第28話 シベリウス バイオリン協奏曲 オイストラッフ(vn) ロジェストベンスキー指揮
バイオリンという楽器は、時代が技術の進歩を反映しない。ピアノはベートーベンの時代から随分と変わり、進化したが、バイオリンは依然としてベートーベンが産まれる前に制作されたストラディバリウスやグァルネリ、アマティを超える楽器が生れてこない、とされる。
ベヒシュタインやベーゼンドルファーは名前と会社は未だ残っている物の(ハンス・ビューローの言葉に反して)残念ながらストラディバリウスのような地位を占めておらず、現在のピアノコンクールで使われる楽器はスタインウェイ、ヤマハ、ファツイオリ、カワイなどが一般的になりつつある。
科学万能の時代に、5百年も昔に作られた物を超えることができない、というのは不思議な話だ。デジタルという物であっても最後まで貫徹すれば、本来ならアナログを完全にコピーできる筈(これは例えばモニターの画素数がユーザーの判別不可能になるまで無限大化することをイメージして頂けば良い)なのだけど、そうならないのが面白い。
デジタルというのは0と1で構成され、その間になにもないというのが原則だがアナログというのは0と1の間に無限が存在する。ピアノは打鍵だから鍵と鍵の間には何も音が存在しない(デジタル)が、バイオリンは弦だから無限が存在(アナログ)する、のかもしれない。そういえばピアノというのはキーボードである。キーボードの世界は無限が存在しない代わりに、進化は無限なのだろうか?
どうしてこういう話をするかというと、バイオリンという楽器がどこか捉えどころのない不思議なものに思えるときがあるからだろう。ピアノのように持ち歩くことが難しい楽器は、よほど有名で資産のあるピアニストでもない限り、大陸を渡り歩くときに一緒に楽器を連れ歩くことは出来ない。他の楽器はそれが可能であるが、なぜかバイオリンほど(或いはビオラやチェロを含め小型の弦楽器ほど)個々の楽器が云々されることは少ない気がする。そういえば嘗て、琵琶にも玄象(絃上)や無名という名器があったと聞く。バイオリンや琵琶のような弦楽器、取り分けて体にすっぽりと抱くことの出来る楽器は演奏者と体を寄せ合うことで共鳴することのできる極めてアナログ的な楽器なのかも知れない。
そしてバイオリニストとバイオリンはまるで
いや、時代はその面では進んでいる。チョンキョンファのように離婚したり、ムターやグリュミオのように本妻と愛人がいたり?するのは時代の流れなのだ。
閑話休題。
ピアノという楽器に興味を持ってきた人間にとってバイオリンの曲というのはやはり少し馴染みが薄くなる。ピアノ協奏曲はピアノとオーケストラが常に対峙するスリリングさがあり、だからこそ作曲家にとっても面白く曲数も段違いに多い(多分、需要も多いのだ)。だがバイオリン協奏曲は場合によっては(オーケストラのコンサートマスターが演奏したりすることを前提に作られてきたので)対立感が弱い。などと、妙に斜に構えてどこか敬遠している。
有名なバイオリン協奏曲はさすがに何枚かのレコードやCDで聞き比べ、それぞれに好みは持っているのだが、ピアニストほどの演奏家に強い感情を抱くこともない。だがそれは実はもしかして、それは曲と演者と楽器という三つの要素が強く結びつきすぎて、それに嫉妬心が芽生える、からかもしれない。
逆にそうしたこともあってか、曲とバイオリニストの組み合わせに対する好みはピアノより強くなる。例えばショパンのピアノソナタはカペル・ポリーニ・アルゲリッチを初めとして複数のピアニストを聴くが、バイオリンの場合もっと偏りが強くなる。
モーツアルトならグリュミオ、ブロッホならチョンキョンファ、パガニーニならフランチェスカッティ、メンデルスゾーンならミルシタイン、というように。別に他の演奏も持っているのだけど、聴くとなると敢て他を選ぶ事は少ない。
そんな中で幾つかの協奏曲はまだ、決定盤がないというべきか、或いはそうした強い結びつきを弾く力を曲が持っているのか、そういう曲がある。例えばベートーベンのバイオリン協奏曲、これはフルトヴェングラーとベルリンフィルのコンサートマスターであるレーンの演奏をこのエッセイで一番に上げてはいるが、チョンキョンファやシゲティ、ハイフェッツなども同じ程度に聴く。フルトヴェングラーのものは、第二次世界大戦末期のベルリンという特殊な環境で成された演奏という事もあって格別のエモーションを持っているのだが、この曲はそれと異なる形の演奏を許容する力を持ち合わせているのだ。
シベリウスの協奏曲もベートーベンほどではないが、なかなか席が決まらない曲の一つである。この曲は戦後になるまで余り演奏されることはなく(その意味でこの曲を世間に認めさせたハイフェッツの功績は大きい)、そのためか近年になるまでウィーンフィルとかベルリンフィルが伴奏をする事は殆どなかった。だが今ではかなりポピュラーになっている。
昔は良く三大バイオリン協奏曲などと言って、メンデルスゾーンやチャイコフスキー、ブラームス或いはベートーベンなどがその座を争っていた(というか勝手に争わされていた)がさすがに最近ではそうした論議も少なくなってきた。何も三大、という枠に拘り必要性はないのだ。三大、というのはメダル争いから起きてきたのだろうか?あまりたいした意味は感じられないが、敢て三大ということになれば、シベリウスの協奏曲もその一角を占める十分な力がある。
