3-2

 コンビニでバニラアイスを二つ買って、ビニール袋に下げながら病室に入る。

「今日も来たよ」

 彼は返事をしない。また寝ているのかな、顔を覗くとやはり眠っている。肩を揺すって起こす。

「起きてよ、翔さん」

 だけど反応がない。確かに寝息は立てているから、約束を反故にして先に逝った訳ではない。だけど、これまでは揺すれば反応があったから、これは普通ではない、僕はアイスをテーブルに置いてナースステーションに向かう。

「翔さんが反応しません」

 看護師さん達は顔色を変えずにしかしテキパキと、病室にモニター類を運び込み、すぐに、ピ、ピ、ピ、と心拍の電子音、翔さんは寝息を立てている。

「どうですか」

「先生を呼んでますから、先生から話を聞いて下さい」

 来た先生は初対面の人で、若そうな男性、でも疲れている。看護師さんから情報を聞き「ご家族の方ですか?」と僕に訊く、どう答えよう、一瞬考えた隙に一番年嵩の看護師さんが「息子さんです」と割って入って来た。僕は息子じゃない。だけどそう言うってことは翔さんがそう紹介していたってことだ。彼のことだ、隠し子とかまで言っていたかも知れない。

「息子さん。お父さんは危篤状態です。今は眠っているように見えますが、血圧が下がって、脈拍が遅くなって来ています。持ち直さなければ、お亡くなりになります」

「分かりました。どれくらいの時間がかかりますか?」

「それは分かりません」

 先生は質問がないことを確かめると部屋を出て行く、看護師さん達もそれに続いた。僕は翔さんとモニターと取り残されて、そこに出ている数字がゼロになったら臨終だと言うことは分かるから、椅子に座ってモニターと彼を交互に見ながら、じっと待つことにした。彼が回復することをなのか、死ぬのをなのか、いずれにせよ待つことにした。でも、黙って待つのはつまらなかったから、一方的に話しかける。

「息子って。そんな風に僕のこと思ってたの? いや、違うね、立ち会えるためにそう言ったんだ」

「心で感じるものだってきっと言ってくれるものが昨日あってね。蝉の抜け殻の話なんだけど……」

「暴力とセックスと本能についてもう少し考えてみたよ」

 応えないから、僕の声も止まった。二人で話すと話題なんて尽きたことがなかった、彼は寝息を立てている。僕は横で観ている。時間が段々速度を落として行くみたいに間延びして、さっきと今がごっちゃになって、ずっと寝ている彼を守っているだけの僕。

 僕は喋ることを再開しようと息を吸うのだけど、何を言ったらいいのか分からずに空気だけを吐き出す。危篤ってのがどういうものなのかよく分からない。死ぬ可能性が高い状態だってのは理解出来るけれど、スタッフが場所を離れると言うことは数分のスパンのことではない、しかも持ち直すかも知れない、僕は待つことしか出来ない。約束を果たすのなら、彼が死ぬことを待っている。

 人の死に立ち会うのは初めてだ。だけど全然わくわくしない、かと言って不安にもなっていない。興味本位になれないのは相手が翔さんだからなのか、それとも、死だからなのか。もうすぐ死にますと先生に言われてもピンと来てないのかも知れない。僕は死を知らな過ぎるのか。永遠の別れだってことは分かっている。そこだ。僕は翔さんと永遠の別れになっても苦しくないんだ、だから涙が出て来ないんだ。僕は非情なのかな、違う、翔さんは僕に息付いているから、別れが別れじゃないんだ。それに、今も彼は息をしている。こんな危篤くらい簡単に乗り越えて、また色んな話をするに決まっている。

 ピ。ピ。ピ。

 モニターの音の間隔が少し広がった。

 本当に死ぬのかよ。寿司食って満足か? 僕に死ぬことを見せて、よかったって思えるのか? どっちも「そうだ」って言うよ。分かってる。音の間隔がまた広がった。

「最後に何か言えよ!」

 彼の肩を揺する。でも反応しない。音が疎らになる、そして、ピーとブザーのような音になる。

 息をしていた。それが、停止した。まるで彼の時間だけ張り付いたみたいに、止まった。

 死んだ。

 ここにあるのは翔さんの抜け殻だ。僕に観察されて、彼はいったい何になっただろう。スタッフが入って来て、しばらくして先生が来て、死亡を宣言した。それは儀式と言うには手慣れ過ぎていて、やっぱり業務なのだ、最後のお別れをしたら体をきれいにするから一旦離席して頂きますと看護師さんに言われて、言った彼女達がいなくなって、また翔さんの抜け殻と二人。

「翔さん、僕、ちゃんと見届けたよ」

 彼がニヤリと笑った。気がしたら、涙がぼたぼたと溢れて来た。彼がもういないことが刺すように理解されて、その先端が胸の深くまで届いている。凪に近かった感情が、マントを翻したように混乱の塊になる。

「あのさ」

 涙は止まらないけど、言わなきゃ。

「ありがとう」

 今度は皮肉じゃない顔で笑う。彼のために泣いているのか、自分のために泣いているのか、もう区別が付かない。耐えてみようとしたけど無駄で、枕元のティッシュを奪って顔を拭く。時間は動いている、着実に彼の死は過去に連れ去られて行く。同時に抜け出した彼も進む。でもどこに行くのだろう。彼の好きな、大切な場所だといい。本物の息子がいるならそこに行けばいい。愛した人がいるならそこに行けばいい。でも、もし誰もそんな人がいないなら、僕のところにいてもいいよ。成仏したければすればいいし。

 涙が勢いを弱めたら、す、と止まった。

 看護師さん達が入って来て、部屋を出されるときに、テーブルの上のビニール袋を持って行くように言われた。

 待合で開けると、バニラアイスは完全に溶けていた。「乾杯」、翔さんにそう言って、僕は二つとも一気に飲み干した。

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