4-2

 シャワーから出ると、ダボパンとシャツと、さっきとは別のバスタオルが脱衣所に置いてあった。ドアを少し開ける。

「これ着ていいんですか?」

「いいから置いてるんだよ」

「彼氏のですか?」

「元ね。そこら辺は心配しなくてよろしい」

 嗅いでみたら柔らかい香りしかしなかったから、髪を乾かしてから着る。ドアの向こう側はクーラーがよく効いている、久美子さんが胡座をかいて座っている。

「ご飯を出すと言ったのに、材料がなかった。……何か出前を取ろうよ。私はチャーハンと回鍋肉が食べたい。中華料理でいい?」

「いいです。僕は、あまり食欲がないです」

「翔さんなら何て言うだろうね」

 僕は彼女の顔を凝視する。そこには悪戯の色はなく、僕が只中にいるのと同じものを背負っている顔があった。

「彼氏、死んだんですか?」

「ひどい失恋は死別と同じくらいしんどいんだよ」

「翔さんは、気合いで食え、って言うと思います。……だから、久美子さんと同じものを食べます」

 彼女が深く頷いた、途端に今が夕暮れ時で、オレンジが窓から射していて、部屋のちゃぶ台を挟んで久美子さんと座っていることが僕の中に映り込んだ。彼女は半分影で、「よし」と言って注文の電話をかけた。

「僕はここにいていいんでしょうか」

 彼女は慈愛に勇敢さを足したような顔で微笑む。

「いいから、呼んだんだよ。……それで、翔さんはどうだった?」

 彼の最期の顔が脳裏に蘇る、でもそれが死ぬ直前の寝息なのか、それが止まった瞬間のものなのか判別が付かない。頭の中で彼の時間を戻して、流して、それを繰り返して、それは殆ど一定のものをなぞっているだけに過ぎなくて、止まった事実が反復の度に希釈されるのに、止まったと言う現実だけがシャープに浮き出て固定されて行く。翔さんは死んでしまった。

「寝てて、そのまま死にました」

「そっか。苦しまなかったね、きっと」

「死に際を僕に見せるって、約束してたんです」

「それで、息子、ってことになってたんだ」

「てことに?」

「本当の家族構成とか、全部把握してるんだよ。でも、翔さんが君を息子だと言うから、そうしたんだ。ほら、元々は一緒に働いていた人も、私は違うけど、いるから、融通が効いたの」

 やっぱりそうだったんだ。僕には言わずに、ほくそ笑む彼の顔が目に浮かぶ。企みは功を奏して、僕は彼の最期に立ち会うことが出来た。

「まだ、彼の死が何なのか、分からない」

 彼女は一旦俯いて、何かに耐えるように首を振る、閉じた瞼を開けるのと同時に僕を見る、僕もオレンジの影に大分なっている筈だから本当は僕の顔なんて見えてないのかも知れない。

「じっくり、向き合えばいい」

「久美子さんは何度も、死を?」

「そうだね。仕事でもそうだけど、プライベートでも何度かあるし、……仕事とプライベートでは死の距離が全然違うからいっしょくたには出来ないけど」

 言葉に見えない吐息が混じるみたいで、きっと一つ一つの死を想起しているのではなくて、彼女の中に溜まった「死」の総体が彼女の言葉の裏側に静かに張り付いている。それは強くもなく、弱くもなく、在る、匂いのように。

「そのとき、どうしましたか?」

「向き合って、喋って、考えて、また喋った。……喋るのは大事みたい」

「僕にも喋ることが必要なのかな」

「私に喋ってごらんよ。今はまだ混乱してるから難しくても、お腹いっぱいにして、よく眠って、自分でも考えてから喋るの」

 述には話せない。他に話せる相手もいない。どうして今、久美子さんと出会ったのだろう、翔さんのせい?

「迷惑じゃなかったら、聞いて下さい」

「もちろんだよ。だから喋れって言った」

 喋る話をしていたのにそこで言葉が止まった。死んだ会話は生き返らない。彼女はテレビをつける。千年後にも変わらないようなバラエティ番組が一瞬映って、チャンネルを変える。「私今の人嫌いなんだよね」、ニュース、クイズ、動画の番組、野球中継、別のニュース、他のバラエティ、ザッピングの末に野球中継を選んだ。チャンネルを合わせた瞬間にホームランが打たれた。横浜が巨人に圧勝している。

「負けてるし」

 彼女の呟きには猛毒の響きがあった。絶対に触れてはいけない。ファンを公言することは急所を掲げて歩くようなものだ。当然、それを守る武器も強力になる。やり合うつもりがないのなら避けるべし、……と、翔さんが言っていた。僕は贔屓のチームはない。そもそも野球を観ない。

 彼女がテレビを消す。将棋指しが駒を打つよりは優しく、赤子にゲップをさせるよりは激しく、リモコンをちゃぶ台の端に据える。

「テレビってやなものも垂れ流すよね」

 肩を竦める彼女に「そうですね」、言った後に生返事だったと自覚して、でももう放ってしまった。彼女はそれを意に介さず、「どんな番組観るの?」と興味があるのかないのか分からない温度の言葉を継ぐ。

「テレビは観ません。同居人の哲学に従って、観ません」

 彼女の瞳に映った好奇心はテレビなんかよりずっと生の楽しみを予期していて、彼女が動いていないのにグッと近寄った。僕はそう言うときに相手の興味を引き摺らせるために話をあっちこっちに広げたり、クイズにしたり、迂回そのものに楽しみの真髄があると信じているような行動を心底軽蔑しているから、膨らんで面白い話と言うのはそう言うことじゃない、言うなればどちらかが答えを知っているのを高く翳して相手を踊らせる遊びを遊びと思えない、ゲームの始まりを摘む。

「男ですよ。恋人じゃないです」

「なんだぁ。じゃあお互いフリーな訳で、気兼ねする必要はないね」

 そう言うつもりがあるのだろうか。それとも単にからかわれているだけなのだろうか。彼女の真意が見えない。でも既に僕は助かっている。助けられている。彼女のいるここはシェルターだ。翔さんの死に向き合う場所でありながら、死の威力から守られている。洗濯機が回っている。夕闇に空は侵されて、この部屋だって暗くなって、もう久美子さんの表情は全く見えない。オレンジの残渣が僕を切り抜くみたいに急に空っぽにさせる。さっきまで気付きもしなかった、摩耗の末の空虚が僕の全部になって、僕は床に仰向けに倒れ込む。腹に何も入っていないからなのかほんの少し僕が平らになり切らないで、腹部がカレー皿のように曲がって、そこに何かを入れられることを待っている、胸の方も同じに、何かの精を一滴垂らされることを待望したまま、だけど胸腹にそれを得る能力はないから、僕が手に入れなくてはならない。久美子さんも羽毛のように静かに横になる。僕には夕暮れの気配しか見えないけど、彼女がそこにいることは理解される。

「翔さんが死にました」

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