この協奏曲も他のバイオリン協奏曲と同様、さほど演奏を多く持っているうちには入らず、僅か4枚であるが、それでも良く聴けばそれぞれに特徴がある。特に第3楽章はかなり差が出る。
技巧的に安定しているのはオイストラッフとムターで、高音部を弾いても音が十分にみずみずしい。人の声で言えば「かすれがち」或いは「裏反える」ことが殆どなく、最後まで弾き切っている。
賢い演奏はチョンキョンファで、オーケストラを上手く使って難しい箇所を「消して」いる。この演奏をしたとき、彼女は若干、22歳。恐らく指揮者のプレヴィン(この人はシベリウスの協奏曲をかなり得意としているらしく、パールマンや録音当時奥さんであったムターとも共演している)とかなり綿密に打ち合わせ計算されたものだと思う。その控えめな表情がシベリウスの感覚と相俟って絶妙な調和を見せた演奏である。
一方でクレーメルとムーティの盤は、(恐らくは)クレーメルの強い主張があって、全般的にバイオリン主導の演奏になっている。この3楽章もクレーメルのアイディアによるのだろうが、残念なことに僕の好みではない。
恐らく意図的にバイオリンを「泣かせて」いるのだろうけど、それが耳障りなのである。バイオリンは時に人の声と
この曲がしばらくの間余り人気がなかったというのは不思議である。シベリウスという作曲家は「フィンランディア」や「エン サガ」「トゥオネラの白鳥」といった比較的小規模な管弦楽の人気があったが、交響曲やバイオリン協奏曲(彼自身は作曲家であるとともにバイオリニストでもあった)も名曲であり、取り分け交響曲の二番やこの協奏曲はフィンランドを代表する音楽だと思う。
その北欧の冬の厳しさ(これは行った人間でないとわからないだろうが、精神を病むほどの厳しい冬という)に思いを馳せると、どうしてもオイストラッフとロジェストベンスキーの演奏に心が傾く。ブラームスやチャイコフスキーではないのだから、という人も居るだろうが、そもそもこの曲はそうした先達の影響を強く受けた曲であり、重めのオーケストラ、どっしりとしたバイオリンが「似合う」曲なのだ。
オイストラッフには他にオーマンディとの共演もあり、どちらかというとその盤を好んでいる人が多いようだ。僕はその録音を聴いていないのでなんとも言い難いが、例えばメンデルスゾーンやチャイコフスキーでの共演を聴いた推測で言えば、ロジェストベンスキーとの「厳しさ」は存在しないように思う。オーマンディはアメリカでのシベリウスの普及に力のあった指揮者と聞くので、その点はリスペクトするが、どちらかというと明るい音色を作り出す指揮者であり、チャイコフスキーなどの伴奏をしてもどこかそうした素の表情が現われる。
おそらくこの曲も同じような展開になっているのだろう。といっても、これは
そんなわけで、この協奏曲に関してはオイストラッフの演奏を僕は最も好むのだけど、チョンキョンファの演奏も捨てがたく思っている、というのが実情である。
*Jean Sibelius Violinkonzert d-moll op.47/Zwei Humoresken op.87
David Oistrach, violin
Grosses Rundfunkssinfonieorchester der UsSSR
Dirigent:Gennadij Rosahdestwenskij
Paul Hindemith Violinkonzert
David Oistrach, violin
Staatliches Sinfonieorchester der UsSSR
Dirigent:Gennadij Rosahdestwenskij
MELODIA GD69083
*PYOTR TCHAIKOVSKY Violin concerto in D major, op.35
JEAN SIBELIUS Violin concerto in D minor, op.47
KYUNG WHA CHUNG violin
London Symphony Orchestra
Andre Previn
DECCA 425 080-2
*Jean Sibelius Concerto for Violin and Orchestra in D minor, op.47
Serenade no.1 in D major, op.69a
Serenade no.1 in D major, op.69a
Humoresque op.87 mo.1
ANNE-SOPHIE MUTTER, violin
Staatskapelle Dresden
ANDRE PREVIN
Deutsche Grammophon 447 895-2
* Jean Sibelius Violin concerto in D minor, op.47
Robert Schumann Violin concerto in D minor
Gidon Kremer violin
Philharmonia Orchestra
Riccardo Muti
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