてはいるものの、幸いにもどろよごれてはいなかった。


「あった……!」


 かえでき、目を見開く。

 次のしゆんかん、身体が後ろにんだ。


「がふぅっ!?」


 やわらかなしばにしたたか背中を打ち付けた。かえでにタックルされたのだと数秒おくれでにんしきする。何かうらみを買ったっけ……? いや結構覚えはあるけど……などと考えていると。


「よかった……よかった……っ」


 おりの胸に、かえでがおでこをこすりつけている。声がふるえている。


(ええと、こういうときは……)


 きんちようで手をぷるぷるさせながら、かえでの頭と背中をぽんぽんとでる。


「おやおや……」


 祖母がほほましそうに見ていて死ぬほどずかしいが、はなす気にはとうていなれなかった。

 かえでをそろりときしめ、ひとまず上体を起こす。


「ありがとう……ほんとに、ありがとう……」


 おりの前で女の子座りをして、おりの手ごとストラップをにぎりしめ、すん、すんと鼻を鳴らす。


「おばあちゃん、見つかった」

「そうだね、しっかり感謝しないと」

「いや、お礼ならもうじゆうぶんで……」


 どうにも照れくさいので、そろそろ立ち上がろうと思った矢先。

 かえでが、おりをまっすぐに見つめ、



「本当に……ありがとう。くん」



 ふわりと、小さな花がいたようなみをかべた。


(う、わ……うわ、うわ……っ)


 身体のしんに熱がともり、一気に広がる。はだらす雨が残らず蒸発したかのようにさえ思える。

 おりれるきっかけとなった、あの日のみよりはひかえめで。

 けれどいま目の前で見ているのは、間違いなくおりに向けられたみ。

 ていうか急にみようじで呼んでくれましたけどこの不意打ちずるくないですか、などと脳内がせいだいなおまつさわぎとなる。

 おりの大混乱には気付いていないようだが、祖母は察したようだった。

 すずやかなぼうから一転して、にまーっと、実に楽しそうに笑う。笑いジワはあいきようがあってとてもやさしく、てきな年の重ね方だな、と思った。


「この子は我が孫ながらめんどくさいけど……それでもいい?」

「うぇっ!? は、はいっ! ぜひとも!?」


 ちゆうで自分の返事に「何言ってんの俺!?」と気付き、不自然なくらい声が上ずる。かえでと祖母が目をぱちくりさせ、それからふたりそろってした。


くん、なに今の……っ?」


 ねこのストラップで口元をかくし、楽しげに笑う。あまりにも無防備なみのかいりよくたるや。返す言葉がまるでかばず、ただただれてしまう。


「あれ? やんでる……」


 身体をらす雨がいつの間にか降りやんでいた。

 分厚い雲がゆっくりと割れ、だいだいいろゆうが差し込む。雨にれた公園がゆうを反射して、どこかなつかしさを感じさせるやわらかな光景を作り出した。


「きれい……」


 かえでも同じことを思っていたようだ。ストラップを人差し指でちょんちょんとでながら、ゆうに照らされる公園をじっと見つめる。


「ふたりともすっかりれちゃったわね。くん、うちはすぐ近くだから、よかったらシャワーをどうぞ」

「えっ!?」


 思わぬさそいに脳が高速回転する。

 冷たい身体を温めるシャワー。

 こんこんと浴室のドアをノックする音。

 お湯加減はどう? という声にあわてて答える自分。

 ばっちりだと答えると、そう、よかった……とバスタオルを巻いたかえでが入ってきて──


(うん、ぜんぶちがってる)


