第31話 モーツアルト 交響曲第40番 散々聞き比べてなお混迷中

 モーツアルトの交響曲40番は、多くの愛好家にとって「クラッシック音楽世界への入り口」だったに違いあるまい。またそうでない人々にとっても馴染み深いクラッシック音楽の一つとして愛されている曲だと考える。

 とはいえ、深く森に分け入ったクラッシック音楽の愛好家にとっては、逆に余りに聞き慣れた曲としてレコード棚(或いはCDコレクション)の片隅へと追いやられていかねない曲、でもある。ベートーベンの「運命」、シューベルトの「未完成」あるいはドボルザークの「新世界」・・・交響曲以外でもモーツアルトの「アイネ クライネ ナハトムジーク」やらベートーベンの幾つかのピアノソナタなど・・・名曲と呼ばれる曲は同時に愛好家には注目度の低い音楽と化しかねない宿命を負っている。


 音楽というものは不思議で、一般的に聞く回数が多いほど記憶に残り、好きになる。だがそれが余りに頻繁になると「ありふれたもの、飽きがきたもの」へと変容していくのだ。クラッシック音楽であろうと、流行歌であろうとそれは変わらない。

 少し話がずれるが、流行歌にする一番の鉄則はとにかく何回も「聞かせる」ことである。ドラマの主題歌が流行歌になりやすいのはドラマを見る人が必然的にその音楽を「聴く」からであり、かつちまたに音楽を流し続けた有線放送が重宝されたのもその法則にのっとっているからだ。ある程度力のある曲は、何回も聴かせることによって人の記憶に住み着くことが出来る。そうすればビジネスとしてはほぼ成功である。

 「さかな、さかな、さかな~、さかな~を食べ~ると、あたま、あたま、あたま、あたま~が良くなる~」にもそれなりの力があることは明白なのだ。(本当に魚を食べると頭が良くなるかは知らない。肉食の国がバカばっかり、という話も聞いたことは無い。音楽による説得というのは「げに恐ろしい物」である)

 しかし、流行はいつしか消え去っていく。消え去るからこそ流行である。それはある時点で聴き手に飽きがきたからであり、多くのものは一過性の「はやり」でしかないから、であろう。それでもなお良い曲というのは「飽き」た年代層ではなく、次の世代へバトンタッチされリバイバルされて「不易ふえき」になっていく力を持っている。例えばビートルズやジャズの定番、フレディ マーキュリー・・・。そうした曲は確かに存在する。

 「さくらんぼ」「夏の扉」「ラブストーリーは突然に」「ロマンスの神様」・・・。うーん、不易とまではいかないかもしれないが・・・。

 そうしたリバイバルのプロセスが絶えず繰り返し、かつ長くつづいたのがクラッシック音楽なのだとも言えよう。世代を何度繰り返しても、生き続ける曲。その力は次第に薄れつつあるようでもあるがそれでも尚、今もしぶとく生き続けているし、今後も生き続けていくのだと信じたい。モーツアルトによるこの曲はクラッシック音楽の中でも「力」という意味では筆頭にあるものではあるが、クラッシック音楽ファンにとっては多少なりとも「聴き飽きた」感がある曲に違いない。

 音楽という物を純粋で新鮮な形で保っていくというのはなかなか難しい作業である。


 評論家の小林秀雄は「モオツアルト」という評論である冬の一夜、大阪の道頓堀どうとんぼりを歩いているとき突然、「ト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴った」という有名な文章を書いている。道頓堀とモーツアルトはどうもそぐわないが、冬の一夜、人出の多い街に居るときふと孤独を催させる響きが鳴り響いたのであろう、と推察するのが一般的であろう。もしかしたらクリスマスの夜なのではないか、などとも考えてしまう。

 だが、この文章は1946年に発表されたものであり、文章の構想はそれよりだいぶ遡るとも言う。となると、戦中の事であり、だいぶ敗色の濃い時期に思いつかれたものかもしれない。そうなると、少し背景の景色も変わってくる。道頓堀はもっとずっと寂しく「食い倒れ」どころではなかっただろうし、クリスマスなどはとんでもない。その時代、それは敵のお祭りである。

 小林秀雄がさて、誰の演奏を聴いてその旋律を頭の中に響かせたのか、残念ながら知るよしもないが、この時代は決してクラッシック音楽が「溢れている」時代ではなく、寧ろ下手をすれば「敵性音楽」と誤解されかねない(一応、モーツアルトはドイツ-オーストリアなので敵ではないのだが)西欧音楽であることを読者は考えなければならない。

 たぶん、戦前にどこかの演奏会で出会ったのか、SPで聞いたメロディが響いたのであろう。頭の中にふと音楽が響き出す、こうした経験は誰にでもあるのだろうが、場所や状況を考えると随分鮮烈な感想である。欲しがりません、勝つまでは、の時代に鳴り響いていたのは勇ましい軍歌や「誰か故郷を想はざる」のようなセンティメンタルな曲で、モーツアルトなどは極、一部の人にしか鳴り響くことはない。そんな中、鳴り響いたモーツアルトという所に意味があるのである。

 最近は小林秀雄など「古文」扱いで読む人も少ないし、読んだら読んだで(多分、高踏的な物言いに反感が湧くのであろう)妙に突っかかった批判をする人もいるが、それもずいぶんと悲しい知性である。小林秀雄の著作は批評が批評として文学と渡り合っていた時代の批評であって例えば、林達夫とか、丸山真男など、戦中戦後の批評・評論というのは今とは全く異なる真剣勝負の時代の物である。あの時代、文芸や音楽が刃物ならば、批評は砥石といしであった。

 ふわふわとした頭で理解できないなら、理解できないで構わないが、そうしたものを批判するには、相当の知性と覚悟がいるものである。そんなことも分からない程度の知性はその時代ならば活字になる前に編集以前に淘汰されるのだがネットの時代は淘汰もされない。淘汰というものはそのプロセスや内容、手続きによっては「困りもの」である事も多いのだが、「淘汰」も「浄化」もされない泥水を飲まされるのも聊か困る。

 結局、全ては関わった人間の質によるものなのだろう。ネットの時代というのは結局、殆どが石だらけの玉石混交ぎょくせきこんこうの時代なのだ。まあ・・・・まわりが石だらけだからこそ、玉に価値が生れるのではあるが。


 閑話休題。


 さて思い起こせば、自分にとってこの曲を最初に聞いたのが誰の演奏だったのか・・・たぶん中学生の音楽教室で音楽鑑賞の授業を受ける前にもすでに耳にしたことがあったのだろうけど、今となっては分からない。だが、最初に聞いたレコードはベームがベルリンフィルを指揮したもので、しばらくの間僕はずっとこの演奏を愛聴していた。

 やがて社会人になり、多少の贅沢が許されるようになると、何枚かのCDを聞き比べるようになる。取り分けドイツに赴任して暫く独身でいたころは終末にSaturn HanzaでCDを漁るのが楽しみの一つだった。本当は僕はずっとレコード派だったのだけど、海外で改めてプレーヤーを買い揃えレコードを集めるのはスペースや帰国時の荷物の事を考えるとさすがに無理でCDを買うようになっていた。その時代から幾つかの演奏を買い求めたのだが、その数は決して多い方ではなく、手元にもっている数を数えたら、10種類の演奏しかなかった。ベートーベンのピアノ協奏曲や交響曲に比べるとだいぶ少ない方である。


 まず演奏時間が比較的長いものから聞いてみることにした。一番時間の差が出るのは第2楽章の繰り返しを行うかどうかで、この楽章は随分と差が出る(繰り返しを行えば15分程度、行わなければ8分程度)次いで第4楽章も長いものは9分、短い物は5分程度で終わってしまう。小林秀雄が「悲しさの疾走」は第4楽章を言及している。あの時代だと恐らく短いバージョンであろうから、疾走もだいぶ短距離であったに違いあるまい。

 昔はレコードに入る長さで演奏を縮めるという事が頻繁に行われ、それもSPやLPなど様々なフォーマットがあったためにしかたがなかったのである。LPだと片面に無理なく入れるのは30分程度なので、自然と30分以下のバージョンが多く、手持ちでは反復を行っている物はホグウッドとブリテンの指揮による2枚しかない。

 だからといって反復がないものは不完全だ、などというものではなく、クラッシック音楽は演奏形態も時間も実はモーツアルトの時代から自由に行われてきたので、余りめくじらをたてる必要はない。嘗ては第1楽章だけ演奏、とか、そんなコンサートも実際は行われていたのである。


 ホグウッドの演奏はクラリネットを抜いたFirst Editionによる演奏である。この指揮者による全集はSecond Editionによる演奏も含まれているようなので、ここではあくまでFirst Editionの感想ということになる。

 原典に忠実ということなのだが、この演奏はとにかく第1楽章のテンポがやたら速い。この速さは正直なところ、モーツアルトの時代にはそぐわない速度であるように思える。18世紀の「速度」と現代の「速度」は恐らく街を走る馬車と自動車の差と同じ程度に違う。まだメトロノームのない時代でのテンポの指定は「言語」でしかないのだが、果たしてこの速さを正当化する根拠を演奏家は何かしら持っているのであろうか?敢て古楽器を使った演奏であるために、そうした時代考証とセットでないと納得感はないというのが正直な感想であった。(そういう説明は成されているのかも知れないが、僕の所有しているCDには記載されていない)

 第2楽章は反復をカバーした長い版で、たいていの演奏の二倍程度の長さがある(僕の持っている中ではホグウッドとブリテンのもの以外は端折っている演奏しかない)ここも駆け足だが、曲想も相俟ってか第1楽章に比べると随分落ち着いて聞くことが出来る。

 しかし第3楽章でも違和感は拭えない。特にバイオリンの音を長く伸す演奏方法は耳に触る。ただ、これは「慣れ」によるものであろう。楽譜を持っていないので良く分らないが敢てこういう演奏スタイルを取る根拠はあるのかも知れないとは思うのだが・・・特に感銘を深めるものではない。第4楽章も変わらず速い。音の強弱の対比も際立っているが、これも意図的なものであろう。

 意味それまでの演奏と比較してある意味革新的な演奏なので、人によっては魅力的に思えるかも知れない。前述した通り、この楽曲はありふれた演奏に埋もれる可能性の高い曲であるので、こうした演奏が出てきて新たな形を提示する事は歓迎すべきことだ。ただ、少なくとも説明なしで聞かされると個人的には馴染めないタイプの演奏であった。

 ブリテンは「青少年のための管弦楽入門」で有名な作曲家であり、日本人にとっては「カーリューリバー」という「隅田川(能)」を原典としたオペラの作者としても馴染みがある。モーツアルトの演奏でブリテンを評価する日本人が多いのはそうした感性の一致が背景にあるのかもしれない。現段階で僕が推す演奏の一つもこのブリテンの演奏で、大げさにもならず感傷的にもならず、淡々と演奏しつつ、そこに間違えなくモーツアルトが「いる」と感じられる、そんな作為のなさがこの演奏にはある。オーケストラもほどよい上品さで奏でているのが好ましい。ベストに近い演奏と言える。


 次いで、反復を抑えた演奏のものを聴いてみる。ベームの演奏は評判の高い物で、僕がクラッシック音楽を聴き始めた頃、モーツアルトの40番と言えば、このベームか、後に記述するワルターの演奏が日本では定番とされていた。

 確かに遺漏のない立派な演奏である。とはいえ果たしてモーツアルトという作曲家の曲がこれほど立派に演奏されるべきものなのか、という疑問も残る。ベートーベンの先駆者としてモーツアルトを捉えればこのような演奏でも不思議ではないのだが、モーツアルトは別にベートーベンの先駆として生まれたわけではない。

 クラリネットの欠けた第一版で演奏されているので、原典を意識した演奏なのだろうが、あの悪戯好きのモーツアルトがどうも立派な額縁の中で窮屈そうにしているように聞こえるのだ。41番はもう少しモーツアルト自身ももう少し威儀を正しているので、41番を聞くには良いのだけど、40番は融通があってもよさそうに思える。

 もうひとつの「かつての定番」であるワルター指揮のものは、素性が判然とせずその点で余り評判のよくないコロンビア交響楽団という録音用のオーケストラとの共演であるが、モーツアルトの演奏では何の支障も無く、それなりの厚い音、きちんとした技術でワルターのタクトに応えている。指揮も意外と歯切れ良く淡々としたもので、思い入れたっぷりというのではないのは好ましい。ただ、1楽章の中間を少し超えた4分30秒あたりのところで、一瞬、合奏の音を切ってためを作る仕草はワルターの指示であろうが、違和感を覚える人もいるに違いない。少なくとも僕はその意図が良く分らない。全曲を通して比較的流麗な音作りをしているので、余計にこの点が引っかかる。

 それ以外は十分に楽しめる演奏と言えようが、これが僕の求めるモーツアルトかというと、どうもそうではない。モーツアルトの、なんというか「活き活きとした」という感覚がどうも薄いのである。余りにlivelyな作曲家に少し麻酔を掛けたような演奏とでもいうべきなのだろうか・・・。

 そのワルターと同時代でありながらどうも馬の合わなかった様子のクレンペラー(まあ、それはクレンペラーの方に問題があるのだろうが)には三種の演奏を所有している(うちスタジオ録音が二種類)。スタジオ録音のうちの一つは1956年、もう一つは1962年、いずれも手兵のフィルハーモニア管弦楽団を振ったものである。クレンペラーは同じト短調でもK183の小ト短調の演奏が異常にテンポがせかせかした違和感があり、その印象もあってどうもモーツアルトと相性が決して良くない感じだ、というのは以前もべつのところで指摘した。クレンペラー自身がモーツアルトのことを大好きなのは良く分るのだけど、ことモーツアルトに関しては一方的な片思いではないのか、と。

 まず1956年の演奏を聴く。この演奏、テンポは決して速くない。むしろゆったりとしているのだが、そうなると表情がどうも持ってまわって大仰に思えてしまう。それでも進んでいく内に少しずつ感覚は合い始め、第3楽章などはずいぶんと良い演奏である。ただ第4楽章になると弦の響きが攻撃的にきこえるのだがどうしたものか。

 僕はクレンペラーの演奏をいずれの作曲家に関しても高く評価し、マーラーなんかでもワルターより好きなのだけど、ことモーツアルトに関してはワルターの方が耳に合う。

 もう一つのスタジオ録音は1962年のもので、余り時をおかずに再演した演奏だが、こちらの演奏の方はずいぶんと灰汁あくが抜けた演奏になっていて、この6年間の間に随分とモーツアルトに対する姿勢が変わったのではないかと推察される。「オットークレンペラーの演奏-1」でも少し触れたのだがだいぶ全体の構造を手直しした上に、以前の演奏よりだいぶ客観的な演奏に変わっていて僕としてはこの後者の録音の方が落ち着いて楽しむ事が出来る。これはベートーベンの7番とは正反対の現象なのだけど、曲によって年齢を重ねることによる変化が望ましいものとそうでないものとがあるのはある意味当たり前の事なのかも知れない。

 ライブ録音のものはRIAS(ベルリン放送交響楽団)とのもので別の所にも書いた通り、第4楽章は反復を行っている(第2楽章は行っていない)。レコードにする制限はなかったのだが、放送時間との兼ね合いで中途半端な選択になったのだろうか。この演奏は年代的には1956年のスタジオ録音に近いが、演奏という意味では1962年のものに近いのかな、という曲に対する客観性を感じる。きびきびとした演奏であるが、やや管に弱さを感じるのはオーケストラの方の問題であろう。第4楽章の反復の部分はだいぶ雑な感じもするから反復そのものはクレンペラーの希望ではなかったように思う。

 因みにこの演奏はギルツェニッヒとの41番がカップリングされていてそのまま聴いていたのだがこの41番がまた随分と力んだ演奏であり、40番と対照的な演奏である。この41番の録音時期を見ると1956年で、40番の最初のスタジオ録音と同じ年の演奏であった。もしかしたら56年と57年の間にクレンペラーの中でモーツアルトの演奏スタイルに変化があったのかも知れない。

 

 スウィトナーの指揮ドレスデン シュターツカペレのものは僕の愛聴盤の一つである。もともとシャルプラッテンから出た物を日本では当時新興の徳間が発売したもので、CDはキングレコードからの発売となっている。ベームほど重くなく、ワルターよりも活き活きとした表情がある、スタンダードな演奏として好ましいもので、今でもその意見は変わらない。今の段階でこの曲の僕に取っての一番といえば、ブリテンの演奏か、この演奏のいずれかを取る。

 もう一種類、スウィトナーがベルリン・シュターツカペレを指揮した物は日本でのライブ公演が音源でこの録音の日1978/10/23(厚生年金会館)のものかは覚えていないが、僕が聴きに行った時のものとほぼ一緒のものである。後期の三大交響曲にフィガロの結婚序曲という組み合わせも同じだが、確か少なくとも2公演、同じ曲目でやっていた記憶があるので、僕が聴いたのと同日のものではないかもしれない。

 あらためて聴くと、やはりドレスデンとのスタジオ録音(ルカ教会)の物の方が、細かい部分が行き届いていて、演奏としては優れているが、ベルリンのものも生で聞いたときはとても素晴らしい演奏だと感嘆したものである。

 スウィトナーの演奏はどこも気張ったところが無く、思い入れもたっぷりということもなく誰にも馴染みやすいタイプの演奏で、それが物足りないという人もいるのだろうけど、モーツアルトの良さというのは寧ろこういう演奏に出てくるのだと僕は思っている。

 チェリビダッケの演奏は(もちろん)ライブのもので1994年にミュンヘンフィルの本拠地、ガスタイクで録音された物だから、これももしかしたら僕自身も聴き手として演奏会場にいたかもしれない。とはいえ、考えてみるとチェリビダッケの演奏の中でもっとも記憶の薄いのは実はモーツアルトである。ブルックナー、ベルク、ブラームス、ベートーベン、ルーセル、ラベル、シューマン・・・良くも悪くもそれぞれに記憶があるのだけど、モーツアルトに関してはそういう感想が全くと言ってよいほど浮かんでこないのだ。現場に「いたかもしれない」などと書いたが、実はモーツアルトはたまたま聴いた演奏会の中に入っていなかったのかも知れないな、と思いながら聴いてみた。

 結果として言えるのは、もしこの演奏を現地で聞いたとしても余り記憶に残らなかったかも知れない、という感想である。綿密に痒いところまで届くようなスタイルを取るチェリビダッケにしては、ずいぶんとあっさりとした演奏である。どちらかというとゆっくりめの演奏をする指揮者なのだけど、この曲に限ってはテンポも随分と速い。ディスコグラフィなどを眺めてみると、チェリビダッケは意外とモーツアルトの録音が少ない。この巨匠は意外とモーツアルトの演奏を好まなかったのかもしれない。

 同じミュンヘンを本拠地とするバイエルン放送交響楽団は随分長いことミュンヘンに住んでいたにも拘わらず、一度も演奏会に行った記憶が無い。ちょうど、コリン デービスからロリン マゼールに首席が移る頃で、どちらも嫌いな指揮者ではないので、残念なことをした。

 そのバイエルン放送交響楽団をクーベリックが指揮したものは随分とくっきりと、音を明確に表現している、楷書的な演奏と言っていいだろう。録音も楽器の分離が明確でその意味でも楷書のようで、指揮者のお手本のような演奏でもある。

 第1楽章など、ちょっと「ズンチャカ」聞こえる時もあるのだが、概ね好ましい演奏なのだけど、どういうわけか余り好きになれない演奏でもある。クーベリックという人は才能のある指揮者で、チェコ出身だからと言うわけではないが、スメタナとかドボルザークなどは嵌まったときは、抜群の演奏をするのだが・・・。言いがかりのようではあるが、なんとなく教科書を読んでいるような気分になってしまうのだ。テンポが正確すぎて、揺れがないのも一つの理由なのかもしれない。逆に言えば、きちんとした演奏で、見習うべき演奏でもある。そんな中で第4楽章はかなりそれまでの四角四面という枠から外れた感情が表れて好演である。


 様々な名指揮者の演奏を聴いても、本当の意味で「これが素晴らしい」とまで激賞する演奏がなかなかないというのは逆にそれだけ名曲だからなのかもしれない。手持ちの中ではブリテンとスウィトナーの演奏が取りあえず好みであるが、もしかしたらもっと劇的に好きになる演奏があるのかもしれない、とも思う。

 とはいえ、今更フルトヴェングラーやカラヤンに手を伸すのは怖いし・・・、セルとかクリップスとか、興味が無いわけでは無いけれど・・・どうしたものでしょうかね。

 

<レコード>

*モーツァルト

交響曲第40番 ト短調 K.550

交響曲第41番 ハ長調 K.551<<ジュピター>>

 カール・ベーム指揮

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 グラモフォンレコード MG2007


<CD>


*MOZART

Symphony No.40 in G minor, K550

Symphony No.38 in D major, K504 "Prague"

ENGLISH CHAMBER ORCHESTRA BENJAMIN BRITTEN

DECCA 430 494-2


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

Symphony No.40 in G minor, K550(first version)

Symphony No.41 in C major, K551 "Jupiter"

THE ACADEMY OF ANCIENT MUSIC

JAAP SCHRODER, concert master

CHRISTOPHER HOGWOOD, conductor

L'OISEAU-LYRE 443 180-2


*モーツァルト

交響曲第39番 変ホ長調 KV.543

交響曲第40番 ト短調 KV.550

交響曲第41番 ハ長調 KV.551「ジュピター」

 オトマール・スウィトナー(指揮) 

 シュターツカペレ・ドレスデン

 キングレコード KICC 93734


*ウオルフガング・アマデウス・モーツァルト

交響曲第39番 変ホ長調 K.543

交響曲第40番 ト短調 K.550

交響曲第41番 ハ長調 K.551

 オトマール・スウィトナー(指揮) 

 ベルリン・シュターツカペレ

 TOKYO FM TFMC-0001


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

SYMPHONY NO.35 D MAJOR KV.385 ("Haffner")

SYMPHONY NO.36 C MAJOR KV.425 ("Linzer")

SYMPHONY NO.41 C MAJOR KV.551("Jupiter")

SYMPHONY NO.38 D MAJOR KV.385 ("Prague")*KV no. is wrong, shall be KV.504

SYMPHONY NO.39 E-FLAT MAJOR KV.453 *KV no. is wrong, shall be KV.543

SYMPHONY NO.40 G MINOR KV.550


COLUMBIA SYMPHONY ORCHESTRA

BRUNO WALTER, Conductor

CBS M2YK 45676


*MOZART SYMPHONIES OVERTURES SERENADES

Cosi fan tutte K588 Overture *

Symphony No.25 in G minor K183

Adagio and Fugue in C minor K546

Symphony No.29 in A K201 * recorded in 1965

Symphony No.31 in D K297 'Paris'

Symphony No.33 on B flat K319 *

Symphony No.34 in C K338

Symphony No.40 in G minor K550 recorded in 1956

Masonic Funeral Music K477 *

Symphony No.35 in D K385 'Haffner'

Symphony No.36 in C K 425 'Linz'

Symphony No.38 in D K504 'Prague' recorded in 1962

Die Zauberflote K620- Overture

Serenade No.13 in G K525 'Eine kleine Nachymusik' * recorded in 1964

Symphony No.39 in E flat K543 recorded in 1962

Symphony No.41 in C K551 'Jupiter' recorded in 1962

Serenade No.10 in B flat K361 'Gran Partita' for 13 wind instruments **

Serenade No.11 in E flat K375 ***

Serenade No.6 in D K239 'Serenata notturna'  

Serenade No.12 in C minor K388 ***

Die Entfuhrung aus dem Serail K384-Overture

Le Nozze di Figaro K492-Overture *

Don Giovanni K527-Overture *

La clemenza di Tito K621-Overture *

Symphony No.29 in A K201 recorded in 1954

Symphony No.38 in D K504 'Prague' recorded in 1956

Symphony No.40 in G minor K550 recorded in 1962

Symphony No.39 in E flat K543 recorded in 1956

Symphony No.41 in C K551 'Jupiter' recorded in 1954

Serenade No.13 in G K525 'Eine kleine Nachtmusik' recorded in 1956

Otto Klemperer

Philharmonia Orchestra

New Philharmonia Orchestra(*)

London Wind Quintet & Ensemble (**)

New Philharmonia Wind Ensemble(***)

  WARNER CLASSICS 50999 4 04361 2 8 (8CDs)


*Symphony No.40 in G Minor, K550 and other pieces of Mozart

Otto Klemperer

RIAS Symphonie-Orchester 21/January/1957

MEMORIES REVERENCE MR2492/2494(3CDS)


*WOLFGANG AMADEUS MOZART

SYMPHONY NO.40 G MINOR K.550

SYMPHONY NO.41 C MAJOR K.551(JUPITER)


SYMPHONIE-ORCHESTER DES BAYERISCHEN RUNDFUNKS

RAFAEL KUBELIK

CBS MDK 446-49

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