第30話 ブラームス 交響曲集 バルビローリ指揮 ウィーンフィル
バルビローリは不思議な指揮者である。
イギリス人指揮者の印象があり、風貌と言いサー・ジョンという
その後、戦争のまっただ中の1943年にバルビローリはイギリスへと帰国し、こともあろうに軍需産業都市マンチェスター(いくどもドイツ軍の空爆に晒された都市であり、わざわざアメリカから帰って住むのは命がけでもあった)の
ニューヨークフィルとはどうもうまく行かなかったようであるが、当時のニューヨークフィルは誰が指揮者をやってもうまくなかった。それは主にオーケストラ側の問題で、結局あのオーケストラの団員は彼らが認めた(だが実はユダヤ人の血を引くという理由も大きかった)ワルターと(純然たるアメリカ人と認められその希望の星でもあり、かつやはりユダヤの血を引いた)バーンスタインが指揮をとるまで我が
同じような排斥的な事が若き日のバルビローリにも起きたのだろう。気の毒なことだが、彼はそんな目に遭っても戦後暫くたって、ニューヨークフィル(既にこのときはニューヨークフィルハーモニックに改称していた)を指揮してマーラーを演奏した。器量の大きな人間である。
最近、廃止直前のオーケストラを建て直すドラマというのをテレビでやっていたけれど、バルビローリほど鮮やかにそのドラマを超えた指揮者はいない。イギリスという芸術の支援に厚い国でも戦争中ともなれば、徴用でハレ管弦楽団が消滅するという実際の危機が存在したのである。それを団員の募集から始め、様々な手を尽くして再建を果たし、今でも存続する交響楽団へとバトンを繋ぐことができたのは
しかしハレ管弦楽団というのは、いかにバルビローリを戴いたとはいえ、超一流の管弦楽団とは言い難い。消滅の危機に見舞われた楽団が主要レーベル(EMI)からレコードを出すまでに回復したとはいっても、例えばウィーンフィルとかベルリンフィルに比べれば、やはり「格」だけではなく実際の演奏もなかなか及ばないものである。
そうした楽団を指揮しつつ、バルビローリという指揮者はそうした格上のウィーンフィルでもベルリンフィルでも決定的と言って良いほどの名演を残している。ウィーンフィルとはブラームス、ベルリンフィルとはマーラーの交響曲で。
この二人の有名な作曲家の作品は、手兵を用いてもなかなか名演に到達することは難しい。それを客演という形で名演奏に導くことのできた指揮者というのはいったい何者なのだろうか?
ブラームスの交響曲ともなれば、実力のある指揮者は少なくとも一回は録音をしているものである。いやプライドの或る指揮者ほど、幾度も演奏を重ね、足りないところを補おうと足掻く、そんな作曲家である。フルトヴェングラー、カラヤン、トスカニーニ、ワルター、クレンペラー、セル、ベーム・・・他にも錚々たる指揮者が全曲を録音し、また再録をしている。シューマンとかメンデルスゾーンとか、そういう作曲家は例え一度は全集録音をしても余り再録音を試みる指揮者は少ない。そうした意味でブラームスとかベートーベンというのはやはり例外的な作曲家なのであろう。
しかし、不思議なことにこの交響曲の名演というのは、必ずしも全集を録音した指揮者によるものではない。例えばミュンシュがパリ管弦楽団を振った1番(ミュンシュは3番が欠番)、カルロス クライバーがウィーンフィルを振った4番(クライバーは4番しか録音していないが、2番には映像がある)、同じ4番でも系統が違う、アバドによるロンドン交響楽団の演奏(アバドはその後全曲演奏はしているがロンドンとではない)など・・・僅か4曲しかないブラームスの交響曲ではあるが、優れた指揮者の中には自らに合う音楽というものを峻別するタイプの人も居れば、時間を掛けて全てを征服しようと企む人たちもいる。
しかし・・・4曲全てを高いレベルで演奏するのは大変難しい所業なのだ。
ベートーベンやマーラーのように9曲もあれば、その全曲を制すのは難しいだろうが、4曲であればなんとかなりそうな気もする。しかし、ブラームスというのは一筋縄ではいかない作曲家である。
