第六章 雨降って地固まる01

 かえでは、ちょっとだけまどっていた。


すずはらさん、おはよう」


 朝、教室の席につくなりかけられる言葉。


「……ん、お、おはよう」


 口の中で言葉を転がし、なんとか平静をよそおって返事をする。ちょっとどもったけれど、家族とすず以外の人でこれくらいなめらかに話せるならばおんだ。

 朝のホームルームまではあと少し時間があった。前の席のすずと話そうかと思ったが、すずはそのとなり──おりの前の席に座るみなとと話し込んでいる。なんだかふたりの仲が最近いい気がするけれど、すずに聞いてもはぐらかされる。これは今度じんもん(=話すまで「だーれだ?」をやり続ける、とか。おんぶして街中を走り回る、とか、そんな感じだ)をする必要がありそうだ。

 かえでの朝の行動はルーティンとも言えるほどだいたい決まっていた。

 すずと話す。

 すずが誰かと喋っていたら、今日の授業の予習の復習(なんだか変な言い回しだ)をする。

 それも飽きたら、家の書斎から持ってきた本を読む。

 これからもきっと、毎朝こんな感じで過ごすんだろうなーと思っていたのだけれど……。


すずはらさん。あれから遊歩道でねこに会えた?」


──日々の行動のせんたくに、『おりと会話をする』という行動がふくまれるようになったのは、いつからだろうか。


「ん……あの茶色い子に、会えた」


 まえがみをつまみながら話す。初めのころけいかいしんMAXだったこともあり、すずの後ろにかくれていた。それからしばらくしたら、自然とノートで顔をかくすようになり、そして今は、こうして自分のかみをいじりながらなら、なんとか話せるようになった。


「そっか。よかった」


 かえでの返事におりうれしそうに笑う。パパラッチ呼ばわりしていたころ(今も一日一回は呼んでいるが)は考えもしなかったけれど、落ち着いてこの人のがおを見ると、なんだか日なたのにおいがするなぁと思う。自分の顔を鏡で見ると冷たい冬を連想しがちだから、この人のがおを見るとなんだか安心する気が……しないでもない、かもしれない。

 今までも、たまに話しかけてくる男子はいた。しかしどの人も、「しゆはなんなの?」「最近見た映画は?」「今度スイーツ食べに行こうよ」などと言葉のだんがんを並べ立て、かえでまどっているあいだに友人がやんわりと止めてくれる……といったパターンばかりだった。アイドルのあくしゆかいで言うところの『はがし』の映像を見たとき、友人の行動にそっくりだなーと思ってしまった。

 けれどおりは、あくまでかえでのペースに合わせてくれる。


「お近づきになれた?」

「ん……ねこじゃらしで、たぶらかすことに成功しただい

「言い方言い方」


 おりが困ったように笑う。自分はどうも、きんちようすると変なを使いたがるきらいがあるようだ。最近知ったことだった。


「その……ひよりちゃんとコタローちゃんは元気?」

「元気いっぱいだなー。あと、そのちゃん付けは今度ぜひ本人の前でしてほしいかも。たぶんもんぜつしてむせび泣くから」

兄妹きようだいじようちよってどうなってるの……?」


 おりが笑い、何かを思い出したようにスマホを取り出す。


「そうだ、コタローにもだえるすずはらさんの写真を見せようか。ひよりがってたんだけど」


 む。

 ほおふくらましたら、おりはどういうわけか顔をそむけて窓のほうを向いた。ええい、こちらを見ろ、ろうめが。いや、すごく失礼だなこれは。


「コタローは元々ひとなつっこいっていうか人たらしっていうか地上にりた天使なんだけど」

めすぎて、話の前置きだけで一文になってる……」


 おりがハッとした。この人はどうやら、妹とねこちゃんのことを話すときはちょっとトリップするクセがある。シスコンだし、ねこねこ……ねこコン? なんだか街コンみたいな言い方になった。ねこちゃんを飼っている人同士のコンパとか、そういうのもありそうだ。

