5-1

 玄関に述の靴。

「ただいま」

 意図していない、いつもより少しだけ大きな声。この場所が僕の場所だと所属を表明しようとしたのかも知れない、それとも述に迎え入れて欲しかったのか。自分で自分の感情が上手く分けられない。翔さんは死んで、久美子さんと出会った。僕の中のものがなくなって、次のものが入った。それでも僕は僕のままだと思う。玄関で靴を脱がずに立ったまま、本当に僕が、内容物が変わっても同じ僕なのか、知りたい、頬をつねるだけでそれが判別されるならどれだけ楽だろう。

「述、ただいま」

 今度は家中に響く声、居間のドアが開いて彼が顔を覗かせるシルエット。

「おかえり。どうした?」

 咄嗟に芯にはない方の理由を放る。

「塩を振って欲しいんだ」

「……そっか。そこで待ってて」

 彼は僕に背中を向かせて、ぱっぱ、と肩に塩を振りかける。何も言わずに、その塩を手で払う。述の手の先の感触、僕の正面にあるのは壁、いつも意識したことのない壁がそこに立っている。「完了」、述はそう言ったまま動かない、僕は彼と彼の感触と、壁の間に挟まれている。電極のように彼から壁に何かが流れていて、でもそれは微弱だから僕が意志を持てばすぐに振り払うことが、振り向くことが出来る。だけど、今の塩が祓ったのが翔さんだから、もう少し見送っていたい。述は何も言わずに立っている。僕はその前で壁を見ている。違う。祓ったのは翔さんじゃない、死だけだ。そして僕が述を呼んだのは、今の僕に関してのことだ。

「述は、器と中身、料理の本体はどっちだと思う?」

「中身」

 肩越し聞こえる彼の声に迷いはない。

「じゃあ、器と中身、人間の本体は?」

 彼は黙る。玄関は家の中で最も薄暗くて、床の間の掛け軸よりも幽玄に近い。だからここで塩を振る、だからここで明らかにしなくてはならない。だけど彼は沈黙の塊、そこに彼が立っているのは了解しているのに、徐々に彼が薄影に溶けてしまう。振り返ってはならない。彼が存在を肉声にするよりも早く、振り返ってはならない。もし彼が闇に溶出し切ってなくなってしまってもそれは仕方のないことだし取り返しがつく、だが、僕がその道程を視線で寸断したなら、彼は消えてしまう。彼が必ず言葉を発すると僕は信じるしかない。その信じるが受動から能動に変わるとき、信頼になる。僕は彼を信頼している、いつからかはもう分からないけど、その信頼を彼が裏切るときがあるとすれば、それは彼にとり不可抗力なもの、その殆どは死に違いない。彼は黙秘、すなわち彼の意志によって外側から内にかける圧力で黙っているのではなく、その逆にある、内側で醸成されつつあるものが外へ爆発するに足るエネルギーを蓄え切っていないから黙っているのだ。僕が信頼しているのはきっと、彼がそのエネルギーを十分に膨張させて、発すると言うこと。僕は待つ。壁がもう、よく見知った風景になっている。

 述が影になってゆく。僕は一切諦めない。最後の最後までこのままここに屹立していよう。既に夜で、光景の変化はないけれど時間は流れる、彼から壁に流れていたものの正体は時間だ。彼から流れ出していたのかも知れない。だとしてもそれを戻すことは出来ない。僕は振り向けない。彼もまた一日を過ごして来た、僕と同じ以上の変化があっても何もおかしくない。

「千太」

 声に力が抜けそうになる。自分が投げかけた問いが何であったかももう忘れてしまった。ただ、述が存在を繋いだことが嬉しい。僕が頷くと、彼が丁寧に喋る。

「楽器と人間、音楽はどっちにあると思う? ……どちらか片方では音楽にはならない。どんな名器を使っても人間がしょぼかったら奏でられるのはつまらない音楽だ。人間が秀でていたらガラクタな楽器でもいい音楽を奏でるかも知れない。だけど、それがガラクタじゃなかったときに演奏される筈だった可能性が削り取られる。器と中身に関しても同じことが言えるんじゃないだろうか。その交わったところが人間、じゃないのか」

 彼は発した言葉の分だけ輪郭を取り戻して、放出した思考の分だけ重みを取り返した。今、僕の後ろには述が立っている。

「じゃあ、人間は、中に容れるものによって変化してゆく?」

「変わってしまうだろうね。もし変わらないならそれはもう人間ではなく、石だ」

「変わらない友情は」

「それは友情を選び続けている」

「いつでも嫌いな人参は」

「部分的に石になってるんだよ」

 述は自らを生き残らせた考えに夢中になっている、トーンは一枚ずつ上がっているし、いつもよりも断定の色が濃い。だけど僕にはそれが好ましく爽やかに、彼の声に乗って胸を通過してゆく。新しく何かを容れたときに変化が起きて、その変化の場所が人間だと言う彼の論理が必ず正しい必要はない、かと言って対案を数えることに意味もない。真理であるかどうか、科学的であるかどうか、そんなことはどうでもいい。僕が今日から身を預けるに足る力があれば十分だ。それは僕の器の中に容れるということ。

「抜け殻には何が残る?」

「器の器、痕跡だけだ」

 庭の蝉の抜け殻と、翔さんが連なって脳裏に浮かび、久美子さんにキスをされているイメージが、そんなことはしていない、閃光のように焼き付いた。下半身にエネルギーが集中する感覚、鼓動の早まりに、息を詰める。詰めたけどすぐに吐き出す。彼女の舌はふわふわしたり硬くなったりしながら僕の口腔内を踊った。鼻をかすめる匂いは扇情的な甘さと柔らかさが半々に含まれていた、それがフェロモンの匂いだと直感した。そっと僕の両腕を掴む彼女の掌は切ない力を込めていて、僕は動くことが出来ない。僕はされるがままになることを切望している。だけど、フィルムが断絶したみたいにそこで空想上の記憶の彼女は止まって、きっと僕が自分から続きを描かなければ永遠にここで停止するのは分かる、だけど、僕は述の前にいる。うわごとにならないようにゆっくりと僕は言葉を放つ。

「新しく入ったものは、強烈だ」

 音もなく彼が笑った。それは問答の終わりを示していた。

「塩は十分だな」

「そうだね。ありがとう」

 僕は振り返らない。ギ、と床の軋む音、述の気配が遠ざかってゆく。居間に通じるドアを開ける音、少しして閉じる音。またしんとする、空気の中の精をつぶさに触れることが出来る程。僕は声を出したい。何と言いたいのかは分からない。その無言の衝動が積もって、胸の底から無音の塊がせり上がる、その圧力に口が開く、玉になって唇を通り抜ける。壁と僕の間にそれは漂い、飛行機雲が空に消えてゆくように溶けた。僕は見届ける、見届けたら今度は別の色の塊を口から出す。出してみてそれがため息だと知り、コーヒーにミルクを均一にするように空間に混ぜた。

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