ピアノ協奏曲だって僅か2曲なのに、余りに性格が異なっていてこれを同じレベルで制するのはなかなか困難なのだ。その一つはブラームスという人が性格的に
そのくせ2曲目はなんだか妙にあっさりと仕上げており、交響曲は1番は21年という難産、2番は4ヶ月という短期制作・・・さすがに制作というのは期間のみで計れる単純な物ではないにしろ、やはりその差は歴然と存在する。音の密度は一番の方が遙かに高く、音の流れは二番の方が遙かに流麗である。
3番、4番にしても比較的短い期間に作られた割には異なった特質があり、4つの交響曲には「ブラームス的」であるという以外の共通点は少ない。共通点が少ないのに全て「ブラームス的」であるというのも不思議だが、そういうしかない。1番はベートーベンの音がする(これは明らかにブラームスが意識したのだ)し、4番には余り仲の良いとは思えないチャイコフスキーの匂いがしてくる(これはチャイコフスキーが無意識に真似たのだろう)のだが、それを統一しているのはあくまでも「ブラームス」なのだ。
そして、その統一感をもっとも高いレベルで感じさせてくれるのがバルビローリとウィーンフィルの演奏だと僕は思っている。ここでバルビローリとウィーンフィルと敢て管弦楽団の名を挙げたのには意味がある。
このカップルの演奏はブラームスの4つの交響曲の各々で異なる「カタルシス」を経験させてくれる。それこそがこの全集の素晴らしさであり、それは
ブラームスの演奏に感じるカタルシスはちょっと他の作曲家(例えばワーグナーなど)と違った禁断の味がする。カタルシスを目指さない人間が醸し出すカタルシスは、カタルシスだらけの作曲家のカタルシスとは本質的に異なるものなのだ。恐らくそれはウィーンフィルが意識していたスタイルであり、バルビローリという指揮者を得て、彼らはそれを音にしていったのだと僕は思っている。
ブラームスには相反する様々な人物像が混在しており、師であるシューマンの妻クララを慕い続けつつも思いを果たすことのなかったロマンチックな印象もあれば、気難しい小言ばかりの今で言うならパワハラのにちかい所業を行った音楽教授でもあり、ブルックナーと派手な論争をしつつ、その死を悼み、殆ど変装のような格好で葬儀に赴いたのに、行かずに家に戻って、そのすぐ後に死んでしまう。
どうも作曲家としてだけではなく、あらゆる方面で不器用で無骨だったのに、サガンの「ブラームスはお好き」などという小説のタイトルにうっかりなってしまう。あれはモーツアルトでもベートーベンでもワグナーでもショパンやシューベルトなどでも、ましてやブルックナーでも駄目で、「ブラームスはお好き」でしか成立しない話なのだ。
その多面性のどこでブラームスを捉えるかで、ブラームスの曲の演奏の好みは分かれ、特に管弦楽は大きく分かれる。フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、様々な指揮者はブルックナーとブラームスをどちらも演奏しているのだが、どうもブルックナーの指揮が上手い人はブラームスはそれほどでもない。
ブルックナーとブラームスが亡くなるまで仲が余り宜しくなかった(が、それぞれ亡くなったのは1896年10月と翌年の4月で半年も経たずに仲良く天国へと召されたらしい)事と関係あるのだろうか。この二人の仲が良くないのはワーグナーとその取り巻きが焚き付けたせいであって、内心では認め合う仲でもあったらしいのだが、演奏はそうでもない。クナッパーツブッシュやチェリビダッケはブルックナーより、フルトヴェングラーやベームはブラームスよりで、これは曲の性格に大きく影響されているものだと思う。
バルビローリは晩年になってブルックナーの後期交響曲をハレ管弦楽団と演奏しているのだが、僕は聞いたことが無いのでコメントできない。想像で言うとあの茫洋とした音楽はバルビローリとは余り相性が良いとは思えないのだけど・・・。どうなのだろう。逆にブラームスはバルビローリとは相性があっている。
ちなみに吉田秀和氏などは、あまりバルビローリの演奏を評価しておらず、ベームを推薦している。それも「バルビローリ」の項目の中でベームを推薦するというのは聊か疑問符がつくばかりかバルビローリを結構酷評している嫌いがある。曰く、