 こほん、とおりせきばらいをする。


「コタローもすずはらさんにすごくなついてたから、その、よければまたぜひ、うちに寄って、もらえると……」


 にぎこぶしを口に当て、文末に向かうにつれどんどんすぼまっていく声。かえでははじめは目をぱちくりさせていたが、おりの言わんとしていることに気付いて一気に顔が熱くなった。

 先日おりの家に行くときは、完全にひよりとコタローにられていた。わいらしい妹さんとこれまたわいらしいねこちゃん。その組み合わせにかれ、ぜひとも生で拝みたいと思ってしまった。SNSで見たお店が近くにあると知るやいなや、すずに電話してそくに行くことがたまにあるけれど、そのときと同じような感覚だった。

 けれど、彼の住むマンション(なんだか誤解を招きそうな言い方だ)の前に来たとたん、ハッと我に返った。

 男子の家に遊びに行くのは初めて……というカミングアウトをすると、おりの動きも急ににぶくなったことを思い出す。


(あの家に……もう一回……?)


 考えただけでもうれつずかしくなる。ずかしくなるが、いやな気持ちにはまるでならない。

 何より、げんかんのドアを開けたら、わいい妹さんとマンチカンの天使が……。


「えっと……すずはらさん?」


 おりの声にハッとする。長めの物思いにふけっていた。

 白銀のかみを人差し指に巻く。くるくる。ほどいてまた、くるくる。


「……まあ、べつに、うん、私も、ふたりに会いたいし」

「ほんと? やった……っ!」

「あ、ふたりっていうのはひよりちゃんとコタローちゃんだから」

「それは承知してますー……」


 おりが困ったように笑った。

 顔の熱が引いてくれない。


「うっし、ホームルーム始めるぞー」


 担任の先生がやってきて会話が終わる。

 あいさつをして、ホームルームが始まったところでふと思う。

──そういえば、こんなふうに男子と話すのはいつ以来だろうか。

 自分に問いかけてみたものの、答えはすぐにかんだ。そしてちくり、ぢくりと胸が痛んだ。

 今の生活にえいきようおよぼすような人間関係ではないけれど、それでも心にさった小さなとげはいまだにけない。ねむれぬ夜が続くわけでも、人前を歩くことにおびえるわけでもない。そんな、自伝なら真っ先に押し出すようなつらい出来事だったとは思わない。

 それでも、ときどき思い出して、少し悲しくなる。

 ちらりととなりを見やる。

 おりは先生がったネタに対して、いつものように元気にツッコんでいた。たとえを使っているけれど、その前のやりとりを見ていないのですごく不思議なフレーズに聞こえる。

 おりには、小さいころねこのトラウマ(家族に話した際、この話は波打つねこ、略して『なみねこ』という、なにかのキャラクターみたいなめいしようをつけられた)のことを話せた。元々話すつもりなんてなかったのに、この人の目を見ているうちに自然と話していた。

