第24話 オットークレンペラーの演奏II(ロマン派)

<ロマン派概観>

 ベートーベンやモーツアルトに比較し、ロマン派の作曲家(ブラームス*とマーラーを除いて)は、クレンペラーにとって単なる「レパートリー」の一部でしかない、と言えば失言かもしれない。だが、実際に彼の頭の中では、明瞭ではないにしろそういう扱いであったのではないか。「そういう扱い」であったというのと、その演奏が優れているという「一見、背反しそうな事実が両立しているだけ」、であるのではないかと、密かに僕は考えている。(ブラームスをロマン派に分類すると一部の人から批判される可能性もあるし、ベートーベンの後継という視点からは古典派の最後と考える向きもあることは承知の上でロマン派に分類させていただく)

 クレンペラーは自らの恩師とも言えるマーラーの交響曲に関しては明確に好き嫌いを示すことで「感情」を示したが、他のロマン派に関してはそういう事さえなく、僕らはレコーディングの選曲によってのみ「彼の評価」を知ることになる。

 「ロマン派全集」及び「ブラームス全集」と題された、フィルハーモニア管弦楽団を振った正規録音において交響曲全曲を録音したのは「ブラームス」「シューマン」の二人、シューベルトは5番、8番、9番(と呼ぶのが正しいのか議論はあるので、変ロ長調D485、ロ短調D759、ハ長調D944) の3曲、メンデルスゾーンは(交響曲ではないが)「真夏の夜の夢」序曲「フィンガルの洞窟」に加えて「スコティッシュ」と「イタリアン」の二つの地名交響曲、ロシア・東欧ではチャイコフスキーの4,5,6の3曲とドボルザークの「新世界」それに、フランス代表としてベルリオーズの「幻想」とフランクのハ短調。それと交響曲ではないが、ウェーバー、ヨハン シュトラウスの小品が録音されている

 こう記していくと、いわゆる「代表的な名曲を一通り揃えました」的な感じである事は否めない。ブラームスやマーラーに次いで関心が高いのは(序曲などを含めて相当数を演奏している)シューマンというところであろうか。

 クレンペラーという指揮者は第二次世界大戦をユダヤ人(ドイツ系)の一人として、アメリカに渡りワルターやメニューインなどと同じくナチスによる迫害を遁れつつ生きてきたに違いないのだが、そうした背景はレコーディングの選曲に影響を与えていない。

 ワーグナーやR.シュトラウス、どちらかというとナチス寄りと目される作曲家(フランクも含め)の曲も、メンデルスゾーンのようなユダヤ系の作曲家の音楽も無関係にレパートリーとしている。これはクーレンカンプがナチスからの圧力にも拘わらず、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の演奏を強行したのと裏返しで、純粋に「音楽」としての評価を演奏家が行ったという「厳然とした事実」として理解すべきことだ。ナチスに対する忌避きひに関しては政治的見地は共有すべきだが、その周辺事項に関する考え方はさまざまであり、いちいちとがめ立てをするような事ではない。

 ただ、ユダヤ人であるという理由を主にしてメンデルスゾーンを排斥しようとしたワグナー一派の試み(これはナチスそのものではなく市民、あるいは作曲家としてのワグナーの行為である)は良心的な演奏家によって水泡に帰したといえよう。これは喜ばしいことである。ワグナーという人はヒトラーが好んだという点については免罪されるべきであるが、彼自身のユダヤ人に対する態度やメンデルスゾーンの排斥に見られるような傲慢ごうまんさ、不遜さに関しては話は別である。

 ワグナーという人物は音楽性にもビジネスに対する嗅覚にも富んでいるが人間性には問題がある人物で、それはメンデルスゾーンだけではなくブルックナーに対する扱いの逸話(色々と説はあり、暫くはブルックナーはワーグナー派であったがワーグナーはある程度才能を認めていたものの本質的には「田舎者」と思っていた節がある)、抱えていた様々なコンプレックスやそれに基づく他人への邪推などに事欠かない。

