8-1
十時に漂う透明は、朝と呼ぶにはその底に沈殿を伴い、昼と言うには鮮烈さが鈍い。目一杯その透明を吸い込んで頬を緩める。カーテンから漏れ来る光が盛夏の只中にあることを知らせて、僕はうんと伸びをする。
「一日だけど、待ちに待った今日」
一階に下りると述はもう出発した後だった。どこに行ったのかは分からない、由美さんのところかも知れないし、別のところかも知れない、だけど、そのずっと先にはミッドナイトカフェがある。
約束は昼ごはんから、少し早く着いてもいいだろう、僕はさっと用意をして彼女のアパートに出掛ける。停滞し浮遊する時間帯が、残酷な日差しを永遠に享受する穴ぼこに変貌した、家を出たときには淑やかだった汗腺が猛獣のように噴き荒れる。いつもは気にしない、だけど今日ばかりはタオルを持って来た。でも、まだまだ汗は続く、久美子さんの部屋の近くで初めて使おう。
電車を降りる、久美子さんの部屋と真反対に、僕の背中側に病院はある。風が吹いた。それは病院からの風だった、肩を掴まれた、僕は振り返る。病院は巨大に聳えている、あそこで久美子さんは働き、翔さんは死んだ。風に含まれる微粒子が翔さんの気配を携えていた。
「心配しなくて大丈夫だよ」
僕は半分笑って、手を振るように後ろを向く、僕の行きたい場所は、こっちだ。
汗だくの人波が臭い。彼女はどんな匂いになるのかな、きっといい匂いだ。坂を下って、路地を巡って、彼女のアパートに到着した。昼にはもう少し、だけどここで待ちたくない、待つのはもう十分だ。呼び鈴を鳴らす。彼女がドアを開く。ドアが開くことが嬉しい。
「少し早いけど、いいですか?」
「お腹空いたから、ちょうどいいね。ちょっと待ってて、出る準備するから」
僕は三和土に座る。座ったと思ったらすぐに「出来たよ、行こう」と彼女の声。外に出て、タオルを温存したままだったことを思い出した。彼女が鍵を掛けている間に、鞄から出して顔を拭く。彼女はそれに気付いて、ニンマリと笑い、でも何も言わずに出発する。僕は子犬のように彼女の後ろを付いてアパートの出口まで行く。
「どこに行くんですか?」
「ノープラン。ぶらぶら見て、フィーリングでどう?」
彼女の持ちかける遊びに今度は僕がニンマリする。一緒に過ごすだけでも胸が甘い、僕はこの時間のために息をしていた、これから、それ以上が待っている。
「面白いです」
太陽は容赦ないのに彼女は日傘も差さない、黒のキャップだけ。すぐに商店街に入る。最初に見えた蕎麦屋が渋くていい感じだ。
「この店はどうですか?」
「んー、ピンと来ない」
二軒先のイタリアン。ポップな雰囲気がよい。
「ここは?」
「匂いがしないね」
僕はなんとなくいいかなって店を推すのだけど、ひたすら却下が続く。
「千太、本当にピンと来たときだけ、言ってごらん」
そう言われてみると、僕は手数で勝負しようとしていたのかも知れない。……ピンと来る店って、どう言うことだ?
今度は二人とも何も言わなくなった。視線を店に向けながら黙って通り過ぎる。もう何軒スルーしただろう、――僕は立ち食いステーキ屋にロックオンされた。僕がロックオンするんじゃない、向こうから熱視線を照射されて、足が止まった。
「久美子さん、ここ、どうですか?」
彼女も足を止めて、何かを聞いている。音か、匂いか、それとももっと別の気配か、聞いている。
「いいね。ここにしよう」
「本当にピンと来るって、分かるんですね」
「そうだよ。実際そうなるとね。でもそれには準備が必要」
それは無闇にゲスしないことだ。僕達は店に入り、横並びの席に通された。注文の後、僕達は何も話さない。どんな些細な会話だって輝くことが分かっているのに、彼女は沈黙して正面を見ているし、僕は僕で切り出せない。――どうしてあそこに住んでいるのですか? どうして僕に声を掛けたのですか? 僕は安全な子供だと思っていますか? 僕の気持ちを知っていますか? 僕がどれだけ救われているか、気付いていますか? 訊きたいことはいくらでも湧いてくる。なのに、僕は切り出せない。頭の中を質問がぐるぐる回って、累積して頭がそれによって膨張して、その内圧のせいで出口が開かなくなっているみたいに。無闇にゲスしないこと、質問を一つに絞ればこの緊満も解ける筈だ、でも絞れない、逆に湧き出るばかりだ。いずれステーキが提供され、僕達は食べた。店を出るまで口を利かなかった、出て、僕が彼女に目線をやったときに、彼女も同じように僕を見て、視線が絡まる、その張力に目尻が緩む、「満足したね」「おいしかったです」直に通じ合う、僕の胸に甘く温かな染みが急峻に満ちる。だから口から漏れる息も、ステーキの香りじゃなくて芳しい別のものだ。
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