 この人にはもしかしたら、自分のかかえるもやもやをもう少しくらい話してもいいのかもしれない。

 あくまでも何でもない話の延長線上で、「そういえば」くらいの切り出し方で。

 そしたら、自分はちょっとくらい前に進める気がする。


「きりーつ」


 日直の声にハッとする。自分は何を考えていたんだろう。

 思春期と呼ばれる時期をむかえてから、ひとりの男子とこんなに関わったことがなかった。だからこんなふうに、あれやこれや考えてしまうのだろうか。


「…………」


 ちらりととなりを見やる。

 おりは、一限目の数学の教科書の準備をして、今日習うはんの公式をぺらぺらと見るなり、


「なるほどわからん」


 だれに聞こえるでもない独り言をつぶやいていた。

 思わずぷっ、とすと、おりはこちらを見て首をかしげた。

 かえではすぐさま顔をそむけ、何でもないフリをした。

 まだまだきんちようはするけれど、こんなふうに話せる男子ができるなんて思わなかった。

 というか、いきなり家に行く自分にびっくりした。

 だから。

 かえでは──ちょっとだけ、まどっていた。


       ◆  ◆  ◆


すず、ごはん食べよ?」


 昼休みに入り、すずに声をかける。つうけばいいのに、を後ろにかたむけて上下逆さまの顔で見つめてきた。


「んぉー? いいよー」


 目の前のほっぺたをむにっとはさむ。


「うむむむむ」


 すずがやたらめったらわいらしい声でうなる。天使か。

 話を聞いてほしかったので、今日はふたりでご飯を食べたい……というむねを伝えようとすると。


「ほんじゃ行こっか。先にこうばいでいい?」


 すずがするりと立ち上がり、いつもお昼をいっしょにとっている女子グループに手をってさっさと教室を出ていく。


「え、あ、すず……? その、なんでわかったの……?」

「なーんか話したそうにしてるからねー。かえでの表情って、ファミレスのちがい探しなら十個中九番目か最後に見つけるレベルなのに、なーんかわかりやすいんだよね」


 地味にショックだった。後ろから左右のほっぺたをつまみつつ歩く。


「あーうーいーいーぅーいー(歩きにくいー)」


 文句を言いながらもすずは楽しそう。

 こうばいでいつものように追加しよくりようであるパンを買い、しようこうぐちの横にあるベンチに座る。日によってにぎわっていたりそうでなかったりするが、さいわい今日はだれもいなかった。

 弁当箱を開いて、ふたりでいただきますをする。


「ほんでー? いおりんの何についておなやみなのかな~?」


 一口目の卵焼きをあやうくすところだった。


「…………」

「ごめんごめん、え、何その構え!? チョップ!? かたにチョップでもする気!?」


 手を引っ込め、こほんこほんとせきばらい。


「……なぜわかった?」

わいすぎてぜんぜんシリアスになってないんだけど」


 すずがけらけらと笑う。顔が熱い。


「その……どう言えばいいかわかんないんだけど……」


 べつに、おりから何か重大なことを告げられたわけでもない。すずに話したいとは思えど、そんなはっきりとした相談もないのだ。自分からさそっておいてなんというていたらく……と思うも、すずはこんな自分に慣れっこなのか、やわらかくほほんで待ってくれている。

