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 中に入ると文庫本からのべるが顔を上げる。さっと僕の全体を検分して、面白いものは何も見付からなかったと口角だけ笑う。蝉の声はもう聞こえない。彼は文庫本に視線を戻して、栞代わりの折り鶴、黄色い、を挟んで、また僕の顔を見る。

「十分に観察は出来た?」

 僕は彼の隣に座る。彼はそのままの顔色で僕の方を向かない。

「羽化したよ。蝉に」

「当たり前の結果だね」

「観察していればそうなる。だけどそれを確かめたかった訳じゃない。それでも蝉を脱するかが知りたかった」

「科学を知っているツラをする奴は決まって、一回で結論を出すのは早いと言うよ。でも俺は一回ってのは十分で、二回目はその煌めきを損ねると思う」

「次に脱するかを観てはいけない?」

 彼は文庫本を手に取って、僕の前に置く。タイトルは「正気の辺縁と越境」。

「この小説を一回読むだろ? すぐに二回目を読んで、新たな発見と失われる感動のどちらが多いか」

「どれだけの蝉を観察すれば気が済むだろう。観察によって分化を抑制するだけなのに。……述の言う通り、一回でいいのかも知れない」

「でも何度も観たい映画はある。毎日観ても飽きない絵画もある」

 彼はガラスのように言葉を奏でる。

「僕にとって羽化がどっちか。……やっぱり一回でいい。他者の未来を制約するのも気持ち悪い」

「影響なら嬉しいのに」

「そうだね。なるべくいい影響がいいな」

「その影響がいいか悪いかは、最後まで分からないよ」

 彼は文庫本を自分の手許に戻して、パラパラと捲る。目に入ったページに書き込みがされていた。内容までは拾えない。小説からの影響とそれに対する思索が並んでいるのだろう。パタンと本を閉じて、彼は続ける。

「最後まで、ね」

「知識の確認みたいなことだから、一回でいいと思うのかな。それとも、単につまらなかったのかな」

「自分の胸に訊けばいい」

 僕は。……羽化の途中で飽きた。ああ蝉だと分かってすぐに興味がなくなった。読み終わった週刊誌を捨てるみたいに。僕の顔を見て、彼はよくよく観察して、善良な悪魔のような顔をする。

千太せんたにとって蝉の未来は、使い捨ての面白さの範疇を出なかったってことだ」

 あの幼虫は本当は何になりたかったのだろう。僕の小さな好奇心のために将来を決められた、ずっとなりたいと願っていた虫があったのかも知れない。でも羽化は戻れない。もう蝉以外の虫になることは出来ない。黙った僕を認めて、述は立ち上がる、「じゃ、おやすみ」と言い残して二階に上がって行った。

 蝉の声がミンミンと聞こえて来た。あの幼虫だ。

 一生懸命鳴いている。それが嫌で、僕は音楽をかける。流れ出したショパンが夏の湿った空気を濾過した部屋の匂いと合わない、ブツと切る。音楽だって人工的に創られたものなのに、ここの人工との相性がいいのはきっと、……違う、僕と蝉の間に置くのに丁度いいのは、ベートーベンだ。ロックでもジャズでもない、ベートーベンしかない。

 でも、ベートーベンはなかった。

 幼虫の声が迫っては切れる。また厳かに始まっては長い尾を垂らす。ラジオのスイッチを入れた。

『――さんからでした。「一言申したい」のコーナー、次はラジオネーム「なりたて蝉」さんから、「一言申したい。私が今の私であるのは色々な影響を受けてのことです。私に影響した人達よ、私は私を謳歌しています」、いやあ、蝉さんの一人称は私なんですね。幸せと言わずに謳歌と言うところにリアルを』

 ブツと切る。

 僕は外に出て、幼虫がいた場所に向かう。そこには確かに抜け殻があった。ついさっきまで生命の主座を宿していた、動き出しそうな艶のある、抜け殻がしがみついていた。上からミンミンと声が聞こえる。見上げても闇しかない。彼はその闇の中に昇って行った。

「僕は」

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