2-2

 病室は個室で、木目調の調度品、窓から陽光が祝福のように射し込んでいる、でもその光は彼のところまで届かない。

「翔さん。今日も来たよ」

 ベッドの上の彼がほっとしたように笑う。

「おう。飽きないね」

 僕はベッドの脇の椅子に座る。お土産はない。ボサボサ頭で病衣、翔さんは体を転がして僕の方を向き、頬杖を突く要領で頭を支える。体から微かに油の腐ったような匂いがする、それは先取りされた死臭だ、でもそう言葉にしたことはない。部屋に入る度にその匂いは強くなって、だけどしばらくここにいる内に気にならなくなる。皮膚の色も同じだ。すぐに認識の外に出るだろうと意識したことに彼は気付いたのか、くっくっ、と笑う。

「もうそろそろ死ぬそうだ。……勘付いてただろ?」

 僕は目が泳ごうとするのを力づくで留まらせて、「うん」と応える。

「俺はきっと、お前の目の前で死ぬよ。よく見てくれ。ちゃんと来るまでがんばるから」

「……分かった」

「赤の他人の俺に毎日顔を見せに来てくれるんだ。それくらいはしないとな」

 寂しいこと言わないでよ、言いかけて飲み込む。僕は寂しいと思っていない。死をくれるのが当然とも思っていない。僕は彼のところに来たいから通って、そしたら彼が死ぬ。

「僕は翔さんに会いに来ているだけだよ」

「それが」

 彼は言葉が胸に支えたみたいに困って、それでも思い切って大仰に息を吸う。

「嬉しいんだ」

 言いながら顔をくしゃっと笑ませて、形骸化するまでずっと繰り返して来た表情なのだ、僕の顔は静かなまま、僕は翔さんが好きだ。

「やっぱり死なないで欲しい」

「そりゃ無理だよ。末期癌だぜ?」

「医者がそう言っただけでしょ」

「データは全部見た。俺だって医者だからな。あの検査値と俺の今の状態じゃ、余命数週間と言うよ」

「そんなの予測だよ」

「ああ予測だ。だけど確実に死ぬんだ。多少の早い遅いはあっても、死ぬ。俺だけ摂理から外れる訳にはいかない、外れたくてもな」

「残された僕は?」

「知らないよ。だから死ぬところに立ち会えって言ってるんだ。いいかい千太、お前はまだ何者でもない。だから俺なんかに付き合えるんだ。俺の死に意味なんてない。お前が何かを感じたら意味が生まれる」

 翔さんは言い終えて仰向けに転がって、休む。彼の言葉を咀嚼しながら、僕は目を逸らして窓を見る。光を受け入れる窓の向こう側には木の影が立っている。夏ならば最も葉が濃い筈なのにそれが一枚もないのは、あの木が死んでいるからだ。立ち枯れは生と死の境界面上にありそうで、実際は死んでいる方に全部入っている。境目ではない。境界はきっと一瞬なのだ。翔さんはこれまでに死に立ち会って来たから、きっとその瞬間を僕に見せることに意味を見出している。でもそれが何かは訊いてはいけない。僕は僕の力でそれを掴まなくてはならない。……これから確実に彼が死ぬのに涙は出ない。

「僕は僕だ」

「一周回って、もう一回同じことが言えれば最高だ。俺は、俺だ。終わりまであと少しの中でよかったことは、これを言えることだよ」

「翔さんは初めて会ったときからずっとそうだったよ」

「そうかもな」

 僕だってそうだ。一周がどこを回るのか知らないけど、最初から最後までそう言えるってのが僕と翔さんの間に挟まれて証明されている。彼はときどき当たり前のことを言う。「そう言えば」と彼が天井を向いたまま呟く。

「明日もし来るなら、アイスを買って来てくれないか? バニラの」

「いいよ」

「その場で完結しない楽しみをこの状態で持つかどうかは悩みどころだよ。テレビドラマでもマンガでも、恐らく途中で逝くことになる。食事はその瞬間だけだからな。俺は単発で終わる方にする」

「他に食べたいものはある?」

「寿司なら食べられるかも知れない」

「代金をくれるなら買って来るよ」

「分かった。じゃあ、今買って来てくれるか?」

「今?」

「明日には食べられない状態かも知れない」

 言いながら彼は床頭台の金庫から財布を引っ張り出して、札を僕に渡す。

「病院の正面出て左側にしばらく行ったら『寿司しん』がある。そこで特上握りをおみやげで買って来てくれ」

「分かった。すぐ行って来る」

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