 何がどうなったらかえでが乱入してくるのか。あと、シャワーでお湯加減も何もないだろうに。


「ええと……ありがたいですが、今回はえんりよさせていただきます……」

「あら残念」


 祖母が楽しげに笑う。けっこういたずら好きな面があるようだ。かえでがこんな愛らしいいたずらをしてきたられなくもだぬ自信がある。なんの自信だ。


「シャワーくらい使ってくれていいのに……」

「それはりんてきにというかじようちよてきにというか理性的にというかとにかく色々な意味でアウトなんですわかりましたか?」

「え、え、えぇ……? わ、わかった……」


 へいたんこわでまくしたてると、かえでこつにたじろいだ。理性をらす言葉を無意識につぶやくのはだめ、ぜったい。

 立ち上がり、ぐっと身体をばす。公園に来てから三十分もっていないのに、何時間も過ごしていたような気がする。あまりにものうみつな時間だった。


くん。なにかお礼がしたい」

「へ? いいよこれくらい、大したことないから──」

「何でもするから」

「マジデスカ」


 片言になってしまった。浴室でのもうそうがふたたびきあがり、そのあとどんなこうおよぶのかをあれやこれやと走馬灯のごとき速度でもうそうする。ええい、しずまれぼんのう


「……どうしたの?」


 かえでがこてんと首をかしげる。無自覚エロ、ほんとだめ、ぜったい。


「仲がいいわねぇ」


 祖母がにまにましている。このやりとりを見られるダメージがじんじようでない。


「見つかったのはもちろんうれしいけど、助けてくれたこと自体本当に感謝してるから。本当に、なんでもいいから言ってみて?」

「え、お、おおう……?」


 かえでがずいっと身を乗り出し、ふんすと鼻を鳴らす。みつを練り込んだこんぼうでぶんなぐられたかのようなここ

 んでいるわけでもなく、なおかつ今までお願いできなかったこと……。


「あー……えっと、れ、れんらくさきこうかんしてもらえる?」


 ついの宝石を思わせるへきがんがぱちくり、ぱちくり。


「……そんなことでいいの?」

「うん。……俺としては、めちゃくちゃうれしい」

「……ん、わかった」


 かえでがふにっと目を細める。無防備な仕草のひとつひとつのかいりよくが高すぎる。かえではカバンにレインコートをかけていたことに対してもていねいにお礼を言ってくれた。

 スマホを取り出し、トークアプリのれんらくさきこうかんする。


すずはらさんのれんらくさき……!)


 すずから「今はまだ早いと思うよー」と言われて何か月っただろうか。いや、そんなにってないんだけども。けれど体感ではそれくらいはっている気がする。


「(よかったわねぇ)」


 と、言わんばかりに祖母がサムズアップしている。中々おもしろい人なのかもしれない。


「早く温まらないとふたりともを引いちゃうわよ。……くん、かえでを助けてくれてありがとうね」

「あ、いえいえ……」


 かえでが祖母のとなりに立ち、深いおをする。


くん……本当にありがとう」

「どういたしまして。引かないようにな」

「うん」


 かえでれた白銀のかみの毛先をちょいちょいとつまみ、くちびるとがらせ、たたたっと小走りでおりのもとにやってくる。


「また明日」

「……っ。あ、ああ、また、明日……っ」


 視界のすみで祖母がくすくすと笑っている。かえでは小さく手をると、祖母とともに公園を出た。

 ふたりの後ろ姿を見送り、どろかわいた手を見つめる。

 のうかぶのは、この公園で見たかえでの様々な表情。

 必死な顔。

 泣きそうな顔。

 助けを求める顔。

 なみだうれしそうにする顔。

 そして──おりに向けた、やわらかなほほみ。

 心臓が今も高鳴っている。表情のひとつひとつがこんなにもりよくてきな人がいるなんて。


「……ああ~~……あんな顔見たら、もう、もう……あぁぁぁ~~」


 あんな顔を見せられたら……れなおすに決まっている。

 かえで自身がおりのことをどう思っているのかはわからないが、それでもちょっとくらいは近づけたのではないだろうか。


「……今日は打ち上げだな」


 いや、何の打ち上げなの? とひよりにツッコまれる未来が容易に予想できるが、今日くらいはかれてもいいだろう。


「くしゅんっ」


 スーパーでがっつり買い込むぞ……と気合を入れたとたんにくしゃみをひとつ。


(いったん帰って、ひよりと買い出しに行くか)


 プランをきゆうきよへんこうする。まずは手を洗って、妹にれんらくしなければ。事情を話せばきっと喜んでくれるだろう。

 人の心に深くむのは勇気がいる。うとまれることもあるだろうし、事態を悪化させることもあるだろう。

 それでも、迷いながらもんだ決断は、ちがっていなかった。

 本当に……よかった。


       ×  ×  ×


 シャワーを浴びたかえでに、祖母──ソフィアは砂糖とミルクたっぷりのホットコーヒーをれた。


「……ブラックでいいのに。子どもあつかいしないでってば」


 バスタオルでかみをわしゃわしゃしながら、かえでがぷくっとほおふくらませる。発言も仕草もわいらしい子どもそのものなのだけれど、てきすればねてしまうのでくすくすと笑うだけにとどめた。


