第34話 モーツアルト バイオリンソナタ グリュミオーと(ゴールドベルグ)

 バイオリンソナタの名曲と言えばベートーベンやフランクを挙げる人が多いだろうが、モーツアルトも実に多くのバイオリンソナタを作曲している。もっとも、モーツアルトの性格上、技巧派の大バイオリニストが構えて弾くのが必ずしも名演奏ではないだろう、というのは誰しもが思うことであろう。「大バイオリニスト」の方もそれを心得ているのか、ハイフェッツにしてもオイストラッフにしろ、さほど多くの演奏を残しているわけではない。

 演奏家の余り個性が強いと却って曲の良さが消えてしまうのはモーツアルト全般に言えることではないか?交響曲にしろ、協奏曲にしろ、室内楽にしろ、作曲家と正面切って対峙するタイプの演奏家のものは、総じて余り結果がかんばしくない。そこがモーツアルトの不思議なところで、技術的には難しいとまでは言えない曲に演奏家が苦労するのは技や力で押さえつけることのできない何かがモーツアルトの曲には備わっているのだろう。フルトヴェングラーやクレンペラーといった指揮者、バックハウスやポリーニといったピアニストもモーツアルトは避けているか、非常に限られた曲しか採り上げない。唯一この中でモーツアルトの作品を多くを演奏したクレンペラーもその表現にだいぶ苦労しているように見える。


 そんなこともあってか、僕の手元にある彼のバイオリンソナタもどちらかというと癖の余り強くないバイオリニストのものが揃っている。その中でもっとも素晴らしい演奏をした一人がグリュミオーであり、次いでゴールドベルクということになる。


 別の項でも書いたのだが、僕はモーツアルトの演奏に最も相応ふさわしいバイオリニストはグリュミオーだと思っていて、若きコリン・デービスとの協奏曲集を愛聴しているのだが、ソナタにおいてもその考えは基本的に変わらない。

 取り分けハスキルと共演したK.545とK.304はライブ演奏にも関わらずその完成度と美しさにおいて比類ない名演奏である。もともとモーツアルトのソナタはグリュミオーほどの演奏家となれば(それはもちろんハイフェッツやオイストラッフにも当てまるのだが)技術的な困難は余りない。ピアノパートも同じである。となると、演奏の善し悪しは曲の理解度、曲への愛着度など技術以外の部分に依存することになる。その意味でグリュミオーとハスキルの組み合わせは理想的なペアと言える。K.545など何度聞いても飽きない、地上においてもっとも美しいモーツアルトの一つである。

 そして、バイオリンソナタの中で唯一の短調であるK.304。

 モーツアルトの短調に「悲しみの疾走」を見出したのはト短調交響曲を聴いた小林秀雄であるが、モーツアルトの短調は(どのジャンルでも少ないのだけど)全てその表現が当て嵌まると思う。取り分けK.304のバイオリンソナタはシューマンのシューベルト評(交響曲7番D759) を引用すれば「天国的な悲しみ」と言う言葉が相応しかろう。このK.304は同じペアでのスタジオ録音もあるのだが、残念ながら入手できていない。従ってこの演奏との巧拙は比較できないが、グリュミオーとハスキルの組み合わせならば、恐らくどのモーツアルトも買って後悔することはないだろうと思う。

 因みに僕の持っている盤は1957年、僕の生れた僅か20日後にブザンソンでライブ録音されたもので、その意味でも愛着を持っている。67年が経過したとは思えない活き活きとした音質であり、演奏である。見習いたい物だ。

 ハスキルとのスタジオ録音が廃盤になっていることもあって、代わりにワルター・クリーンの伴奏するソナタ集を購入した。これはハスキルとの録音から干支で言えば二回りした1981年、僕が24歳になった歳の僅か24日後にスイスのラ・ショード・フォンで録音された物(33番:これがこの組み合わせでの最初のテイクとなる)である。

