10-1
翔さんにも会わないし、久美子さんにも会わない今日をどうしようか、思案しながら居間に下りる。述は寝ているのだろう、蝉の声だけが響いている。あの幼虫の蝉の鳴き声かどうかもう判別がつかない。見よう見まねでコーヒーを淹れたら渋くて苦い汁になった。それでも最後まで飲み干す。
「どこに行ったっていいし、行かなくたっていい」
どうしてかため息が出る。どうであったって僕は僕で変わらない筈なのに、翔さんが生きている内にはそんなことなかったのに、落ち着かなさが胸の底の方でチロチロ僕を焦がしている。このままで何もいけないことはないのに。久美子さんなら何て言うだろう。久美子さん。……久美子さんに会いたい。
でも、ぐずぐずして一日を終えるのはもったいないから、僕はかねてから気になっていた映画を観に行くことに決める、準備をする。いざ出ようとしたときに述が下りて来た。
「行ってらっしゃい」
「調子はどう?」
「普通だよ」
彼の顔はやつれていたけど、彼が普通と言うなら普通なのだ。
「そっか。じゃ、行ってきます」
映画館の楽しみの半分はポップコーンとコーラで、もう半分の映画もよかった。
マンガ喫茶で読みかけのマンガを読み漁ってから家に帰ると述が居間で小説を読んでいた。
「見付かったんだ」
「何とかね」
僕達はそれだけ言って後は黙って、僕は麦茶を飲んだら二階へ上がった。映画を観ている間も、マンガを読んでいる間も、今だって、どこか落ち着かない。でも、その落ち着かなさがどこへ向かいたがっているのかが分からない。
日が暮れる頃、陰影が刻まれる頃、それまで合唱だった蝉の声がたった一つになった。その声はしぶとく、何度もシークエンスを繰り返す。途中で他の誰かと入れ替わってはいない。それがあの蝉の幼虫なのかは分からない。分からないけど、幼虫は蝉になった。だから僕は蝉の音を聞けば彼を思い出す。でも、幼虫からしたら何になるのかは一つだし、この声を出しているのが自分かそうでないかは明瞭に区別される。視線の僕と、それを受ける蝉、僕は何者でもない、ただの傍観者。述を取り囲んだアノニマスな群衆と同じ。僕の落ち着かなさは焦りだ。反復する蝉の声のその度に、一枚ずつ皮を剥がされるように僕の正体が見えて来る。部屋の中で一人、オレンジの光が生む僕の影、……僕はずっと安住していた、翔さんの庇護の元だったから成立していたのかも知れない、それは幼虫の殻、何になりたいかを決めないと脱皮は出来ない。僕の焦りは、何かになりたいんじゃない、ただ、このまま殻の中にい続けることが、もう、耐えられない。
「理由はそれだけなんだ」
いずれ太陽が宵に喰われ切る。部屋が暗闇に落ちる。ここから這いださなくちゃいけない、でも、どっちに向かえばいいのか決められない。決められないままに出ては、何になるかが僕へ向かう視線の色で定められてしまう。誰だ、僕を観ているのは。いや、誰であってもいい、誰だって同じだ、僕はまだ土の中、視線の影響を受ける段まで進んでいない。殻から出たい、そのためだけに無為無策に走り出すことは、だから、出来ない。照射先のないレーザービームのようにエネルギーばかりが高まって、布団で丸く悶える。
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