第37話 ビゼー 交響曲ハ長調 ラベル バレェ音楽「マザーグース」 ユッカ・ペッカ・サラステ

 以前からフランスの音楽はフランスの演奏家で聴くものと思っていたし、基本的に今もそのスタンスは変わらない。

 指揮者で言えば、ジャン・マルティノンを筆頭に、ポール・パレーやミシェル・ブラッソン、ジャン・フルネやルイ・フレモー、セルジュ・ボドなどの指揮したフランス音楽を良く聴いたし、実際にレコードやCDも多数所有している。

 ピエール・モントゥー、アンドレ・クリュイタンス、シャルル・ミュンシュ(厳密にはアルザス人だけど)とピエール・ブレーズはフランス音楽よりももう少しカテゴリーの広い世界の指揮者であるけれど、もちろん彼らもフランス音楽も得意としているし、国は異なるが昔はスイスのアンセルメ(フランス語圏の生まれ)もフランス音楽の名指揮者として良く名前が挙がった物だ。

 ピアニストにも事欠かない。サンソン フランソワや ロベール カサドゥシュなどの国際的ピアニストは措いておくとしても、バルビエ、タッキーノ、ティボーデ、デュメイ、パスカル・ロジェ、ジャック・ルビィエ、フィリップ・コラールなど別に本人たちはフランス音楽だけを演奏しているわけではないだろうが、サティ、ドビュッシー、ラベル、プーランク、フォーレあたりになると、ソロでも室内楽でもこうした人たちの名前がCDの中でひしめきあうのである。(どういうわけか、フランスの音楽家たちは仲が良く、室内楽などでは同じCDの中で複数のピアニストの名前がひしめきあうのである)

 フォーレ、ドビュッシー、ラベルなどは例外もあるけれど、フランスの音楽家の演奏を楽しむケースが多く、まさかビゼーやラベルの管弦楽に北欧の指揮者の演奏を取り上げるという事態になるとは思わなかった。

 それにレーベルもやや特殊である。この演奏の録音は一時ヨーロッパを席巻したVirginというグループの傘下にあったVIRGOというレコード会社によるものだ。イギリスのVirgin Atlantic航空を率いるリチャード・ブランソンが設立したこの会社は余り儲からなかったのか、すぐにEMIに売却されたが、今なお存続している。しかしそこにクラッシック音楽の部門が存在していたことはもはや、覚えている人は余りいないだろう。

 実は僕もこのレーベルのものは1枚しか持っていない。そのリーフレットには最初期にリリースされた20枚のクラッシック音楽が掲載されていて、デービスやヒコックスに混じってサラステやマッケラス、或いは韓国人ピアニストで拉致事件に巻き込まれたパイクなどの名が見える。こうした録音の権利関係はかなり微妙なようで、一部はローカルな形で再発売されているが、このサラステの録音は、残念ながら現段階では廃盤のままのようである。

 しかし、ビゼーの交響曲やラベルのバレー「マザーグース」(「マザーグース」というのはバレーのタイトルで管弦楽曲、或いはピアノは「マザーグース」から創作された「マメール・ロワ」というタイトルになる)がこれほど、軽やかで透明感に満ちた音楽であるというのを、サラステは鮮明にしてくれた。

 或いは「軽すぎる」と批判する向きもあろうが、「亡き王女のためのパヴァーヌ」を含めた3曲はサラステの手によって、地上のくびきから逃れ天に響く音楽になったとも言えよう。確かにこの演奏は北欧の音楽を思わせる響きがあり、グリーグやシベリウスを彷彿とさせる音を伴っている。スコットランド室内管弦楽団という非常に新しいオーケストラが演奏しているのも一つの要因かも知れないし、エジンバラという本拠地がイギリスと言うよりどこか北欧を思わせる風土があることも要因なのかも知れない。

 だが、権威という点からはあまり注目されない指揮者・楽団・レーベルの組み合わせであっても時に至上の音楽が奏でられるというのも事実であるし、クラッシック音楽の面白さでもある。

 ビゼーの交響曲の出だしの音を聴いてみて欲しい。緊張感と、音楽を演奏する事の歓びとがあの軽やかなビゼーの(ビゼーは明らかに天才の一人、ベートーベンやシューベルトと同じ類いの作曲家である)メロディーに乗って「解放」されるのだ。匂い立つような新鮮な音。時折陰鬱に感じられるクラッシック音楽の批評など蹴飛ばす若々しさに満ち満ちて清々しい。こういう音を聴けば、もしかしたらクラッシック音楽をもっと若い人々は好きになるかも知れない。その若々しさと技術が両立した演奏というのはなかなかあるものではない。第1楽章にはまさに、Allegro vivoというビゼーの指定が体現されている。

 対照的に第2楽章の物悲しい音色は、どこかペールギュントに通底するものがあって、それが北欧的な感覚を呼び覚ますのだろう。「カルメン」とか「ラルジェンヌ」のような、パリ生れにも拘わらず南欧的な音楽を作曲したビゼーがこうした音楽を作ったことを改めて気づかせてくれる演奏である。

 終楽章まで、気品を保ったまま、演奏家たちは歓びを湛えたまま弾ききっていく。こうした演奏はもっと評価されても良いのではないかと僕は思う。

 マザーグースの演奏もこの「お話し」と作曲家のbizzare(奇妙さ)を存分に伝える演奏である。隣り合ってはいるけれど、覗くと引き込まれてしまいかねない、異世界の入り口に流れている音楽。ハープシコードに引寄せられ近づいてみれば、歪んだ景色の向こうにお花畑が見える。そこでは奇妙な生物たちが忙しそうに立ち働いたり、踊ったりしている。突然喇叭らっぱがなり、動物たちは一斉に姿を消すと、そこには死者の装束を着た一団が夕暮れの中を歩いている。まあ、これは僕がみた景色に過ぎないけど、他の人が聴けばまた違った景色が生まれてくるのではないだろうか?

 「亡き王女のためのパバーヌ」を含め、様々な想像力を働かせることの出来そうなそんな「純粋な」音楽がここには存在する。

 マルティノンの「ラメール・ロワ」が着飾った紳士淑女がパリの劇場で聴く音楽であるならば、この演奏は本当に子供たちに聴かせたいそんな演奏である。もしかして「ハーメルンの笛吹き男」のように子供たちをみんな攫っていってしまいそう、そんな危惧さえ覚えるけれど。

 できたら、もう一度世に問うて欲しい、そんな演奏である。



*GEORGES BIZET

SYMPHONY IN C

*MAURICE RAVEL

MOTHER GOOSE complete ballet

PAVANE POUR UNE INFANTE DEFUNTE


SCOTTISH CHAMBER ORCHETRA

JUKKA-PEKKA SARASTE

VIRGO vj 7 91469-2

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