6-1
蝉の声の中には間違いなくあの蝉がいる。その熱で景色も歪む太陽の下、汗をかきながら僕は電車に飛び乗り、昨日ずぶ濡れになりながら歩いた道をそのままなぞって久美子さんの住処の前に立つ。呼吸を整えて、でも心臓は収まらなくて、背中の辺りがゾワゾワする、呼び鈴を鳴らす。
反応がない。トイレかな。少し待とう、自分の勢いが殺し切れなくて足踏みをする。十回ステップを踏んだ、もういいだろう、再び鳴らす。
反応がない。お風呂かも知れない。だとしたら相当待たないといけない。時間を潰すために一旦彼女の家を離れて最寄り駅まで戻る。駅の向こう側には翔さんの病院、つまり久美子さんの働く病院がある。仕事中かも知れない。でも違うかも知れない。……確かめなきゃ。翔さんの面会に行くのと同じルートを通っていつもの病棟に入る。外の熱から急激に全身が冷やされて、汗が膜になってペリペリと剥がれる。ナースステーションの受け付けに見知った顔のクラークさんが座っている。
その前に立つと、彼女は困惑した、幽霊を見るような顔をする。でも彼女はプロであることを思い出したように微笑を被せる、僕の目を見る。
「何か御用ですか?」
「久美子さんはいますか?」
怪訝な表情が一瞬覗いた後にまたプロの微笑に戻る。
「苗字をお願いします。それと、患者さんが入院中かどうかについては答えかねます」
「苗字は分かりません。患者じゃなくて、看護師さんの久美子さんです」
彼女の人工的な微笑に罅が入る音がした。
「毎日会っていたよしみですから、守衛は呼ばないでおきますので、お引き取り下さい」
「久美子さんが今日働いているかどうかを知りたいだけなんです」
「お引き取り下さい。本当に守衛を呼びますよ」
彼女が怖い顔を、それは微笑の罅から垣間見えるから余計に怖いのだろう、するから、引き下がった。最高の思い付きの悪戯をしたらこっぴどく叱られたみたいな気持ちでエレベーターの中で俯く。病院の出口で守衛室の馴染みの二人をじっと見た。もしあのクラークさんが彼等を呼んでいたら、今頃あの部屋の奥で事情聴取のようなことをされて、警察を呼ばれていたかも知れない。そうしたら久美子さんに会えない。だから僕の選択は正しい。正しいのに、胸に穴を開けられたみたいだ。
駅前まで歩く。
「最後の手段、か」
述の教えによれば、携帯電話を使うのは奥の手にすべきだ。それも感性を保つための方策だと言う。でも、今はそれが必要だ。そのために連絡先を交換したのだ。電話を鳴らす。留守電になる、今日も部屋に行こうと思って訪ねたが呼び鈴を押しても返事がなかったので電話をした旨を入れる。今のタイミングでも出ないと言うことはお風呂は可能性が低くて、仕事中がやはり考えられる。昼休みらへんで電話を見るかも知れないけど、見ないかも知れないから、一度家に帰ることにする。電車の速度が僕と彼女の接近を引き剥がす。一緒に僕の柔らかいところも持って行かれて、降りた駅から見る地元の街並みが水色のカーテンを被ったみたいだ。お腹が空いているからかも知れない。
牛丼屋に入ると奥の席に翔さんが座っていた。そんなことはあってはならない。目を擦ってみてもそれは翔さんで、当たり前のように牛丼を食べている。店の中はガラガラ、店員に別の席を勧められたけど断って彼の隣に座った。彼は僕のことに気付かずに、黙々と食べている。僕は、あの、と声を賭ける。ん? と彼がこっちを向く、だけどそこには長年培った友情との再会を喜ぶ色はなく、不思議さよりも警戒が色濃い。
「翔さん、だよね。生きていたんだ」
「違うよ。誰だそれ」
「そっくりさん?」
「うるせえな。俺がオリジナルだよ。勝手に人を偽物扱いすんじゃねぇ」
「じゃあ、違うの?」
「だからそう言ってるだろ。けったくそ悪い」
彼は、ふん、と鼻を鳴らすと残りのご飯を一気にかっこみ「ごちそうさま」と店員を呼ぶ。「何なんだよ」と吐き捨てながら僕の後ろを通って店を出る。彼の器は翔さんだ。でも中身が違う。だから僕は再会していない。どちらかが違うならその交点たる人間も違う。僕は翔さんに会えなかった。胸の中で花が萎む、萎んでいることを知って初めて僕の中に花が咲こうとしていたことが分かった。僕は彼がいなくなった席をぼうっと見詰める。そこには翔さんの器もいない。でも器にだけ会っても意味がない、偽物ではもっと辛い、僕は翔さんに会いたい。
動かない僕、店員が「ご注文は?」と訊いて来た。
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