「せっかく、ヴィーン・フィルハーモニーというすばらしい楽器を手にして、ブラームスの指揮に失敗するようでは、名指揮者もないものではないか!」
それは残念なことである。ただ残念なのは吉田秀和氏がこの演奏を楽しめなかったことだけであって、別に吉田秀和氏が評価しなくてもこの演奏の価値は全く損なわれない。それは吉田秀和氏の評論を愚弄しているのではなく、吉田秀和氏と
他の例を挙げれば、吉田秀和氏にしても宇野功芳氏にしても、1950年から60年代のアメリカのオーケストラに関して、ニューヨークフィルの評価が極めて低いが、実際の所、余りミトロプーロスの指揮などを聴いた形跡は見えず、その頃のアメリカの評論家の影響を強く受けているのは明白だ。吉田秀和氏はアメリカに何度も足を運んだだけあって、ミトロプーロスを個別に取り上げはしなかったもののミュンシュについての記載で「ミトロプーロス指揮のニューヨークフィルだって結構素晴らしい演奏をきかせてくれた」、と書いているから、ある程度聞いた上での判断ではあろうけれど。宇野功芳氏は例え聴いたとしてもミトロプーロスは好みでなかったかもしれないが・・・たぶんあんまり聞いていない。もしカペルと共演したブラームスや、シェーンベルクの「浄夜」、プロコフィエフなどを聴いても彼の意見が変わらなかったなら、僕は宇野氏を捨ててミトロプーロスを取るだけの話である。評論家というのはそう言う立場なのだ。
こうした大御所たちでもやはり更にリファレンスがあってその影響を受けるのはある程度仕方ない事であり、それを積み重ねて説得力のある評論を作っていくのであろう。彼らがニューヨークタイムズのハワード タウブマンなどの論調に乗せられたとしても一時は仕方ないのかも知れないし、「名演順番付け」の下らない音楽評論などとは断然かけ離れた質が両氏にはあるので、その点は間違えないで欲しい。
ではバルビローリの演奏に戻ろう。
第一番の1楽章、構えは大きく、ゆったりとしているが遅すぎることもなくインテンポで音楽は進んでいく。やや悲劇的な悲愴感を帯びた曲想を、殊更演出することなく、かといって感情も無げに淡々というのではなく、絶妙に。統一の取れたウィーンフィルの絃の美しさがこれほど感じられるのは「自主性」を重んじた伝統が正に「自主的」に音楽を作り上げていくプロセスなのだ。それがバルビローリの指揮棒と調和して素晴らしい音楽を作り上げていく。ミュンシュがパリ管を制しながら作った音も素晴らしいけれど、それとは又異なった絶妙な音がここにある。
こうした音作りができるというのがバルビローリの真骨頂で、なんというか「感情の容量」がとても大きい指揮者なのだと思う。やや、寂しげな管の音が樹上を変わらぬ速さで吹きぬける風のような絃と呼応する2楽章、それがやがて渦を巻き穏やかに変じていく。ホルンが告げる時へと沈み込んでいく淡い光が消えるように終わりを告げる。
曙が昇るかのように始まる第3楽章は、すぐにどこか不安げな色を帯びる。それを打ち消すような管の響き、波を押し上げるような絃の豊かな音色がつづく。そんな美しい情景を魔法のように指揮者と楽団は生み出していく。4番の冒頭、不吉な音色が生み出す沈黙と弦を打つ音、あれほど明るかった景色は一旦、消え去り、重苦しさに支配される。それに打ち克つような管の響きもどこか重い。
だが、その景色を塗り替えるかのような喜びに満ちたテーマが覆うように始まる。もっともベートーベン的なこの部分、クレッシェンドの美しさはどんなにか・・・。ウィーンフィルでもこれほどの絃はなかなか聴けない。波は高まり、喜びは打ち消されるかのように終末のカタルシスへと展開していく。
第二番は吉田秀和氏がこき下ろした演奏で、その理由は冒頭「初めの第一小節のチェロとコントラバスがユニゾンでd/cis/d-aとやるその演奏からして、もう、いけないのである」のだが、要はピアノ(p)の指定を守るだけにして余計なことをするな、というご託宣で、逆にちゃんとした演奏をしているのはベームだけだと言う主張である。だいぶ虫が悪いところで聴いたようなので、もはやそっとしておくしかない(下手に反論すれば却って意固地になりそうな気がするので)恐らくコンドラシンの演奏なんかも爆死の対象となろう。