 今の気持ちをなおに伝えればいい。そう、なおに。

 ……。

 …………。


「……パパラッチのあつかいを今後どうしようかと……」

「考えうる限り最悪のいい方になっちゃった!」


 すずがおなかかかえて笑い声をあげ、ここい声が開けた空間にひびく。


「はー、はぁぁ……かえではほんとわいいなぁ、も~」


 すずが目じりのなみだをぬぐう。そこまで笑わなくてもいいのに……。


「ま、きっちり聞きたいことをまとめるってのも大変だしねー。とりあえず思ってることをつらつら言ってみ?」

「ありがと……。だいたい二時間くらいかかるけど、いい?」

「長編映画の尺!」


 すずがまたしても笑う。おかげでめた神経が少しほどけた。


「えっとね……」


 ぽつり、ぽつりと、最近考えていたことを話し始める。

 すずは茶々を入れることなく、やさしいみをかべてあいづちを打ってくれる。

 気が付けば、かえでは夢中で話していた。


       ◆  ◆  ◆


「まー、かえでにとってそれなりにきよが近い男子がいてもいいんじゃない?」


 ひととおり話すと、五秒とたないうちにすずが結論をくだした。


「え……それだけ?」

「うん、これだけ」


 話を整理しよっか、とすずがつぶやく。彼女はいつの間にかお弁当をすべて食べていたが、かえではお弁当もパンも残っている。あわてて食べながらすずの話を聞くことにする。


かえでにとって、いおりんは近くにいてもべつにいやじゃないんだよね?」


 もっ、もっ、とご飯をほおりながらうなずく。


「ふたりで話したとしてもきんちようはしない?」


 こくり、と飲み込んで、ななうえを向いて考える。


きんちようは……まだ、するにはするけど……すず以外の女子と話すときよりもきんちようしない、かも」

「おーマジか! やるなーいおりん」


 教室の方角にすずはくしゆを送る。


「それでそれで? いおりんと話すのは楽しい?」

「へ? んー……うん。わりと、楽しい……かも」

「それはいいことだ!」

すずがお母さんみたいになってる……」


 うでを組んでふふんと笑っている。なごむ。


れんあい感情はある?」


 パックのジュースをあやうくつまらせるところだった。


「……そういうのは……わかんない」


 顔をそむけ、


「……だって、はつこいもまだだし」


 顔をもどすと、すずがいなかった。

 あれ? ホラーかな? と本気でびびっていると。


「か~~わいいな~~~もう!」

「ひゃぅぉわっ!?」


 いつの間にか回り込んでいたすずに、後ろからきつかれた。


「びびびびっくりしたぁ……」


 大きさが倍になったのかと思うほど心臓が激しく鳴っている。すずかえでほおに自分のほっぺたをうにうにとこすりつけてきた。


「とりあえず、いおりんとはゆっくり接していけばいいんじゃない? 気持ちが変わることもあれば、変わらないこともあるかもしれないけど。せっかく男子と話せるようになったんだから、もっと話さないと……あーいや、そんな義務感にられなくてもいいんだけどね? ただ、まあ……あんまり難しく考えずにのんびり行こ? のんびり」

「そう……だね。うん、ありがと。……すずはやっぱりやさしい」

「へっへっへ。どうよ、これが保護者系親友というものだー」

「変なかたき……」


 至近きよで見つめ合い、くすくすと笑い合った。


       ◆  ◆  ◆


 気楽に行こうと決めると、少しだけ気持ちが楽になった。相変わらずぽつぽつとではあるが、おりとやりとりをするのはなかなか楽しい。


「それじゃ、また明日」

「……っ! ま、また明日!」


 たまに自分から話しかけると、おりが目に見えてびっくりするのが楽しい。その反応が見たくて、自分から話しかけることが増えた。といっても一日に一~二回だけれど。

 それでも、男子とこんなふうにやりとりできるようになるなんて……と、自分に感激さえしていた、とある日の放課後の帰り道。


「……あれ?」


 カバンにつけていたねこのストラップが見当たらないことに気付いた。


かえで? どしたの?」


 すずに事情を説明する。今までは極力人目につかないよう、カバンの中に入れていた。しかし最近はおりの言葉のおかげもあり、学校でもかくすことなく外に出すようになっていた。


「最後にかくにんしたのはいつかわかる?」


 たずねられ、おくをたどる。ここ数日はしきりに考え事をしていたこともあり、ストラップの存在を気にするひんが減っていた。昨日学校に出発する前にちょんちょんとでたことは覚えているが、そのあとのおくさだかではない。


「オッケ、わかった。そうなると……一日半のあいだに移動したはんかー」

「うん。……あの、すず? 無理に手伝わなくてもふわぁっ!?」


 きつかれ、かんだかい悲鳴をあげてしまう。


「なーに言ってんの! おばあちゃんの大事なプレゼントでしょ? 手伝うに決まってるってー」

「……そっか。ありがと、すず


 すずがにぱっと笑う。このがおに何度救われただろうか。

 ふたりがかりなら、きっとすぐ見つかるはず。

 そう思ったものの──この日は学校にもどって一時間以上探しても見つからなかった。

 昨日の放課後はすずと街を出歩いていたため、行動はんが一気に広がっていた。

 すずは明日以降も手伝うと言ってくれたが、ふたりで探したからといって必ず見つかるとは限らない。かえぎわなど、あくまで限られた時間だけいっしょに探してくれればじゆうぶん……とだけ伝えた。

 部屋にもどり、カバンに手を入れる。

 幼いころから持っているストラップは、もはやお守りのようになっていた。不安なときや悲しいとき、いつもあのストラップに力をもらっていた。


「……こんなお別れしたくない……」


 つぶやいた言葉が、静かな部屋にぽとりと落ちた。


       ◆  ◆  ◆


 翌日、学校に来てからも探し続けた。勉強に支障をきたさないはんで、昼休み以外の短い休みもひんぱんに教室を出ては探し回った。


(見つからない……)


 なくなるまでに動き回った場所はひととおり見てまわった。落とし物として届けられていないかもかくにんした。それでも、大事なねこのストラップが見つかることはない。

 しようそうかんられながら席につく。おだやかな天気が続いていたが、今日はじっとりとくもっていた。スマホの天気予報では、ここ数日は不安定な天候が続くとのこと。外を探し回るときに雨が降ったらやだな……と、ますますあせりがつのる。