 いい加減にしろって?そうですね。関係ないですね。

 ワルター・クリーンというと日本にも馴染みのあるピアニストでNHKの番組にも出ていたことがある。そうした意味では親近感はあるのだけど、ハスキルとの組み合わせと比べるとどうしても演奏全体としての完成度が落ちる。ピアノの音が硬く、これは楽器のせいもあるのだろうけど、全体としてバランスが良くないのである。モーツアルトのバイオリンソナタの多くはピアノとバイオリンが拮抗きっこうしているのだけど、この演奏ではピアノが前に出すぎるのだ。それとともに演奏家の相性というのがあって、グリュミオーとハスキルだと、1+1が3にも4にも膨らむのだけど、この演奏ではそうした増幅作用が感じられないのだ。

 演奏技術がどうという話ではないのだけど・・・。逆にグリュミオーとハスキルの組み合わせがいかに素晴らしい物なのだったのか、という感想が浮かんできてしまう。グリュミオーも、以前と比べると艶がやや欠けるのは年齢から来る衰えなのだろう。また、ハスキル以降、なかなか馬があうピアニストを見つけられなかったことも気持ちに拍車を掛けているに違いない。

 それでもK.296などは(やはりピアノが前に過剰に出過ぎるけど、)全体としては軽快で気持ちの良い演奏である。有名なK.377も美しい変奏部分を聴かせてくれる。ただグリュミオーなら、「もう少し」を望む気持ちが出てしまうのはいかんともしがたい。


 その意味で、グリュミオーが没した65歳という年齢で、まだ20代であったラドゥ・ルプーとの共演(それも全曲)を残してくれたシモン・ゴールドベルクがその間隙かんげきを埋めてくれるのはありがたい。彼は日本と様々な因縁があったようで、最後は日本人と結婚し、富山で生涯を終えたバイオリニストである。最近では余り名が上がることはないが、ユダヤ系ロシア人であった彼は20歳という若さでフルトヴェングラーに請われ、ベルリンフィルのコンサートマスターまで登り詰めた早熟のバイオリニストである。残念ながらその後ナチスの干渉でその地位を追われアメリカに渡ることを余儀なくされた。そしてそのアメリカから、アジアに演奏旅行に出た際に彼は日本軍に抑留されるという憂き目にあったのだ。にも関わらず戦後、日本人と結婚し、最後は立山のホテルで亡くなった彼には一種、日本や日本人に対する二律背反アンビバレントな感情があったのではないだろうか。

 グリュミオーほどの色艶はなく、多少筆致は教科書的ではあるが、音色は程よく明るくモーツアルトの曲想に似合っている。年の離れた(36歳の差がある)若いピアニストを押さえつけるではなく、といって完全に自由にさせるわけでもない、親密な親子の奏でるような演奏であるとでも言えようか。ピアノの方は抒情性が際立っていて、バイオリンの方は芯のある抑制的なスタイルで、その二つが絶妙に交わっているのが気持ちよい。モーツアルトのバイオリンソナタの演奏は概してピアノが前面に出がちの傾向があるのだが、ルプーは良く弁えていて抒情性をふんだんに発揮しつつも全体として控えめに保っているのが好ましい。

 モーツアルトのバイオリンソナタを手に入れたのは実はこちらの方がグリュミオーより先である。レコードの時代に買った選集が気に入ってCDでは全曲を求めたものだ。グリュミオーの方は全曲の演奏がないからいずれにしろ買う運命にあったのだと思うが、たいへん価値のある買い物であった。良く聴かれるK.378など、とても端正で上品な演奏になっている。ソナタには幾つかの全集が発売されているが、なかなかこれを超える演奏は現われないであろう。

 もう1枚、これは別の随筆でリヒテルの評を書いた時にも讃えたのだが、ロシアのオレグ・カガンというバイオリニストがリヒテルの伴奏で演奏したライブのものが手元にある。カガンは43歳で癌のために早逝したバイオリニストで、もし生きていれば当代の巨匠になっていたかもしれない。この演奏はまだ彼が29歳の時の演奏で、伴奏のリヒテルは60歳になっているから、ちょうどゴールドベルクとルプーと真逆の歳関係となる。この組み合わせでリヒテルが本気を出したらバランスが崩れるが、さすがリヒテルというか、K.378などではあの強靱な指を完全に封印して、たおやかと呼べるほどにバイオリンに寄り添う素晴らしい演奏である。これも推奨に値する演奏であるが、やはりカガンの方は、技術的には申し分なくても大ピアニストに少し遠慮しているのか表情に若干欠けていることがあるのは致し方ないだろう。


