第26話  「美しい水車小屋の娘」 フリッツ ブンダーリッヒ(テノール)

 何度かこの随筆にも書いているように、僕はオペラを含め余り声楽曲を聴かない人である。だが、そんな僕でも僅かに、これは、と思う声楽家が二人いる。その一人がフリッツ ブンダーリッヒで、もう一人はハンス ホッター、いずれもだいぶ昔に亡くなった人であるが、ブンダーリッヒ(1930生)についていえば僅か36歳の時、事故で亡くなったわけで、もう少し長く生きていても何の不思議もない。

 早すぎる死もあってこの人の録音はさほど多くは無く、僕はこのシューベルトの歌曲集とクレンペラーが指揮した「大地の歌」くらいしか持っていないのだが、この二つを聴いただけでもこの稀代のテナーの才能というのは直ちに理解できた。その歌声を一度でも聞けば、恐らくは殆どの人が異論を唱えないだろうと僕は信じている。

 どう言えば良いのだろう、まるで話しているように自然に出てくる歌声。だがその声の響きの幅の大きさと深さ・・。

 僕が声楽曲が苦手な理由の一つに、「無理に出した声」を感じるというのがある。それは「高さ」「長さ」「大きさ」或いは「低さ」「息継ぎ」様々な要素があるのだが、人の声は楽器に比べても「無理な音」即ち「苦しみ」を感じさせる要素が多いような気がする。

 また作曲家というのはどうしても限界を超える音を願う物である。ピアノならばあり得ない大きな手、人間業とは思えない腕の俊敏さ、指の動きによって今までに無い、音やリズム、表現を構成していく部分がどうしても出てくる。それを作曲家は希求するのだ。

 しかし・・・例えれば、ポリーニの持つ大きな手がショパンやリストの難曲を軽々と制圧できるように、ブンダーリッヒの歌声はシューベルトの「美しい水車小屋の娘」を楽々と制している。その「楽々さ」がバックグラウンドにあってこその絶妙な表現、感情の抑圧と放出、そうしたものが聴き手に直に届いてくるのだ。それはマーラーの「大地の歌」でも明確に感じ取ることが出来ものであったが、ピアノのみと対峙する歌曲集では一層明確になる。

 破綻の「遙か手前に在る声」は高さ・低さ・強さ・弱さ、あらゆる要素を自在にコントロールしたままシューベルトの全てを届けてくれる。こんな高いレベルの演奏を超えるものが果たして、いつか出てくるのか、僕には分からない。

 今聞こえている第8曲Morgengruss(朝のおはよう)の澄み切った歌声。こんな美しい朝の挨拶はないだろう。wunderというのは驚きとか奇跡とかいう意味を持つ言葉で、ミュンヘンあたりでは素晴らしいというのはwunderbarと良く言っていたが、そのwunderを名前に持っているのがまさにこの歌手なのだ。

 そしてそれはハンス ホッターのあの決して流麗ではないが説得力のある苦悩に満ちた声(それは技術的な苦しみではない)と正反対の地点にありながら同じレベルの芸術的高みに人を誘うものである。

 録音がやや異なる(他の曲の1年前に収録されたようだが、それよりもちょっと古めかしく聞こえる)が、「鱒」の堂々とした歌声は、弦楽四重奏曲まで含めて最も素晴らしい「鱒」でもある。


 ブンダーリッヒというこの稀代の歌手は、残念ながら「美しい水車小屋の娘」を録音した僅か2ヶ月後、友人の別荘で誤って階段から転落し、頭蓋骨を骨折して亡くなった。ハスキルもブリュッセルで階段から落ちて亡くなったがなんとも呪わしい話である。

 彼がもう少し長生きしていれば、やはり「冬の旅」も「白鳥の歌」も歌ったのであろうが、この三つの歌集では「美しい水車小屋の娘」こそが彼に最もあった歌集であると僕は思う。その意味では彼がこの歌集を優先したことに感謝したい。



*FRANZ SCHUBERT

Die Schone Mullerin D795

3 Lieder Das Forelle D550 / Fruhlingglaube D686 / Heidnrosien D257


FRITZ WUNDERLICH, Tenor HIBERT GIESEN, Piano

Deutsche Grammophon 423 956-2

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