この演奏スタイルはウィーンフィルというよりバルビローリのもので、バイエルン放送交響楽団を振った盤でもほぼ同様の出だしである。セルやクレンペラーに比べると多少、特徴のある出だしだが、ここまで書くとちょっとどうかな、と思えてくる。ベームの演奏について「レコードは古く・・・いやな音しか出ない。それにもかかわらず、何とよい演奏、何と暖かい音楽だろう」とまで書くと、子供の頃に被って寝た毛布を手放せない人のようにも思えて、聊か腰が引けてしまう。読めば読むほど吉田秀和氏はブラームスの第二交響曲が好きなのではなく「ベームが振ったブラームスの第二交響曲」が好きなのだと分かってくる。
いずれにしろ、この出だしは基本動機として繰り返される音型であり、その配分を考えながらどのように最初の出だしを作るのか、というのが指揮者に課せられた課題であるから、それに対しての答えは様々にある。
僕はバルビローリのものを全く悪いとは思わない。吉田秀和氏が書いているように「この小さなモティーフの中に、全交響曲の萌芽がある」のは事実で、その音が気に入らないと全曲(少なくとも第1楽章は全部)気に入らないというのは一つの論理的帰結であろうが、それは一人の意見であり、少なくとも影響力のある人がわざわざ全否定というのも大人げない話だな、と思わざるを得ない。
僕が全く悪いと思わない、というのはこのD-C#-Dの冒頭の音型は演繹的ではなく帰納的に冒頭に置かれた動機のように思うし、第1楽章の構造を決定した後に、その口火を切る導火線として配置されたように聞くからである。その導火線の紐は「決定的な音型」だけど、音楽全体を決める「決定」ではない。紐が多少豪奢でも、細い紐でもあり(「うっかりとして聞こえない」pppでは困るが)だと思うのだ。寧ろこの曲のカタルシス的な要素は第1楽章に存在し、冒頭の音に囚われすぎる必要を感じない。この曲を作っているときのブラームスは幸福だったのであろう。第2楽章こそ、どこかメランコリックな響きを漂わせるが、第一番のようにのしかかる重い雲は吹き払われ、第3楽章などドイツの秋の空のように地平の白へと溶け込む薄青の空に、細い雲が棚引いているような景色が浮かんでくる。夏の終わりから秋にかけてのドイツは本当にこんな音色が似合う。
第4楽章は、いかにも「まとめに入りました」というブラームスらしい楽想で、その構造を聞く度に、にやりとしてしまうのだけどそうした「建築物」を思わせる形がブラームス的な要素なのかもしれない。バルビローリの演奏の中でややもたつく感があるのはこの楽章であるが、逆に言うとこの楽章は誰がどう演奏してもどこかで「字余り」的なもたつきがでてしまう難しい部分だと思う。最後は絢爛豪華に終わるのだけど、そこまでに仕掛けたブラームスに意地悪はなかなか克服できない。ワルター(ニューヨークフィル)のように余り思い入れずさっさと片付けに入ってしまうのは一つの手である。
第三番はブラームスの交響曲の中では比較的人気の薄い曲ではないかと思う。聴衆の好みは第一番と第二番に分かれ、指揮者は第四番を演奏したがる傾向が見られる。この曲は第3楽章が非常にメランコリックで有名なのだが、やや難渋な第2楽章と厳かだがカタルシスへと聴衆を導くことのない第4楽章に囲まれ、この曲全体を持ち上げるまでには至らない。
だがもしかしたらこの三番こそがブラームスのパーソナリティがもっとも端的に表れた曲なのかも知れない。本質的な自己の吐露に押し出されるようなメランコリーが彼の持っている芯ではなかったのか、という。それは抑制という名のもとに鎮まっていく別の形のカタルシス・・・人間は解放と逆に閉鎖の中にも浄化という作用を見出すことが出来るのではないか。
