第5話 けして、佐竹でなく、あざとくもなれず、女にも男にもなれないけど、人間として、存在していく。
あざと連ドラで、推し、正確に時系列を追って行くと、どうやら、おそらく、前世、もしくは今世でお世話になった人の孫、もしくは息子かもしれない俳優さんが出ていて、その人が出るたびにあざと連ドラを見ている。
佐竹という男の実在を、わたしは信じなかった。これは、人に恵まれており、昨年参加した浅田家で有名な写真家の浅田さんは丁寧で親身な人だったし、子供の頃から写真を撮り続けてくれているお兄さんもそうだし、最近、正確にはもう1年以上聞き続けている、なにわもぐもぐラジオの、パーソナリティは植田圭輔さんと高本学さん、この、高本学さんという人は、日本大学で写真を学んでいた人で、かつてゲネプロで写真を撮ったこともある人だが、自分にとって、写真家は人の良い人が多い。
要するに、女性蔑視のするタイプ、ものすごく激しい人間ではないものの、徹底した男女同権主義者なのか、厳しくも暖かい人しかいない。
芸能界に何年もいると、男女差別がひどくて女性のみにいじりをする若手のテレビドラマスタッフ、両性愛者に性的暴行を加えるベテラン俳優、同性愛関係でもめてつぶれた稽古場、と、当たり前過ぎて週刊誌にも載らない出来事は、聞きたくなくても耳に入ってくるし、加害者と被害者、両方の立場も経験している。
もう時効だからつたえる。桶川ストーカー殺人事件からしばらく経つと、少女向けの性的商売、これは少年向けもあったと聞くが、そう言った、幼女趣味が、けして、表に受け入れられないものが、女子高生、女子学生は性を武器にもてあそんでいるのだ。
と言った、言説が、なぜか宮台真司以外の界隈は、そう信じ込んでおり、「やられた」と思った時には、もう、ファンに手を出したふしだらな魔女扱いだった。
MEN 同じ顔の男たち、という映画がある。わたしにとってあの頃、
「ねぇ、ファンの男の子と付き合っているの?」と語るすべての人間は、顔がないひとりの男に見えた。全員が全員、同じ顔に見えるのは、神経衰弱で、精神的にもろかった。
私を救ったのは、たった一言だ。
わたしはこう聞いた。
「お前、ファンの男と付き合っているのか」
違うよ、そう伝えると。
わたしは、こう聞いた。
「だよな。お前はそういうことする人間じゃないもんな」
顔も思い出せないし、年齢だって覚えてない、先生だったかどうか、同級生だったかわからない、「男」の言葉が支えとなった。
女性が優しい、というのは幻想で、幻覚で、それは、人による。
なおかつ、芸能界にデビューしていれば、アイドルだったら、子供の頃から芸能界にいたら。
そんな言葉を聞くたびに反論する。
地獄だと。
というのは、私は、小学5年生、中学1年生から3年生まで、とあるワークショップに所属していた。小学5年生の時に主演をつとめた男の子は現在、ミュージシャンとして、自分の冠番組をラジオで持つぐらい成長し、中学2年生の時に入ってきた後輩は、2020年の紅白歌合戦でオープニングを躍動感のあるダンスで飾った。
話は長くなるが、基本的にワークショップであり、プロ向けではないものの、1年契約なのと、毎年必ずオーディション、つまり、続けられるかどうかの座内オーディションで、毎年必ずひとりだけ、「戦力外通告」を講師の方が出す、という、鬼のような選考基準に達しなければ、すぐに劇団から抜けることを選択する。それは、卒業公演でメインどころ、つまり、番手が上であっても、例外ではない。
後から劇団に入った、同い年だが後輩の女性は、世渡りも人付き合いもうまかった。
