6-2
お腹がくちくなっても街の色は変わらず水色で、だけどその水色には裏地があって、それが濃紺だと、風に揺れてチラリチラリと見える。久美子さんに会いたい。翔さんに会いたい。二つの会いたいも裏表なのかな。蝉の声が聞こえる。あの幼虫とは関係のない鳴き声。求めても届かない会いたさは、あの日東京タワーで最後の客になって展望台から見た景色に似ている。でも目の前の太陽はまだ沈むつもりもなさそうに、熱波を放つ。
玄関は沈黙して、居間に入るとソファで述が小説を読んでいた。「ただいま」と声を掛けたら、文庫を閉じて「おかえり」と応えた。僕には彼に話すべきことがない、彼もまたそうだった、どちらからともなく視線を外して、僕は洗面所に、彼は本に向かった。家に帰って来たのは待ち時間を埋めるコンテンツが豊富にあるからだ、彼と過ごしたい訳じゃない。もうすぐ十二時、昼休みの連絡が彼女からあるかも知れない。部屋の雑貨、こいつらは今日の行動の起源の一つ、だけど久美子さんから呼ばれれば僕はその全部を置いて彼女のところに馳せる。マンガを読みながら、何度も何度も携帯を確認する。こういう行為を述は感受性の摩耗を生むものと断罪するけど、今僕の感受性の中心はマンガではなくて久美子さんにあるのだから、むしろ感性に殉じた行為なんじゃないだろうか。
何度見ても着信はない、メールもない。
最初は来ると信じて疑わなかったのに、時間が確信を削って、削ってもう鉛筆の芯くらいしかない。
一時を回った。
胸が檻に閉じ込められる。――彼女の休み時間は十二時から一時ではない。仕事中は休憩でも携帯を見ない。見たとしても連絡をしたりするのは仕事の後。今日は携帯を忘れた。単に忙しかった。可能性はいくらでもあるけど、彼女の不連絡は僕への意志か感情によるものだと分かる。昨日はまた来てねって言ったのに、心変わりしたんだ。彼女の人生に僕は要らない、排斥された。僕は会いたい人に会えない。ここは惨めな避難場所、行くべきところはもうない。
布団に転がってもう一度携帯を見る。やはり何の連絡もない。思い通りに行かない。誰かが僕を観察しているのかも知れない。僕を観ている誰かが想定しているものと、僕に潜在している未来の一致したところにしか行けないのだ。今すぐにその視線を閉じて欲しい。僕は蝉の幼虫じゃない。幼虫じゃないけど、視線に縛られるのは同じなんだ。規定された明日なんていらない。僕は僕の会いたい人に会う。
「逃げろ、視線から」
雑貨の全てに目が付いていて、集中砲火を浴びせるように僕を観ている。階下には述の目がある。僕を観ているのはそれだけじゃないだろう。でも、ここから逃げる。逃げれば決められた範囲から抜け出せる。僕の逸脱を翔さんだって喜んでくれる筈だ、彼だけは視線で僕を殺さない。
家を出る。向かう先は一つしかない。さっき乗った電車を逆方向に進んで、久美子さんの部屋へ。太陽の傾きが増した分、静けさの匂いが緑がかって、きっと誰もいない、それでも呼び鈴を押す。ない反応を確かめてまた押す。少し待って押す。何も言ってくれないから、連打する。連打して、何も言ってくれないから、僕はその場でへたり込む。「嫌われた」、僕の体内だけに届くような小さな声で呟く、体育座りの膝に突っ伏す。胸が空っぽになる、全身から力が抜ける。
選択肢は二つしかない。ここにいるか、帰るか。でも今は動けない。動こうとする気力が全部溶け出てしまった。動けないから動かない、だけど、動かなさにはやっぱり彼女を待つことも含まれる。……ここに、いよう。
いつかは彼女が帰って来る。そうしたら、僕のことをどう思っているのか必ず訊こう。他の全てはその後だ。
「久美子さんは僕のことどう思いますか?」
「久美子さんは僕のことどう思いますか?」
「久美子さん……会いたい」
捨て犬の気持ちで、じわりと涙が滲んだ。あらゆる涙の中で最も惨めなもの、それは捨て犬が家に帰って来ているのに無視されるときの涙。僕は彼女を待つ。僕は待つ。
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