そして第四番はひどく悲痛な旋律が第1楽章を占拠している。そんな吹きすさぶ嵐の山中を思わせる第1楽章が終わり、第2楽章の穏やかな旋律が、始まるのだがその穏やかさはどこか古代めいて逆にいいようのない寂しさを感じさせる。これは、音楽というか、感情が狭い空間に滞留しているからだ。方向性を失った風が狭間で力を失った感覚。そんな停滞を打ち破るように第3楽章は陽気に開始されるが、長続きすることはない。どこか相反する感情の交錯・・・変な感想かも知れないが、このあたりを聞いているとリヒャルトシュトラウスの「ティル」の終曲近くの「人生の振り返り」の風景と似たものを感じるし、第3楽章から第4楽章にかけてはチャイコフスキーの「劇」に通じる感情の流れさえきこえてくるのだ。
そうした複雑な音楽のまとまりを幾つかの序曲を全て含めてバルビローリほど巧みにまとめ上げた指揮者は少ないだろうし、そこにはウィーンフィルという素晴らしいパートナーがあったからこそだと思う。もちろんブラームスには他にも(ブラームスを別の角度から捉えた)素晴らしい演奏がある事は否定しない。しかし、バルビローリの演奏はいつまでもその頂点の一つとして語り継ぐべき演奏だと僕は思っている。
(レコード)
*ブラームス 交響曲 第1番 ハ短調 作品68
ジョン・バルビローリ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
EMI EAC-30041
*ブラームス 交響曲 第2番 ニ長調 作品73
悲劇的序曲 作品81
ジョン・バルビローリ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
EMI EAC-30042
*ブラームス 交響曲 第3番 ヘ長調 作品90
ハイドンの主題による変奏曲 作品56a
ジョン・バルビローリ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
EMI EAC-30043
*ブラームス 交響曲 第4番 ホ短調 作品98
大学祝典序曲 作品80
ジョン・バルビローリ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
EMI EAC-30044
(CD)
*JOHANNES BRAHMS
SYMPHONY NO.1 in C minor Op.68
TRAGIC OVERTURE Op.81
WIENER PHILHARMONIKER
CONDUCTED BY: SIR JOHN BARBIROLLI
ROYAL CLASSICS ROY6433
*JOHANNES BRAHMS
SYMPHONY NO.2 in D major Op.73
SYMPHONY NO.3 in F major Op.90
WIENER PHILHARMONIKER
CONDUCTED BY: SIR JOHN BARBIROLLI
ROYAL CLASSICS ROY6434
*JOHANNES BRAHMS
SYMPHONY NO.4 in E minor Op.98
ACADEMIC FESTTIVAL OVERTURE Op.80
VARIATION ON A THEMA BY HAYDON Op.56a
WIENER PHILHARMONIKER
CONDUCTED BY: SIR JOHN BARBIROLLI
ROYAL CLASSICS ROY6433
*JOHANNES BRAHMS
Symphonie No.2 in D-Dur op.73
RALPH VAUGHN WILLIAMS
Symphonie No.6 in e-moll
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
SIR JOHN BARBIROLLI
ROYAL CLASSICS ROY6434
(書籍)
「世界の指揮者」 吉田秀和著 新潮社 2888 ISBN4-10-124202-X C0173
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