いまだに世渡りも人付き合いも苦手な私は、チケット、最低限のノルマをこなせず、泣きついたことすらある。営業に向いていないため、泣きながら助けを求めた担任は、忙しい合間をぬってかけつけてくれたものの、他の団員と違い、私を待つ、出待ち、入り待ちはいなかった。
出待ち、入り待ちの数は残酷だ。目に見えて、活躍と人気を見せつけてくる。
それから何年かして、別の現場で、こっそり、入り待ち、出待ちはしたことがある。個人的には、入り待ち、出待ちは、こっそりお願いしたいし、そもそも、世の中、ファンの人間が、すべて入り待ち、出待ちするわけじゃない。役者本人を気遣って、手紙すら出さずにただ舞台に通う人、誰目当てかと問われない限りひいき、推しを明かさない人、そう言った礼儀正しい人がいなければ、私は選考試験に落ちている。
座内オーディションに落ち、何度泣いたかわからない。
自分より後からきた後輩が番手が上、えらそうに振る舞うのを見たり、後輩たちが先輩として扱わないのでいじりに泣いたり、みーんな、全員、この芸能界に籍を置かず、バラバラに自分の道を歩み始め、なおかつ、成功した人たちは、ACM劇場以外の舞台にも立っているという。
ひるがえって、わたしは。
佐竹の話に戻る。
佐竹について、実在した、と思い出したのは、ひらりささんの近著「それでも女をやっていく」を読んで、「それから」途中で、配信で、あざと連ドラを見て「あ」となったからだ。
佐竹、わたしの中に、いる。それは、高学歴男性特有の、しかも、東京在住の、世界で東京しかない、地元を出たら生きられない、そんな、男のいやらしさを詰め込んだ人間が、確実にわたしの中には存在する。
個人的な話になるが、好きなシェイクスピアのセリフ、正確には、英語圏の人に披露したことのあるセリフがある。
It is east. Juliet is the sun.
松岡和子翻訳、坂東玉三郎演出版ロミオとジュリエット、主演、真田広之、代役、堤真一の上演台本では、こうなっている。
「向こうは東、ジュリエットは太陽だ」
原文と違って、頭の悪さがわからない綺麗な文になっているが、実際には
「あっちは東、ジュリエットはお日様だ」である。なお、実際の原文、上演当初は別だったと踏んでいて、現在、絶賛研究中である。
シェイクスピアは楽しい。本来、あの時代は、女性役は声変わり前の少年が演じたので。
普通はやらないが、現場が現場なので、性別逆転、とりかへばやは普通におこなわれていた。
そもそも、男女比がかたよっていたし、女性が積極的に男役を引き受けなければ、まったくと言っていいほど現場は動かないし、すすまない。
なので、仕方なく、男役を引き受けていた。
残酷な宣告は、ワルツ、演舞でパートナー、わたしが本来リードするはずが。
うまくいかず、後輩はさんざん罵倒した。
わたしは、言葉をこう聞いた。
積極的に引き受けたくせに、下手くそ!!最悪!!
である。
つまり、リードできない、ということは、ダンスがへた、踊りが苦手、先導不可、要するに、男役はあきらめろ、という宣告であった。
要するに、戦力外通告である。
ほかにもある。
外郎売りを、だらだら読んでいたら、全然終わらず、いったん、終わりにして、空気を読んで、次にうつった瞬間。
わたしは、こう聞いた。
ぜーんぜん、言ってないじゃん。
子供というのは、女というのは、いや、女優というのは、中身が逆転している。中身が男で女性の声は、破壊力が増す。
女性の加害性について長々と述べてきたが、現場での、そして、わたしは
こう聞いた。
あなたは、男前すぎるから、男役には向かない。娘役に転向して、少年役を引き受けるポジション、そう、たとえば月影瞳さんを目指すのはどうかな。
ただ、宝塚には入学したら、学歴を捨てることになるよ。高卒認定試験を受けないと、先にはいけない。どうする。宝塚に入るか、それとも、別の高校に入る?
15歳で、その問いに、出した答えは。
「ナガヤマさんと同じ景色を見たいので、ナガヤマさんみたいになりたいので、
水戸一高目指します」
ひとつの賭け、ギャンブルでしかなかった。私は、ゆとり教育が始まる前の最後、学習指導要領は4年ごとに変わる、1986年4月2日から1987年4月1日生まれまでは、最後の、ゆとり教育前、の世代だったがゆえに、高校受験がどうなるかわからない、と聞いていた。
私には、あとがなかった。周りは、成績優秀で、推薦で水戸一高に入れたもの、積極的に勉強して、射程圏内に合格する高校を決めたもの。
出席日数が足りず、インタラクティブコンクール全国大会を蹴り、数学がずっと苦手、理科はさらに苦手、家庭教師がこっそりきて学んでも、足りない、足らない、これで本当に、エリート街道すすめるのか、目指せ東大、と語るおばの期待にそえるのか。
事情があって、おばの手のひら、この人は非常にステージママでして、ずっと、まるで自分が舞台に立ちたいがために、わたし自身になりたがった。
おばさま、お願いだからやめて、と今なら言えるが、当時はまだ子供、援助を打ち切られれば、出て行け、と言う言葉はしょっちゅう聞いていた。
100点は当たり前。なぜなら、三の丸小学校も、水戸市立第二中学校もレベルが低いのだから、100点を取れないと、取れて当たり前の試験に、92点、90点台とは何事か、毎回100点を取れなかった私は、自分を責めた。
クラスでは、60点、90点、80点で歓声があがる。
わたしは、90点台、と聞いた瞬間に恐怖を覚えた。何をされる?なにをいわれる?殴られる?けられる?ぶたれる?みたいな、感じだ。
身近に、佐竹、みたいな、兄、つまり、おばの子供であるため、いとこがいて、この人は、はっきり言って、歪んでいた、と今では思う。
六大学卒、とだけ伝えておく。
東京大学卒で、「彼女は頭が悪いから」と、言った人間、男性がいる、と聞いた。
あくまでも聞いた話だ。
さんざん、私を罵倒し、引退間近にまで追い込み、
「元彼は元気?」と、
いつものルーティン、喜劇、誰も死なない、一場のコメディが始まる。
私はこう聞いた。
「なんかその、一高時代は、楽しかったよ」
そりゃそーだ、私をいじっていたお前らには、いじめっ子には
「いじめられてんだよね。
大学入ってから」。
茨城出身者に対する、一部の六大学、それも東京在住の人間が無神経だった話に気づくのは、「あの子は貴族」を水戸芸術館で、水戸映画祭で見てから、そして、佐竹に、画面で会ったからだ。
私の兄貴、いとこは、佐竹だった。でも、元はまともだった。ヒーローだった。
でも、今では、あいさつしても返してくれない。
毎週木曜日、コメントに語りかけ、ひたすら、リスナーに寄り添う。その言葉は、平等で、若い頃、まともだった人間だった、彼を思い出す。
思い出の中、隅田川そばの、建物に住んでいた頃は、実家を出ていた頃は、義理の兄は、まともだった。
兄貴が残したスラムダンク、ギャラリーフェイク、はじめの一歩、ニューズウィーク日本版を勝手に読んで、大きくなった。
いとこなのに、長い間暮らした、15歳年上の、あの人、と他人呼びだ。
あの頃、あの年齢である男性は、みんな、兄のように虐待と、暴言、急なマッサージをするものだと思い込んでいた。家族神話だ。
今、かつての被害者であったわたしは、加害者の立場になりつつある。学習するのだ、被害者は加害者から学習し、加害者へと変貌する。
世の中で、突然加害者になる人間は、いない。鬼滅の刃にて、鬼が鬼となるのに理由があったように。
世間を騒がしている、香川照之は、父親を不倫で失った。
園子温は、父親が厳しい人だった。
わたしは、おそらく、これから、性的加害者になるのだろう。香川さんだって、園さんだって、最初は被害者だった、男役を引き受け続けたわたしが、男性的な、男性特有の暴力性を秘めていない、すでに、もう、推しを、何人かの男性を、女性を、傷つけた後かもしれない。
君子の交わりはあわき水のごとし、と説く。
わたしは、それでも、尊敬する、ただひとつの名言を胸に、次の日をむかえよう。
I think, I regard as a human being.(Not Asian.)
By Bruce Lee, from his lost interview.
わたしはこう思う。わたしは、自分を人間だと規定している(アジア人ではなく)
発言者:ブルース・リー
出典:ロストインタビュー、行方不明対談、カナダのテレビ番組より
聞き取り、翻訳は作者による。
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