4-3

「翔さんが死にました」

 彼女はそんなことは知っているのに、「そうだね」と受ける。その声が部屋に響いて、響いた部屋の声が僕に入り込む。胸の内側に軟膏を塗られたみたいで、もっと欲しい、貰うには喋らなくちゃいけない。

「翔さんが死にました」

「それは分かったよ。どんな気分?」

 僕は話すことではなくて聞くことが目的だと自覚しながら、釣りで撒き餌をするように言葉を連ねることに決めた。

「何か、胸の中に空洞が出来たみたいです」

「翔さんの分かな」

「多分。いや、それ以外はないですよ、今」

「そりゃそうか。その空洞の輪郭をなぞってみてよ。ず、ず、ず、って」

 なぞる行為が舌でするイメージで、僕は訂正せずに、心の中で頭を下げて、フチを舐めなぞる。でもその格好があまりにもみすぼらしくて、可動式土下座みたいで、ひどく身分の低い男の所作のようで、加えて味が鉄錆、いや、血の味しかしなかったから、早々に切り上げた。

「最悪の気分です」

「それが今の気分だよ」

 違うだろ。穴のフチが失敗なのだ。中心に向くべきだった。彼女がそう言うかも知れないけど先んじて、穴を確かめる。思っていたよりずっと浅くて、潮干狩り感覚で穴の中を歩ける。でもときにクレパスがある。その底は見えない、どこかに繋がっているのだ、それは僕の心の中心だ。精で埋めなくてはならないのはここだ。

「久美子さんの声で、僕の胸の穴を埋められそうです」

「そうなんだ」

「何か、話をして下さい」

 彼女は黙った。黙るために黙ったのではなくて、話の準備をするために黙った、それが彼女の気配が膨張したことで伝わって来る。翔さんに話をせがんだことは一度もなかったし、促されたこともない、僕達は太陽が大地を熱すれば海との間に風が起こるように、話すことが当たり前だった。沈黙ですら話の一部で、それが途切れたときは僕が帰るべきタイミングで、次の日になればまた僕達は話し続けた。翔さんの永遠の沈黙も話の一部なのだろうか。僕はそれでも彼に話し続ける? それとも、終わりなのかな。……終わり。涙が器に過剰に水を、ゆっくりと注いだときのように静かに胸の中に溢れ、その溢れた分が胸のもう一段下の受け皿のようなところに溜まる。受け皿から零れたら、目から流れた。

 彼女は僕の涙に気付いただろうか。……気付かないでいて欲しい。闇の中別々に転がって音もなく流す涙なら秘匿のままでやり過ごせるかも知れない。僕は隠密に流涙を続け、機密を守ったまま涙を流し終える。彼女の部屋の中なら、こうやって彼女の裏側で翔さんとがあってもいいんじゃないか。

「千太、泣いているね」

 僕は答えない、なのに意志に反して鼻水を啜ってしまった。まるでそれは言い辛い僕の状態を伝えるために音によるジェスチャーをしたみたいだ。だけど誓って違う。鼻水が何を伝えたとしても、僕は黙って秘していた。僕の無言の言い訳が彼女に届いたのかどうかは分からない。彼女はそのことに触れずに、話を始めた。

「ただ思い出したから話すだけだけど」

 彼女からいでた音波が部屋の中を飛び回って、そう設計されたかのように、僕の胸に集中する。

「いや、やっぱやめた」

 やめるの声すらじんじんする。そのじんとした感触を味わいながら、僕は少し身をよじる。

「どうして?」

「刺激が強過ぎる。それに、この夕闇に沿ぐわない。品が足りない」

「僕は大丈夫です」

「知り合いが、セックスに飽きて、どうやったら燃えるかを探究する話だよ?」

 想定以上の下世話さに閉口する。どうしてそんな話をしようと思えたのだろうか。……結局話さないことを選択しているけど、ほぼ話しちゃっている。こんな内容なのに僕の胸は少しずつ満たされている。蜜を一滴ずつ垂らすように、滑らかに粘る。クレパスを通じて僕の芯に、彼女が入って来る。何を話したかじゃない、誰が話したかが大事だ、僕の全部が余すことなく少しだけ元気になる。

「その話はいいです」

「後はつまらない話しかないよ。それにそろそろご飯が来るし」

 言った切り彼女は黙って、僕も何も言わない。夕陽の落ちた闇には沈黙が相応しい。それはまるで不貞腐れた二人のようなのにその実は通じている。まだ僕達を明示的に通じるものはない。翔さんが引き合わせたことだけが彼女と僕を繋いでいる。それでいてもう二人はその繋ぎから脱皮して、新たな二人になろうとしている。だけど、それがどんな二人なのかまだ分からない。友人のセックスの話をつまみにする二人ではない。霊魂になった翔さんは僕達のことを観察しているだろうか。もしそうなら、僕達は定められた二人にしかなれない。その圧力を感じない、翔さんはいない、ここにだけでなくどこにも、いない。僕達は何にでもなれる。でも、それは願った場合のことだ、まだ僕は、僕達が何になるのか願っていない。ただ彼女の声を受け止めて、それによって癒されているばかりだ。

 なかなか出前は来ない。久美子さんからは寝息が聞こえる。その無防備さに僕は動けない。自分で自分を縛ったみたいに不自由を強制して、呼吸までが規律の中、僕は自分を律する力と彼女の寝息を聞き取る力の二つだけになって、その音の中に甘いものを見付けては鼓動を早める。次第に熱中して、それは盗み聞きだし、聞く以上のことをしないし、自分が特異な趣味を持つ男のように思えて来る。その変態性はたった今芽生えたものだ。言葉を発してもいけない。ただ聞く。僕は自分で作った密室の覗き穴に耳を当てて、暗くて暑いその中でまるで裸で、彼女の吐息を数えている。でもこの興奮の行き場が分からない。それが分からない内は一人前にはなれない。変態としても僕は脱皮をしないといけない。次第に自分の息がはあはあと高まってしまう、それを深呼吸で収める、暴れる息は次第に制御不能になろうとする。だから息を止めた。

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