第27話 モーツアルト 大ミサ曲 フリッチャイ指揮 マリア・シュターダー (ソプラノ)
声楽曲を余り好んで聴かないことは色々なところで書いてきた。
宗教曲は特に苦手でベートーベンの「荘厳ミサ」やブラームスの「ドイツ レクイエム」をクレンペラーの演奏で聞く事はあっても、交響曲より遙かに頻度は低く、モーツアルト・フォーレ・ベルディの三大「レクイエム」はほぼ「買ったときに聞いたきり」である。そもそもキリスト教徒でもない僕は教会に行って、ステンドグラスや壁の絵画に描かれたキリストの苦難を見ても余り感動できない(まあ、寺にある日蓮聖人の御伝の絵を見ても同じだけど)
それなのに・・・。
欧州に住んでいると地元や訪問先の教会を観光地として訪れることは多くなる。住んでいたミュンヘンでは市庁舎の横にでんと構えた青銅色のフラウエンキルヒェ、パリに行けばノートルダム、ミラノのドゥオモ、ケルンやウルムの大聖堂、様々な教会を訪れ、その偉容に圧倒された。海外の人々が東大寺や法隆寺を訪れ、感動するのと同じことで異文化でありながら、何百年・千年と祈りを捧げた人々の思いをそこに感じ取るからである。しかし、僕ら自身はそこでは異物であり、異教徒である。その素晴らしさの中では無く、外から眺めているのであることに変わりは無い。
恐らくそこで捧げられた祈りは、愛する人々への思い、苦しみや貧困からの解放、悲しみの癒やし、そうした万国共通のものであろう。ただ、壮大な伽藍はそうした人々の悩みを収容するには余りにも絢爛豪華であり、暫く居る内にどこか嘘くさいものを感じ始めてしまう。そこが宗教の微妙なところで、壮大さが却って何か肝心なものを台無しにしてしまう、そんな部分もあるのではないか。
実はレクイエムを始めとして西欧の宗教音楽を聞くと同じ感想を抱いてしまう。立派だけど、どこか装飾が多すぎ華美に流れた部分・・・どちらかというと宗教という包みで全てを飲み込み持ち去っていこうとする企みのような・・・。だから”サンクトゥス”などという合唱を聴くと居心地の悪い場所にいるような気分がしてくる。
それなのに・・・。
「ミュンヘンから高速でガルミッシュ パルテンキュルヒエンに行った日・・・。そう、あれは春の始めだった。
アルプスの山々には雪がまだ麓まで残っていたっけ。高速を降りてずっと一本道を走っていくと、途中で羊飼いが羊を移動させているのに出くわしたんだよ。
滅多にあることじゃないんだけどね。出会ったら暫くは羊と同じ調子で動かなけりゃならないのさ。まあ、そうはいっても草を食べさせる場所を移すだけだからね。何キロもっていうわけじゃない。たかだか100メートルかそこらなんだけど、問題は羊の数なんだ。次から次へと
まあ、そんなことはいいんだけどさ。結局、30分くらい待たされたんだけど、僕の後ろには5台くらいしか、車は来なくてね。もうスキーのシーズンは終わりだったからかな。怒り出す人も居るんじゃないかと思ったけど、車を降りて羊見物したり、煙草をすったり、
え、ワンって吠えただけだろうって。違うな。ドイツでは犬はワンとは吠えないんだ。ウフウフとかワウワウとか・・・。いずれにしろ、ワンではない。聞き違えだろうって?うん、それはそうかもしれない。今となっては証明するものはないからね。でも、もしあいつ、しゃべれたならエンシュルディゲン ズィ ビッテとか言ったに違いないね。しっかりとした犬だったからね。
それはそれとして、なんだかね。ちょっと気が削がれたもんだから、ちょっと先に行ったところに村があったんで車を停めたんだ。トイレにも行きたかったし、どこか食堂かインビスかで軽く昼飯でも取ろうと思ってね。
村の中心部あたりに車を停めて、あたりを歩いてみたんだが、どの店もやってないんだ。二軒ほどそれらしい看板はあったんだけど、どちらも閉まっている。他の店も皆閉まっていて、それどころか人通りがないんだ。別に特別な日でも無いはずなんだが、と思いながら外れまで行くと、教会があった。古い建物らしく、酸性雨っていうのかな、あれに晒されたのか、外観は黒いシミだらけでね。ゴシック様式っていうのか、全体は細長くて、尖塔が空高く聳え立っている、といってもね、そんなに大きいわけじゃないから、せいぜい30メートルくらいなんだろうな。
けどね、その教会の駐車場には結構な数の車が停まっていて、なんかの儀式でまるのかな、と引寄せられてね。それに教会の周りにエニシダの黄色い花が満開だったんだ。日本だけじゃなくて、どこの国でも春を告げる花はあるもんだよ。イギリスならアーモンドチェリー、濃いピンクの花。ミュンヘンのあたりだとやっぱりエニシダなんだな。菜の花も咲くけれど、エニシダの花の色の方が遙かに濃いんだ。きれいなもんさ。その花につられたっていうのもあったかな。
それに教会でトイレも借りられるんじゃないかななんてさ。ドイツのね、公衆トイレってお金を取られるから。まあ、教会のトイレにも小銭を置く場所があって・・・。うん、きちんと払うよ。10ペニヒはそのためにいつも幾つかポケットに入れているんだ。
で、その教会の入り口に辿り着いたんだ。ドイツ語で「ミサの最中です。入るときはお静かに」と書いてあった。言われた通り、静かにドアを開けて中に入った。
教会の入り口ってさまざまなタイプがあるんだ。しっているかい?すぐに内部のなんていうのかな・・お祈りをする席に通じる構造のところもあれば、内にもう一つ扉がある形式の所もある。最初のほうのやつは、音を立てるとお祈りの邪魔になるからね、そっと開くんだ。でも、その教会は二つ扉がある形式ではなかった。中に入ると、ちょっとした漆喰の壁があってね、それで中と遮られているんだ。その壁を回り込めば中に入るって寸法さ。で、トイレを探す前にちょっとミサを見てみようと思ったんだ。昔はミサなんて日曜日しかやってなかったものだし、昼間とかは禁止されていたらしいから、物珍しさもあったのさ。
そんなに大きな教会ではなかったけど、中にはぎっしりと人が集まっていてね。みんな小さく屈んで司祭を見つめているんだ。司祭が何を話しているのかは分からない。でもドイツ語じゃなかったね。きっとラテン語なんだろう。
その時司祭が何か鋭い口調で空を指した。同時に教会にいた人々がみな立ち上がると、十字を切った。僕も思わず見上げた。ステンドグラスの光が交差するように教会堂を照らしていて、そこに・・・確かになにかがあったんだ。今まで見たことのないもの、触れない物、触ってはいけない物、光?物体?言葉?
でもそれは一瞬だった。けれど、それは何かを変える一瞬だった。やがて教会にいた人々はみな腰を下ろし、説教は続いた。僕だけが立ったまま空中を目で探していた。
あれは何だったんだろうってね。でもそれを問い掛けることは僕には出来なかった。なにかそこの人々だけに共有されているもの・・・そんな気がしたんだ。なんというか・・・敬虔?そんな気持ちに初めてなった。で、手洗いを借りて、5マルクをおいて教会を後にした。実は本当はその先に用事があったんだけど、そのまま家に帰ったのさ」
「それとはちょっと違うけれど、似たような思いをしたことがある。街の中でのみの市みたいなのやっていてさ、ビクトリアマルクっていう本物の市場の近くでね。そこで貧相なCDを見つけたんだ。その教会に行く一月くらい前の事かな。売っていたのは多分ジプシーの女の子でね、2マルク50ペニヒ、安いから本当に聴けるのか、って冷やかしで尋ねたら荷物からやっぱり安そうなCDプレーヤーを出してきて掛けたんだ。冷やかしついでだったんだけど、そこまでやらせちゃったからな。仕方なく買って、家に帰った。そのまま放って置いたんだけど、ある日ガールフレンドが来てね。何、これ?あんたに似合わないものがあるじゃない、そう言って面白半分でプレーヤーに掛けたんだ。僕はキッチンで飲み物を作っていたんだけど、リビングからその音楽が流れてきた途端、何かが電流を背中に・・・脊椎に流したような感覚がしたんだ。最初は何か分からなかった。ガールフレンドの言葉なんて聞き流していたからね。でも、それがあののみの市で買ったCDから流れてきた音楽だなんて信じられなかった。買ったときにもちょっとは聴いたはずなんだけど・・・そんな感じはなったんだよな。まあ、雑踏の中で聞いたからかな。でも、全然違ったんだ。まるで魔法にかけられたような気がしたのさ。その時の感覚に似てたんだよ。どう言ったら良いのかな。今まで感じたことのない、畏れとか厳粛さとか、そういう言葉が相応しいものさ。そんな言葉と無縁の人生を送ってきたからね」
「さっきの話?ああ、教会の話・・・か。うん、え?どうして用を足さずに帰ったのかって?・・・。なんでそんな事を・・・。いや、まあ別にたいした話じゃない。まあ、あんまり良い話じゃないんだ。その頃は生活が苦しくってね。それまで働いていた日系の企業が急に店を畳んでしまったからね。カネが必要になってちょっと怪しげな話に乗ってしまったのさ。けどね、急に嫌気が差してね、それでもうそのまんな、日本に戻ることにしたんだよ。住んでいたのは彼女のフラットだからね。荷物なんかなかったし、着の身着のままで。怪しげな話って何かって?詳しいことは良く分らないんだけどね、その日、目的地に行けばうまくいけば数万マルク手に入るかも知れないっていう話があってね。まあ、でもそんなカネが動く話は碌でもないに違いないからね」
「うん、さっきのCD? 今度はCDの話か。それは彼女の家に置き忘れてきたんだ。急いでいたからね。戻ったその日にフライトの予約をしてね、次の日にはもう飛行機に乗ったから、手荷物は一つ切りさ。
