1-3
立ち竦んでいた僕は、後ろからの述の声に我に返った。
「そろそろ入りなよ」
振り返る、逆光に表情は読めないけど、彼は片手に文庫本をまた持っていた。微動だにせず僕の応えを待つ。
「そうする」
中へ戻る、彼の横をかすめる。
「もう一度シャワーでも浴びた方が良さそうだね。汗よりも土の匂いがするよ」
「蝉の匂いだよ」
彼は小首を傾げて苦笑いをすると、「今度こそおやすみ」と僕を追い抜いて階段を上って行った。
シャワーの栓を捻れば外の音は聞こえない。汗と土、蝉の匂いを流しているけど、蝉の声も流れて行って、僕は羽化から初めて離れられる。僕は僕に収まって、肌は弾く力を取り戻す。
シャワーを止める、その音が小さく反響する、素早く収束して、しんとした部屋。
蝉の声がしない。
もう少し耳を澄まして、でもしない。彼の生は終わってしまった。蝉になり、鳴くだけ鳴いて、おしまい。
「明日の朝にはまた何事もなかったかのようにミンミンするよ」
僕は風呂場を出て体を拭いて、もう一回耳を澄ませる。聞こえない。粘った静寂だけが漂っている。でも今テレビを付けてはいけない。ラジオも音楽もダメだ。僕はこの沈黙に耐えなくてはならない。蝉の幼虫を観察したのだから。僕は座って、麦茶をゆっくりと飲む。いつかアルコールを飲むようになったら、今みたいなときに煽るのだろうか。酔うと言うのはどんな感覚なんだろう。陽気になるようだから、色々どうでもよくなる飲み物なのかな。大切なこともどうでもよくなっちゃうのだろうか。蝉のことはどうでもよくしていいものなのか。
「違う。……だから」
麦茶を飲み込む、音がする。コップを置く音。服を着る音。ドライヤーの音。どの音の間隙にもミンミンは聞こえなかった。二階の自分の部屋に行く。述と廊下を挟んだ向かいの部屋。二千冊のマンガ、集め続ける雑貨、ごちゃごちゃした中に僕の布団の周りだけきれいにしてある。述の殺風景に本棚だけの部屋と、扉二つ挟んで別の世界があるみたいだ。
布団に転がって天井を見る。その天井にもポスターが貼ってある。アイドルや女優のグラビアがたくさん。僕の部屋はインスタントに感情を動かすもので溢れ返っている。だけど、その中で生活をしているとそれらは当たり前のものになって、僕を動かさない。小物のどれにも思い出があるし、マンガの全部を何回も読んでいる。淫心をくすぐられたグラビアも、美しさに言葉を失くしたポスターもある。だけど今、それらは背景。
僕の中央にここはいない、蝉がまだいる。
僕が観察しなければ彼の未来は変わっていたのだろうか。それともやはり蝉になっていたのだろうか。
鳴いていたのだろうか。
「本当は蜘蛛だったんじゃないか」
あの蝉の幼虫から蜘蛛が出て、空を飛ばずに地面を這って、どこかで糸を出す。彼の望んだ未来を僕は奪った。大きな巣は美しく、そこに蝶を捕らえて食べたのに、ミンミン鳴いている。その鳴き声も止んだ。
僕の鳴き声は。
左手の手首を右手でしっかりと握る。阻血されて少しずつ左手が白くなる。右手を離す、左の掌全体に血が流れる、じわ、と音がするかのよう。反対も同じにする。子供の頃の遊びだけど、同じ確認をその時代にもしていたのかも知れない。
二回、三回、繰り返すと頭もジンジンして、両腕をパタン、体の脇に落とす。
目が冴えて、星まで見通せそう。その星から逆に僕を観る。観察しないでくれ。視線と闘っている内に夢の中、僕はそこでも僕に観られる幼虫だった。
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