 ところで文末に記したこの曲の表記を見ていると、「ピアノとバイオリン」のためのソナタと書かれている物もあれば、「バイオリンとピアノ」のためのソナタと書かれているものもあり、単純に「バイオリンソナタ」と書かれている物もある。まあ、他の作曲家でもある話なのかもしれないが、バイオリンとソナタのバランスをどう見るか、という事を表しているようでもあってなかなか興味深い。

 僕としては、ゴールドベルクとルプー、或いはリヒテルとカガンのようなどちらかの方に経験値が偏るような関係ではなくグリュミオーとハスキルのような、対等(とはいえ、ハスキルはグリュミオーよりも26歳年上なのだけど)な二人の演奏家、そして心の結びつきが堅い演奏家同士のものが好ましいのだと思う。

 26歳年上のハスキルはグリュミオーとの演奏会を直前にブリュッセルで階段を踏み外しその事故が影響して亡くなったのだが、死ぬ間際に演奏会を中止しなければならなくなったことをグリュミオーに謝って欲しいと告げたそうだ。そしてグリュミオーはハスキルを失ったことでキャリアに影響するほどのショックを受け、なかなか立ち直れなかったという。そういう二人の演奏を超えるのはなかなか難しい。彼らの演奏を聴くとつくづくそう思うのだ。


 さて、モーツアルトの演奏という意味では興味のあるバイオリニストの一人がジノ フランチェスカティなのだけど、彼は意外とソナタを録音していない。協奏曲の方はワルターと共演したものが残っているし、カサドゥシュという稀代のモーツアルト演奏家との共演もたくさんあるわけだから、モーツアルトのソナタをたくさん録音しても何の不思議もないのだけど、せいぜい1、2曲の録音しか残っていないようで、これはちょっと不思議である。誰かその謎を教えてくれればありがたい。



(レコード)

*モーツアルト

 ソナタ 変ロ長調 K.378

ソナタ ホ短調 K.304

 ソナタ 変ロ長調 K.454

ラドゥ・ルプー(ピアノ) シモン・ゴールドベルク(ヴァイオリン)

 キングレコード SLA 1108


(CD)

*MOZART Sonatas for Piano and Violin

Sonata in G major K.301

Sonata in E flat major K.302

Sonata in C major K.303

Sonata in E minor K.304

Sonata in D major K.306

Sonata in C major K.296

Sonata in F major K.376

Sonata in F major K.377

Sonata in B flat major K.378

Sonata in A major K.305

Sonata in G major K.379

Sonata in E flat major K.380

Sonata in B flat major K.454

Sonata in E flat major K.481

Sonata in A major K.526

Sonata in F major K.547

RADU LUPU piano SZYMON GOLDBERG violin


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Sonata per violino e pianoforte in si bemolle maggiore K.454

Sonata per violino e pianoforte in mi minore K.304

LUDWG VAN BEETHOVEN

Sonata per pianoforte e violino in mi bemolle maggiore op.12 n.3

Sonata per violino e pianoforte in sol maggiore op.96

Arthur Grumiaux violino Clara Haskil piano

MELODRAM MEL18001


*ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト

 ヴァイオリン・ソナタ 第36番 変ホ長調 K.380(374f)

 ヴァイオリン・ソナタ 第33番 ヘ長調 K.377(374e)

 ヴァイオリン・ソナタ 第24番 ハ長調 K.296

 ヴァイオリン・ソナタ 第27番 ハ長調 K.303(293c)

 アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)

 ワルター・クリーン(ピアノ)

 DECCA UCCD-9859


*ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト

 ヴァイオリン・ソナタ 第41番 変ホ長調 K.481

 ヴァイオリン・ソナタ 第34番 変ロ長調 K.378(317d)

 ヴァイオリン・ソナタ 第30番 ニ長調 K.306(300i)

 アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)

 ワルター・クリーン(ピアノ)

 DECCA UCCD-9860


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Violinsonate D-dur, KV306

Violinsonate B-dur, KV378

Andante & Allegretto C-dur, KV404

Violinsonate B-dur, KV372(Unvollendete)

OLEG KAGAAN, Violine SVIATOSLAV RICHTER, Klavier

EMI CDZ 7 67056 2

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