どんなCDだったか、だって?妙な事を聞くね。ちゃんとしたCDっていうのは立派なリーフレットがついているけど、それは紙が1枚っぺらでね、廉価盤なんだろうね。確か表紙はキリストの肖像だったかな。悲しそうな顔をして、俯いていた。いや、あれはキリストなのかな?結構立派な服を着ていたし、なんだか翼みたいなものが背後にあったような気がする。もしかしたら天使かもしれない。そのくらいしか覚えていないな、うん」
「ん?そんなCDを持っている?そのCDと同じものじゃないかって?どれだい?・・・あ、そうだ・・・確かにこんなジャケットだった。でも、これは日本では売ってないはずだよ。ほら、made in West Germanyって書いてあるじゃないか。まだ西ドイツっていう国があったんだな。凄い偶然だな。どこで手に入れたんだい?海外から送られてきたんだって?わざわざそんな事をする人っているんだな。ぜひ、聴いてごらん・・・ん?これは見覚えがあるな。このインナーに貼ってあるシールだよ。僕のにも同じようなシールが貼ってあったんだ。このCDには全部ついているのかな。いや、そんなわけがない。もしかしたら、これは?」
「うん、そうですって・・・君は一体誰だ?さっきのバーで隣に座ってきた時から妙になれなれしいと思っていたが、なぜそんな物を持っている?まさか・・・マリアをどうかしたんじゃないだろうな。だいたいこんな場所で、何をしようっていうんだ。他の客もいるんだぞ」
「大丈夫です。それよりも体はいうことを利きますか、だって?そんな心配をされる・・・あれ、おかしいな。指が動かない。(ガチャン)どうしたんだ、何か盛ったのか?
助けて・・・助けて・・・?どうしたんだ、みなこっちを見ているのに・・・。
まさかみんなグルなのか?その通りです?ここはそのために作ったフェイクのバーだって?そんな大がかりな・・・。君たちは?
え、あの日きちんと仕事をしてくれればこんな目に遭わずに済んだのにって。まさか、ここまで追いかけてきたのか?そんな・・・。じゃ、あれは一体何の仕事だったんだ、麻薬か、もしかしたら軍事物資か?違う・・・?人だって。殺人か誘拐か」
「そんな事を知っても仕方ないでしょうって・・・。ああ、確かにな。やばい仕事だとは思っていたが、まさかここまでとはな。じゃあ、その質問は撤回する。かわりに教えてくれ。マリアの身は大丈夫なんだろうな。大丈夫ですって・・・?本当なのか。メッセージがあるって?シャイセ、エス ライヒト、ゲー ミア アウス デン アオゲン・・・(くそったれ、もういい加減にしろ、どっかへ消えろ)
ああ、そうか、あいつのいつもの口癖だ。そうか・・・。そう言っていたのか。ならば、信じよう。それにしても・・・こんな最期になるなんてな。
もう一つ頼み事がある。さっきから音楽を流しているじゃないか。ここにはCDプレーヤーがあるんだろう?ならば、そのCDを最後に聴かせてくれないか?まさか、あんなところで手に入れた音楽が自分の最後に聴く曲になるとは思わなかったが・・・。いや、それに関しては後悔はないよ。だが・・・ああ、早く掛けてくれ。意識が朦朧としてきたんだ・・・」
もし、死の直前に何か音楽を聴くとしたら、もしかしたら僕はこの曲のこの演奏を最も望むかも知れない。フリッチャイという指揮者は不思議な指揮者で、僕は殆どこの人が指揮をした演奏をもっていないのだが、持っている二つ(もう一つはやはりベルリンRIASを振ってコルトーの弾くシューマンの協奏曲の伴奏をした物)はいずれも記憶に強く残る物である。
その二つとも、どちらもどこか神がかった「敬虔さ」を感じさせる演奏だ。シューマンの協奏曲に関してはこのエッセイでも書いているのだが、コルトーとフリッチャイがミューズを降臨させているような演奏であった。そしてこのモーツアルト。このミサの素晴らしさはどこにも虚飾が感じられないまま全てが自然に美しく流れきることである。出だしの弦、それに続く合唱、それらが醸し出す率直さ、敬虔さ、その全てが最後まで貫かれる。
逆にこの演奏を聴くと、他の指揮者の演奏する「モーツアルトのc-mollのミサ」やフリッチャイの演奏する他の曲を聴くのが躊躇われてしまうのだ。その邂逅を調べようとすれば奇跡が壊れてしまうのではないか、というように。
それほどまでにこの演奏は素晴らしいと僕は思っている。
*WOLFGANG AMADEUS MOZART
Grosse Messe c-moll KV427(417a)
Maria Stader, Sopran 1
Hertha Topper, Sopran 2
Ernst Haefliger, Tenor
Ivan Sardi, Bass
Maurerische Trauermusik KV477
Radio-Symphonie-Orchester Berlin FERENC FRICSAY
Deutsche Grammphon 429 161-2
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