2-1
階下に降りると述が朝食を作っていた。ハムと卵の焼ける匂い。
「おはよう」
「お。起きたね。千太の分もあるからちょっと待ってな」
洗面所で歯を磨くと、蝉の鳴き声に気付いた、だけどそれは合唱で、個性は合算的に平で、昨日の幼虫が含まれているのか聞き分けがつかない。総合物になった声は丸くなって柔らかくて、彼の安否を希釈する。
ダイニングに戻ると既に配膳が済んでいた。
「さあ、食べよう」
二人のときには理由がなければテレビはつけない。曰く、感性の鋭敏さと柔らかさを両立させるためらしい。僕も倣って、同じルールで生活をする。陽光が射すダイニングテーブル、出来立ての朝食、僕と彼。確かにいらないかも知れない。
「今日さ、俺、
会ったことのない想像上の由美さんは、述の言葉を欠片にして集めたものだから、僕の中にリアリティ半分、もう半分は空洞のまま、空想で埋めない。
「チェロ?」
彼は吐き出せないため息が脳に回ったような顔をする。黙して残りの朝食を飲み込んだら皿を下げて、「一緒に洗うから持って来て」とチェロのことを忘れたような平穏な声で僕を呼ぶ。述は由美さんのことを好いていても、彼女の遊びの音楽は嫌いだ。それはリアリティのある方の半分に記されている。
「たまには僕が洗おうか?」
「お、助かる」
洗い場を交代したら、後ろの換気扇で彼が煙草に火をつける。彼の煙草の副流煙の匂いは嫌いじゃない。……どんな味がするのだろう。
「どうして述は煙草を吸うの?」
「美味いからだよ。子供の頃、ある大人に同じことを訊いたことがあって、その男は『悪い習慣さ』と格好を付けた。いざ吸うようになってみると、その答えは最低だ。嘘のつき方でその人の人間が分かる、その典型だよ」
子供を煙に巻くにはそう悪い嘘には思えない。そこには「いいことなんて何もない」と言うメッセージが明瞭で、だからこそそれでも吸っていることが疑問になる。述はその二面性が同時に来るのが気持ち悪かったのだろう。
「述なら子供にどう答える?」
「美味いからだって言うよ。それを聞いて吸うかどうかはそいつの勝手だよ」
「僕なら、体には悪いけど、って付け加えるかな」
「体には悪いけど、心にいい、って、だろ?」
「そうなのかな。吸ったことないから」
「いつでもおいで」
皿を洗い終えた。蝉の合唱が聞こえる。いつか老いたとき、耳が遠くなったら蝉の声も届かなくなるのだろうか。それとも、聞こえない耳の内側でずっと蝉が鳴くのだろうか。
部屋の中を大きく一周して、僕には由美さんがいない。いつか僕にも出来るのだろうか。茶色い革のソファに体を沈ませる。もう少ししたら病院の面会の時間が始まる、今日も翔さんに会いに行く。
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