 思考のはばが、視界が、どんどんせばまっていくのを感じる。


すずはらさん……どうしたの?」


 おりづかわしげにたずねてくる。

 男子。注がれる視線。馬鹿にする声。

 いくつものおくが脳内できあがり、ぶつかり合い、ため込んでいた感情のいつたんがあふれる。


「……なんでもない」


 我ながら情けない、と思うほどにとげのある声。おりがひるむのがわかる。

 わかっている。おりじゆんすいこうたずねてくれているのだと。

 それでも、自分と祖母との大事な思い出をおりと共有することはできない。彼に事情を話すということは、今までよりもさらに自分の心を開け放ち、無防備な部分を見せることになる。

 ほんの少し前に、自分から彼に過去のことを話すのもいいのではと考えたこともある。

 それに、


『そんなに難しく考えなくてもいいのに』


 すずならきっとこんな言葉をかけてくれるだろう。

 けれど今は、あせりにられている今は、親友のやわらかな言葉はこおった心のうわつらでるだけで通り過ぎてしまう。

 おりが力のないみをかべる。


「そっか。……何かあれば言って。俺も手伝うから」


 うれしいと思うと同時に──

 関係ないんだから、入り込もうとしないで。

 少しずつ近付いていた関係をいつしゆんで無に帰すような言葉がのどまでせり上がり、かろうじて飲み込んだ。危なかった。本当に危なかった。

 こううれしく思う気持ちと、関わらないでほしいというはいてきな気持ち。

 じゆんした感情は胸の内をぐるぐるめぐり、心をむしばむ。

 昨日まで集中して聞いていた授業にまるで集中できない。

 放課後をむかえ、すずの手伝いさえも断って外を探し回った。

 次の日はすずと登校することさえひかえ、こくぎりぎりまで探し回り、休み時間も、放課後も探し回った。

 それでも、大事なストラップが見つかることはなかった。


(どこに……どこにあるの……?)


 ますますあせり、家族にまで心配された。けれど相談するのはこわかった。ストラップへの思い入れを、自分以外の人は理解はできても実感はできない。家族に相談して「何をそんなことで」などと言われれば、大事にしてきたおもいまでこわれてしまう気がした。


(もう探すところは……あ)


 暗くなった帰り道。不意に、まだ外で探していないところがあることにと気付いた。しかし今日はもう、これ以上ねばっては家族に心配されるだろう。

 明日こそ見つける……っ!

 どんどん自分のからに閉じこもっていることに気付きながらも、ストラップを見つけるまでは決してあきらめまいとかたこぶしにぎりしめた。


       ×  ×  ×


 かえでの様子が明らかにおかしいことは、彼女が登校してきたときから気付いていた。

 いつも通りを心がけてあいさつをしたものの、返ってくるのはそっけない……というよりは、上の空といった返事。異変に気付いた日も、その次の日も、おりかえでにろくに話しかけることができなかった。


かえで、ストラップを落としちゃったんだ』


 すずから聞けた情報。おそらく、おりの家に遊びに来たさいに見たねこのストラップのことだろう。おばあさんからのプレゼントと聞いていたが、あそこまで必死に探すとなると、それだけかけがえのないものなのだろう。もしかしたら彼女のおばあさんにはもう会えないのかもしれない。幼いころから大事にしてきた形見なら、あれほど必死に探すのもなつとくできる。

 かえでは明らかに周囲にかべを作っていた。おりだけでなく、クラスの女子も、すずでさえも最低限の会話しかできないほど。乱暴なことづかいをしたりはしないが、めばようしやのないこうげきをしてきそうな、そんなひりついた空気感。

 そんなじようきようでも、おりは。


(手伝うことはできないんだろうか……)


 かえでのことをひたすら心配していた。

 ここ最近、彼女のまとうふんが少しずつほぐれ、やわらかくなっている気がした。口数は多くないものの、出会ったころからは考えられないくらいごくつうに話せるようになった。

