4-1
積乱雲が遠くに大きい。今日は濡れてもいいや、雲の方に歩く。そっちに何がある訳じゃない、ここで止まっているのが嫌だった。僕とは無関係な顔をした人の流れを泳いで橋を渡り、長い坂を下って行く途中で雨が始まった。垂線はすぐに僕の周りを覆い尽くす、水煙で霞む視界の中、僕は歩き続ける。大気を引き裂く雷の音、幼虫の抜け殻は流されてしまっただろう、体を伝う雨水は温くて、翔さん、雨の中心に向かって進む。
僕は翔さんの死を観た。彼との約束を果たした。止まるかと思った時は止まらずに、彼が止まった。美しいとか荘厳とかそんなものはない、停止が死の正体だ。涙は結果に過ぎない。いつか彼が言っていた、「生命は生命からしか生まれない。だから、この世の生命は全部繋がっているんだ」、そうならば僕と彼も繋がっている。いや、生命が別であったとしても繋がっていた。そして彼が死んでも、僕は生きている。雨に打たれている。でもだとしたら、死も生命からしか生まれないんじゃないのか。彼と議論したい。でも彼はいない。もう、いない。一度は止まった涙が流れる、顔を濡らす雨に混じってどっちが頬を伝っているのか分からない、だけど、僕は泣いている。また心がこんがらがって、泣くだけの僕になる。ザアザアに身を任せて、歩く。
坂を下り切って、住宅街に踏み込んだ、雨がケロッと止んだ。涙はまだ止まらない。歩みも止めない。僕はどこに向かっているのだろう、雨の中よりももっと足が重い。太陽はあまり役に立たない、僕が体内から水を出し続けているから、でもそれも徐々に弱まって、拳で拭ったら荒い息を少しずつ鎮めて、歩く。
「翔さんの息子さん?」
女性の声に僕は顔を上げる。上げて初めて自分が俯いて、焦点が合っていなかったことに気付く。
「やっぱりそうだ。どうしたの? そんなにずぶ濡れで」
空色のティーシャツにジーパン、黒いキャップを被った髪の長い女性。
「すいません、どちら様ですか?」
言いながら何となく分かって来た。
「白衣じゃないから分からないか。病院の看護師よ。何度も会ってるじゃない」
そうじゃなきゃ「翔さんの息子」と言う筈がない。異国の地で同郷の人に会ったみたいに、彼女の周りだけが気の休まる場所のよう。
「何度も会ってます」
「思い出したね。さて、どうしてずぶ濡れなのかな? 風邪引くよ?」
「翔さんが死にました。それで、歩かなきゃと思って、雨が降ったから、濡れました」
彼女はもう一度僕の濡れ具合を上から下まで検分する。ふぅ、と小さなため息をついてから、お節介の予備動作と分かる笑みを、それはどこか油分が多い、浮かべる。絡め取られるように僕の表情の自由が奪われる。
「うちがすぐそこだから、シャワー浴びて行きなよ。服は洗濯して乾燥かければすぐだし」
え。困惑する僕を躾けるように彼女がじっと僕の目を覗く。
「遠慮しないの。ご飯くらい出すよ」
「でも」
「ここで会ったのも何かの縁だよ。さ、行くよ」
彼女は僕の手を引いてずんずん歩き始める。抵抗すれば出来た、でも、押し付けがましくても優しさに、従ってみようと思った。本当に近くに彼女のアパートはあって、玄関でバスタオルを渡されて服を脱ぎ、浴室に向かう。
「私、
「千太です」
「千太、よく温まりなね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます