8-5

 何かが煮込まれる音と包丁の音。ここはどこだっけ。あ。

 僕は体を起こす。ちょうど視界の真ん中に彼女の背中、ふいに振り向くその笑顔に僕はホッとして、彼女がいてよかった、胸がじんと痺れる。

「起きた?」

「寝てたんですね」

「今日こそは食材があるから、もう少し待ってて」

 僕は自分を検分して、寝たときと何も変わらない、見た目は。でも気持ちは、この場所に、彼女の場所にもう少し馴染んでいた。ここはやっぱりまだ二人の場所じゃない、少しずつそうなって行く。雑味を混ぜたくないからテレビはつけずに、彼女が生み出す匂いを嗅ぐ。

「何か手伝いますか?」

「もう完成したから大丈夫。すぐ食べよう」

 彼女がお盆に載せて一気に運んで来たのは、ごはん、味噌汁、豚の生姜焼き、香の物。口の中が涎でいっぱいになる、それを飲み込む。彼女があはは、と笑う。

「そんなに美味しそう?」

「早く食べたいです」

「よし。いただきます」

「いただきます」

 神様がいるのならとっても残酷だ。一度知ってしまったものを知らないときには戻れないのに、こんなに美味しい料理に出合わせるなんて。言葉にして彼女に言おうかと思ったけどあまりにも気障だから、彼女にはシンプルに「美味しいです」と伝えた。

「そうかそうか。嬉しいよ」

 彼女の笑顔は照れの朱を差したひまわり、あっと言う間に食べ終わる、僕達は満腹の猫になる。

「これ以上ない満足を貰いました」

「褒め過ぎだよ。でも自信になるね」

 笑い合って、食器を片付ける。洗い物はしますよ、と言うと、じゃあよろしく、と彼女はテレビをつけた。洗い終えて彼女の横に座る。パッパと画面は色を変えながら彼等の面白いを提示する。チャンネルで選ぶのはそのいくつかの面白いの中の、自分が面白いと思うもので、既にザッピングを終えた彼女が観ていたのはお笑い番組だった。家ではテレビなんてずっとつけてないけど、観る方の文化に今から染まろうとしている。まだ、彼女の選ぶものを観るだけだけど。

 漫才を観て二人で一緒に笑う。出番と出番の間に講評をぶつけ合う。つまらないときには文句、思い付けば自分の場合ならどうボケるかを発表する。番組が終わるまでそれを続けて、「やれやれ終わった」、と自分達が漫才師になったかのような気持ちで一区切りをつける。

「僕、今日はそろそろ帰ります」

「うん。またね」

 玄関で別れて、僕はアパートの階段をトントン、と降りる。昨日よりもずっと、僕の中が彼女で満たされている。大きく伸びをしてから、帰路に就いた。

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