 そんなかえでが、かたからに閉じこもっていることがつらい。おこがましいとはわかっていても、ほんの少しでも彼女の心にうことはできないのだろうか。


「お兄、なにをずっとなやんでんの~?」


 かえでの異変に気付いてから二日目の夕飯後。

 もんもんとしているおりに、ひよりがやさしいこわたずねた。


「あー……いや、なんでもな」

かえでさんのこと?」


 ひよりがにひっと笑い、マグカップに入れたホットココアを持っておりとなりに座る。口にするといつもより甘い。妹は自分がなやんだり不安をかかえているとき、ココアをいつもより少しだけ甘くしてくれる。ささいなづかいがしよううれしい。


「コタロー、こっちおいで?」

「みゃー?」


 とっとことやってきたあいびようのコタローを、ひよりがひょいとげる。


「まあまあ、話してみなさいな。だいじょーぶ。我が家の天使がシリアスな空気をばしてくれるから」

「コタローは無敵だな……」


 持ち上げられてみょーんとどうばしたコタローが、


「みゃ?」


 つぶらな目つきで首をかしげた。ううん、このひとみを前にしたらとてもうそなんてつけそうにない……。


       ×  ×  ×


 かえでが最近ぐっと話しやすくなったこと、そして昨日から様子がおかしく、どうやらストラップを探しているらしいが、手伝うに手伝えないふんであることを、ホットココアを飲みながらゆっくりと話した。


「なーるほどねー。かえでさんは思い込んだら一直線! ってタイプなのかなー」


 ひよりがマグカップをかたむけ、「ぷひー」と気のけた声をらす。太ももにはコタローがそべっていた。

 それにしても……とひよりがつぶやく。


「お兄のそういうとこ、昔から変わらないね」

「……そうか?」

「そうだよー。……あたしのときも、そうだったでしょ?」


 困ったようなみをかべるひよりは、どこか大人びていた。

 ひよりの件は、今もおりの心にを引いている。

──小学生のころ、ひよりはいじめにあっていた。

 本人は「あれくらいならまだ軽いよ」と言っているが……見ていることしかできなかったおりからすれば、いじめが軽かったなどとはちがっても思わない。

 ひよりは、物をかくされたり、直接害されることはなかった。

 しかし、教室ではひそひそとかげぐちをたたかれ、帰り道ではひよりをばかにする歌を歌われた。

 両親がいそがしく、妹の保護者のような立場のおりだったが、その当時しようりんけんぽうの道場に通い始め、ひよりの異変に気付くのがおくれた。


『ん、なんもないよ?』

『だいじょうぶだってー』

『なんでもないってば!』


 何度はぐらかされてもあきらめずにたずつづけ、なんとかいじめのことを聞きだすと……その翌日、ひよりをいじめていた児童になぐりかかりそうになった。あわてたひよりと先生に止められなかったら、本当にようしやなくなぐっていたと今でも思う。

 おりが乗り込んだからといってじようきようはさして変わらなかった。

 ひよりといっしょに帰って守りたかったが、通い始めたばかりのしようりんの練習をさぼっていいものか迷い、帰り道をともにするのはあきらめた。その代わり、帰ってからひよりとたくさん遊んだり、いっしょに料理をしたりもした。このとき、当時から仲の良かったみなともひよりのことを気にかけてくれていて、よく三人で遊んだ。


『お兄とみなとくんと……それと、いじめられてるときも仲良くしてくれた子は、一生大事にしようと思ってる』


 ひよりがそう言って笑ったときの大人びたみを、今でも忘れることができない。

 おりみなとに救われた、とひよりは本心から思っているが、おりの中では今でも「あのとき、ひよりにもっとできることがあったはず」という未練が残っている。

 ひよりのクラスのいじめは、まるで当番制のように移り変わった。帰り道でひよりを大声でばかにしていた男子がいじめられたり、それまで目立っていた女子がいじめられたりした。目まぐるしく対象が変わるいじめは黒幕がいるようなものではなく、そうすることでクラス全体の精神の安定をはかる現象のように思われた。

 ひよりはいじめに加わることは決してなく、いじめられている子を遊びにさそったりと、むしろやさしくケアする側にまわっていた。

 まだまだ幼いと思っていた妹が自分よりもしっかりしていると気付き、おりは尊敬の念をいだいた。

 なお、ひよりがさりげなくケアをした男子は、やさしいひよりにばっちりれて何人もが告白してきたらしい。そのたびにひよりは「あ、ごめんなさい、そういうつもりはなくて……」とばっさり断っていた。男子はもれなく泣いたとのこと。


