9-1

 地元の駅の改札を出ると、女の人の怒鳴り声が聞こえた。いや、鬼気迫るだけで怒号ではないのかも知れない。散在する顔という顔が全てその声の主に向けられる中、僕の視線も引っ張られる。

「どうしてよ! どうしてなのよ!」

 小さな体格からとは思えない声量で同じ疑問を繰り返す彼女の矛先には、直立不動の男性。彼は脂を抜かれたぎこちない顔で女性に焦点を結んでいる。彼は述だった。では、喚き続けている女性は由美さんなのか。僕の知る述は平穏だ、だけどその彼が鋭く、「落ち着けよ」と言葉で女性を打ち据える。

「何がどうしたら落ち着けるのよ!? 信じられない!」

 打たれた痛みを払い除けるように彼女はさらに大きな声を出す。出来つつある人垣に埋もれるように、隠れるように僕は二人を覗く。仲裁に入った方がいいのだろうか。でも、何に揉めているのかも相手が誰なのかも分からない。違う。人々の視線が集中するあの舞台に割って入ることを想像するだけで足が竦むから、僕は卑怯者なんかじゃない、見守る以上の勇気を今、必要とされてはいない。述が決意したように言葉を放つ。

「もう終わりにしよう」

 女性は両腕を斜め下に大きく広げて「はぁ?」と煽る。

「何にも解決してないんですけど!? 私は深く傷付いた!」

「違う。やり取りをじゃない。俺と君を終わりにしよう」

 小突かれたように彼女が一瞬止まり、これまで外に発散されていた勢いがその内部に充填されるのが分かる程、形相が赤くなる。

「どうしてそうなるの?」

「こんな大恥かかされて、一緒に生きて行ける訳ないだろ」

「そんな話、ここでしないでよ」

「じゃあ、人のいないところで話そう」

 すぐにでも破裂しそうな彼女を連れて述は人垣と反対側にずんずん進んで、消えた。「何だったんだ?」と誰かが呟いたのを合図に人々はそれぞれの目的地に向かい歩き出す、その顔は最初から無関係同士だったかのように、バラバラで、散りゆく二、三人を一瞥したら僕も家路に就く。述は刺されたりしないだろうか。やっぱりあれは由美さんで、彼女が半狂乱になるようなことを彼がした。立ち見していた人は全員、彼がしたことを推定していた、当たっているかは確かめようがない、下品な傍観者の楽しみに没頭した、それは僕も同じ。僕だけが違うのは、遠からず述に会うこと。

 だけど、夜になっても彼は帰って来なかった。明日は久美子さんと会わない約束になっているから待とうと思えばいくらでも待てたけど、やめて、布団に入る。あの後、述達はどうなったのだろう。別れ話をしたのか、それとも和解したのか。元々由美さんとのことに詳しい訳でもないのに勘ぐって、それがぐるぐる頭の中を回る。部屋と言うか家が静かな箱になって、その中で邪推の舞を舞っている。結論は出ない。当事者じゃないのだから当然だ。与えられる物語はいつだって何かしらの結末を知らせてくれるけど、翔さんと話したいくつかのことと同じで、結末も結論も導き出されないまま今をすることしか出来ない、そう言う保留的な状態であるしかないことがここにある。しかも、どう言う結果であったかが直接僕のこれからには関係がないのに、知りたい。

 いつしか寝ていたけど、気がかりが睡眠を浅くさせていたようで、玄関の音で目が覚めた。

 述は二階に上がって来ない。起きよう。

 階段を下りて居間のドアを開けると、ダイニングで述がカップを口に付けていた。コーヒーの芳しい香り。

「ミッドナイトカフェかい?」

 述はカップを置くと、弱々しく笑う。

「そうだね。今夜の俺には必要だ」

「僕にも淹れてくれる?」

「もちろん」

 僕はダイニングテーブルで彼の斜向かいの席に腰掛けて、彼が座っていた席に文庫本を探した、だけどなかった。

「今日は本を持ってないの?」

 彼は火をつけながら横顔で答える。声はいつもの彼の調子と変わらない。

「紛失した。明日同じのを探しに行く」

「珍しいね」

 さっきの修羅場と繋がっているのだろう、それを問おうと考えて、やめた。僕が傍観者の代表になったら、述と僕と言う関係が腐ってしまう。僕は現場を目撃はしたけど、僕は述とだけが真実でいい。話したければ話すだろう。

「初めてだよ」

「僕は素晴らしい出会いをもう一歩深めた」

「いいね。俺は……いつも通りだよ」

 彼はコーヒーを淹れることに集中すべく黙る。僕はその音に耳を傾けながら、述がいつも通りと言うならそうなのだ、胸の奥に発生していた糸屑みたいなモヤを鼻から一気に吹き出す、代わりに、今新しく生まれた香りを胸いっぱいに吸い込んで、その官能的な響きにふわりと酔う。

「お待たせ」

 この前よりも美味しくなっていて、短期間に練習したのだろうか、それともコーヒーの抽出にはその人の精神性が影響するのだろうか。

「美味しい」

「嬉しいね」

 すん、とした空間の緊張が僅かに張って、夜の沈黙にキンと耳が鳴る。

「述は、何者かにならなくてはならないと思う?」

「ミッドナイトカフェをする男になりたい。俺はね。でも、誰もがならなくてはならないとは思わない」

「どうして?」

「全員が、自分は何であるか、何に向かうか、を見付けられるとは思えないから」

「そうでなかったとしても、軽蔑しない?」

「しないよ。俺だってまだ卵に過ぎないし。ただ」

 言葉を切った彼に吸い寄せられる。いつもの彼だけど、僕達はいつも話さないようなこと、翔さんと話すようなことを話している。

「そうであった方が、楽しそう。しんどそうでもあるけど。でも本当のところはまだ知らない」

「僕も知らない」

 それからは黙って、ゆっくりとコーヒーと向き合い、夜の精をつまみにするように、静かに飲み干した。

「じゃあ、僕は寝るね」

「おやすみ」

 述は述だったから、何があったかは分からないけど、僕はホッとして、階段を上がる最中で体から力が抜けそうになった。本当に大したことじゃなかったのかも知れない。いや、それはもうどうでもいいことだ。翔さんと散々話して出した結論と、述の意見は大筋で合致していた。だからそれをすると言うのと、それが出来ると言うこと、したいと思うこと、そこら辺の詳細な検討も翔さんとはしているけど、今の僕はその中には入っていない。

「だけど述は始まってる」

 布団に横になりながら自室の景色を見回す。誰かが作ったものだけで構築されている部屋。大好きだけど、それだけでは足りない気がする。文鎮程の重さがあるものが一つもない。僕由来のものも、一つもない。

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