5-2

 僕は直に自分の部屋に向かった。階段から見え隠れする居間からは述の気配が漏れている。本を伏せるようにその気配から目を逸らす。

 部屋に入る。手探りで電気のスイッチを中指の腹で灯せば、乱雑に居並ぶ物達。自分の器の中に容れているものも同じだ、いっそ全部捨ててしまおうか、でも、どれにも少しずつ思い出が付着している。入れ歯型のペーパーホルダー、赤と茶色のマラカス、廃バスから貰った鏡、拾った道路標識、輪ゴムで出来たボール、足のサイズを測る板、悪魔やナースの人形、いくばくかの関わり、……並べれば忘れる程度の、だから大切とは言い切れない、僕とそれが共有した時間と心。久美子さんの部屋は殆ど小物がなかった。多分必要なものと、ちゃんと愛しているものだけで構成されているのだ、それは彼女がそこにいたからかも知れないけど、あの部屋の居心地のよさを生んでいた。自分のこの部屋よりもずっと、僕がそこにいることにフィットしているかも知れない。ただ物がなければいいなら述の削ぎ切った部屋でも同じことを感じる筈だけど、あの部屋は尻が座らない、僕の持っているものを吸い上げられそうな、脅かされる不安定を強要される。久美子さんの部屋はその観点なら、存在を許される、不可分なエネルギーを貰う、そう言う場所だ。

「明日」

 僕が欲しているのはエネルギーなのだろうか。それとも久美子さんに会いたいのだろうか。僕は想像の中で彼女とキスをした、僕はキスがしたいのだろうか。彼女としたいのだろうか。それともキスを誰かとしたいのだろうか。酒も煙草もまだだけど、キスもまだだ。鼓動が早まっているのが分かる、僕は興奮している。次に彼女と会ったとき、想像したことが起きるのかは分からない。自分から起こすのは怖くてダメだ、でも迫られたら流されたい、……多分そんなことにはならない。彼女が無防備に部屋に招き入れたのは僕のことを子供だと思ったからだ。その子供がびしょびしょになって泣いていたから、手を差し伸べた。また来てもいいと言ってくれたのも、その延長線上の優しさに過ぎない。再会したら、僕は悶々を服の下に隠しながら、彼女はそれを想定の外に置きながら、翔さんについての話をする。僕は彼女が思っているような子供じゃないのに、無邪気な顔をするのだろうか。それとも僕の男性を少しずつ開いて、彼女がそれを受け入れるかどうかを試すのだろうか。そんな勇気が僕にあるのだろうか。意気地なし。

「彼女と対等に対決するのなら、僕は今のままじゃいけない」

 だから、対等になりたいのか分からない。劣情だけがそれを求めて蠢いている。――本能が溜まってるんだよ。千太、心で感じるものを摂取しようぜ、もっと――翔さんが言っていたのはこのことだったんだ。本能で求めるんじゃなくて、心が求めたら、動く、それが正しい、少なくとも彼の正しさ、僕が今になってやっと自分の器に入っていたことに気付いたもの。僕の心は。自分で見詰めると自分の心はぬるぬる逃げる。蝉の幼虫なら視線が未来を決めるけれど、心は決められたくないのだ、視線そのものから逃げる。もしも他の誰かが僕の心を見詰めるのなら、同じように逃げるのだろうか。それとも、蝉のように未来を決められるのだろうか。僕の心にまっすぐな視線を向けるのは翔さんと、多分、久美子さん。やっぱり彼女に会わなくてはならない。僕は僕の心を人を使って知ろうとする、酷い人間だ。その酷さを受け止めてくれる相手に、つまり甘える。僕は卑怯にも彼女を使って僕が彼女を欲しているかを知るのだ。

「対決も何も、その後のこと」

 会いたい気持ちを会いたい理由が追い抜いて、僕は何か一つお土産を持って行こうと雑貨を物色する。だけどそのどれもが新しい未来を共にする相手に渡す物として不適格だった。既に何かしらの手垢が付いているから。僕が元カレの服を着せられて平静でいられるのは前回までだ。僕の中に彼女に対するものが何も芽生えていない、白紙の状態だったから、新品のパンツを穿くのと同じ気軽さで着た、でも、もうダメだ。それと同じように、二人のための小物でなくちゃ、少なくとも僕が彼女のために用意した新しい小物じゃなくちゃ、穿き古しのパンツを着させられる不快な、絡まり切った鉄線を胸に押し込まれるみたいな、目を背けられない感覚に苛まれることになる。僕は彼女のためだけに特別に時間と労力を割く。明日きっと割く。

 頭がふらんとする。自覚すれば体は重くて、立っているのがきつい。僕はまだ塩の残る服装のまま横になる、それでも明日のプランを練る。練ろうとするのだけどベタベタした睡魔に一挙に意識を持っていかれた。

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