「雨にれてつかれてるでしょう? 胃に負担がかからないようにしないと」

「……なるほど。それなら……いただきます」


 マグカップを両手で持ち、くぴり。


「ん~……おいし」

「よかったわ」


 上を見てふにっと目を細める孫を見てうれしくなる。かえでは幼いころから、ソフィアと夫がブラックコーヒーを飲んでいることにあこがれていた。ちろりとめるように飲んでは「うぇー」とうなり、砂糖をたっぷり入れていた光景を昨日のことのように思い出せる。今ではすっかりブラックがお気に入りになったけれど、今日は小さいころと同じ量の砂糖とミルクを入れた。ブラックが好きになった今でも、同じようにしがってくれるのはうれしい。


「それにしても、かえでったらひとりでずっとストラップを探してたのね」


 かえでがマグカップで口元をかくす。ずかしくなると口元をかくすクセは小さいころから変わらない。夫がごつい手でよくかくしに口元をかくしているので、きっとうつったのだろう。


「だって……他の人を巻き込んだら、めいわくだし」

すずちゃんには言ったの?」

「言った。最初は手伝ってもらったけど……やっぱりこれ以上手伝ってもらうのは悪いなって」

「そんなえんりよをするようなあいだがらじゃないでしょうに」

「う~……わかってる、けど……」


 コーヒーを飲んで、ふっと安らいだみをかべる。


「それで、あのくんって子が手伝ってくれたのね」


 かえでほおがほんのり赤らむ。


「だって……手伝わなくていいって何度言っても聞かないから……。最後は私にお説教までして手伝ってくれたの」


 彼は思った以上にだいたんなようだ。それと、かえでに負けずおとらずのがんもの。孫とは案外似た者同士なのかもしれない。


「あらあら。でも、いやじゃなかったんでしょう?」

「うん。……もしストラップが見つからなくても、すごく救われたと思う……ような、気がしないでもない、ような」


 どんどん声がすぼまっていく。うんうん、今日も孫がわいい。


「それにしても、かえでが男の子にきついて、手をにぎるなんてねぇ」

「へ? ……あ」


 ようやく自分のやったことを自覚したようで、かえでの顔がぽひっと赤くなる。


(この顔、あの子にも見せてあげたいけれど……とってもウブみたいだからげきが強すぎるかしらね)


 くすくすと笑いながら、


「ちなみに、もしあの子が提案に乗ってたら、同級生の男子がうちでシャワーを浴びてたんだけど……それについてはどう思う?」

「え、あ、う、えぇ? あ、あぅぅ……っ」


 かえでが目をぐるぐる回してあわてる。


「ごめんね、からかいすぎたわね」


 かえでが外では──家族や、すずのように親しい人以外に対しては表情がきわめて硬いことは知っている。これまでの歩みを考えればそんなふうになってしまうのも仕方がないと思っていた。どんな形であれ、幸せになってくれれば、とも。

 それが、高校に入学して二ヶ月とたないうちに、男の子に対してこんなにも豊かな表情をかべるようになるなんて。


くんには感謝しないとね)


 見たところ、彼はどこからどう考えてもかえでれている。実の孫というひいき目をいても、この子はりよくてきだ。れるのもわかる。うんうん。

 この子と彼が結ばれるのかどうかはわからないし、ましてや結ばれたからといって幸せになれるとは限らない。ソフィア自身でさえ、夫と歩む道はまだまだ半ばなのだ。

 それでも、それでも。

 いとしい孫であるかえでと、この子にやさしいみをもたらしてくれた彼が、幸せになりますように。

 いまだにあうあうとうなっているわいらしい孫を見つめながら、ソフィアは静かに願った。




Interlude


「もしもし、すず? ごめんね急に」

だいじようぶだいじようぶ~。ストラップ、見つかったんだ?」


 すずの明るい声にきんちようがほぐれる。


「う、うん。なんでわかったの……?」

「だって声が明るくなったもん。学校にいるときはもう見てらんなかったから~」

「……その、ごめんね」


 体育座りしている身体をきゅっと丸める。あとは自分で探す、と告げたときの、すずの複雑なみを思い出した。


だいじようぶだよ。でも……心配したんだぞ~?」

「……っ」


 すずの言葉にはいろんな気持ちがまっている。だから胸にみる。目の奥が熱くなる。


「……ありがと。今度からは……ちゃんとたよるから」

「お、おお? ……もしかしてなんかあった?」

「えっ」


 しまった、決意表明のつもりが完全にやぶへびだった。


「べ、べべ、べつに……っ?」

「よ~しビデオ通話にえようではないか。がさんぞ~」

「うぅぅ~……」


 もうれつに熱くなる顔をぺちぺちとでながらも──きっとこのあと、洗いざらい話してしまうんだろうなと思った。それがずかしくもあり、たまらなくうれしくもあった。

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