「あのとき、もっとやれたことがあると思うと……」

「まーだ言うんだから~」


 ひよりがあきわらいをかべる。口についたココアが愛らしい。


「あのころからじゃない? お兄がしょっちゅうおせつかいを焼くようになったのって」

「ん……たしかに、そうかもな」


 ちょっとでも困っている人がいると、あのころのひよりが重なって見えてしまい、「いま自分にできることをやらないとこうかいする」と思って反射的に助けるようになった。


「あたしはもうぜんっぜん気にしてないのにねー。お兄はやさしいっていうか、りちっていうか、めんどくさいっていうか、ねちっこいっていうか、うらまれたらめんどそうっていうか……」

「後半ひどくない?」


 ひよりがくすくすと笑い、コタローのしっぽの付け根をぽんぽんとでる。「みゃー」と気持ちよさそうに鳴いてしっぽをふりふり、ふりふり。

 ちなみにひよりは、当時自分をいじめていた子ともつうに遊んでいる。当時のいじめていじめられての関係はだいぶ複雑で、もはやみんな気にしていないとのことだった。


「ま、そこがお兄のいいところでもあるんだけどねー」


 ひよりはにひっと笑うと、


「助けてほしくないのに助けようとするのはごうまんかなって思うけどねー。お兄ってば、自分の判断で助けに行くまでが早すぎて、相手がちょっと引いてるときもよくあるでしょ?」

「うぐ……っ」

たのまれてないうちに手を貸しちゃうのはどうかと思うんだよねー、あたしは」

「ちょっと待って、ぐうの音も出ない。泣きそう」

「あとでひざまくらしてあげる」

「……それで手を打とう」

「お兄の真顔、ネタなのかどうか判断に迷うんだけど」

「なんかごめん」


 ひよりがふっとやさしいみをかべる。


「……でも、小学校のときのあたしもそうだったけど……人にたよるのが苦手な人ってたしかにいると思うんだよね。本当はちょっとでも助けてもらえたら泣きたくなるほどうれしいのに」

 だからね……とひよりがマグカップをローテーブルに置き、コタローをかかえておりの太ももにころりところがる。おりにひざまくらされた状態で、ひよりがコタローの前足を持っておりの腹にねこパンチ。なぜに。なごむからいいんだけども。


「お兄が『この人は助けを求めてる!』と思ったら、後先考えずに、ドン引きされるのも構わずに行っちゃうのもいいんじゃない?」


 やさしいこわでいったかと思うと、ぷいと顔をそむけ、コタローの前足をぷいぷいと左右におどらせる。


「……まあ、いのししくらいの勢いでがんがん行っちゃいなよ」


 どうやら照れているようだ。


「ひより、顔赤いぞ」

「うっさい。……まあ、なんとかなるんじゃない? 知らんけど」


 関西人みたいなかただ。最近人気の動画配信者(関西弁女性)のえいきようを受けているのかもしれない。


「さては照れてるな? おいおい妹がわいいぞどうしたもんかぶはぁっ!?」


 ひよりが起き上がるなりクッションでばふばふとなぐってきた。たまらずたおむと、顔にクッション、おなかにコタローが乗せられた。口をふさがれるのは苦しいがコタローが甘えてくるのは幸せでしかない。


「今日はお兄の大好きなホラー映画をかんしようします」

「ちょっと待てそれはなんのごうもんだ」

「えーと、ノイズキャンセリングヘッドホンを用意してー、部屋も暗くしてー」

「やめろやめろ、ホラー好きがガチで楽しむときのセッティングだろそれ!」


 コタローもまじえてしばらくはしゃぐと、頭のもやもやが晴れていることに気付く。


「ひより、その……なんだ、うん、ありがとな」

「ん、どーいたしまして」


 うれしそうに目を細める妹の頭をぽんぽんとでる。


「ココア、もう一杯飲むか?」

「飲むー」


 妹が元気に手を挙げるのを見て、


「みゃ?」


 ぼくも参加する流れですか? といわんばかりにコタローが立ち上がり、兄妹きようだいそろってソファにたおした。

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