 だが僕らはメンデルスゾーンもまた、ワーグナーもその音楽に於いて愛することができる。それが芸術という物の本質でもあり、矛盾でもある。


 さて、本題に戻ろう。ロマン派に関してはCDに記載された番号の順で聞いてみる。まずはシューベルト、ついでメンデルスゾーンから始めよう。更に独立して纏められたマーラーの全集と非正規録音、及びブルックナーの第6番について触れてみたい。


<<シューベルト>>

 「未完成」「グレート」と5番(D485)の3曲が演奏されている。比較的有名なこの3曲のみの選択で、もう一つのハ長調(D589)や3番の録音も残されていないところから見ると、クレンペラーのシューベルトに対する愛着はさほどでないように思える。

 もっとも「未完成」と「グレート」とりわけ未完成に関してはこれ以外にも演奏会での録音が数種あり、ベートーベンやモーツアルトほどではないにしろ、好んで演奏した(ないしはそれだけ聴衆からの要望が高かった)というところであろうか。

 「未完成」というと、その調性も相俟あいまってどこかもの悲しさを感じさせる曲であり、昔のレコードでは何の脈絡もなくモーツアルトのト短調やベートーベンの「運命」とカップリングされたりしていたものだ。確かにそういう感覚をもたらす演奏も多く、例えばシューリヒトがウィーンフィルを振った演奏(これはカップリングはモーツアルトのハフナー交響曲であるけど)などはそうした演奏の一つで、(ややデッドでフラットな録音も相俟ってか)どこまでも物悲しい夕暮れのような風景の演奏であり、「これぞ名演」という人も多い。

 分らないではないのだけど、そうした評価は、「未完成」というタイトルやシューベルトの早すぎる死などをベースに「印象」から曲想を規定して、この曲のあるべき演奏を求めているように思えてならない。

 シューベルトというのは多面的な作曲家で、あの若さで交響曲、歌曲、ピアノ曲、室内楽の名作を「書き散らかした」音楽家であるからして、その一曲である「未完成」が「多面性の一つ」を表象しているとして「個別扱い」で解釈することも確かに可能であろう。

 一方で、シューリヒトのような解釈から離れ、「もの悲しさ」は取り払って、筋肉質でありながら優雅さも兼ね備えた(まるで美しいバレリーノを思わせる)カルロス クライバー(ウィーンフィル)のような演奏も、また可能である。クライバーという人は、ただでさえクラッシック音楽という世界に於いて、おりのように淀みかねない「陳腐な」解釈を一新させるタクトを振るという意味でとても印象的な音楽家であった。彼が3番と一緒に録音したのは、この交響曲の曲想が若々しく、長調でありながらもどこか「未完成」と同じ方向性をもつ曲だからこそ(比較的地味な扱いを不当にも受けている)であろう。この新鮮な組み合わせに拍手喝采した人も多いだろうし、僕もその一人だが、「未完成」の「あるべき姿」からのがれられない人からは、もしかしたら不評かもしれない。

 念のため他の演奏にも耳を傾けてみよう。アーノンクール(アムステルダムコンセルトヘボー)のようにテンポをゆっくり取って、音の強弱によってメリハリをつけるという手法も一つの工夫かもしれない。楽器の音を一つずつ明瞭に「出す」というのも演奏している4曲全部に共通して指揮者の拘りがかなり感じられる。ただ、個人的見解としては、ブラームスとかシューベルトはテンポをゆっくりにすると、どことなく気の抜けた演奏になりがちで、テンポの揺れ(とりわけ遅い方向)に強いブルックナーとは逆に、インテンポでたゆむことなく演奏した方が良いと考えている。

 その意味ではセル(クリーブランド)のシューベルトは気持ちが良い。8番と9番の2曲しか聴いていないが、両者には指揮者の共通した姿勢が感じられる。虚飾を極限まで排して、削ぎ落とした音の連続はスリムでしなやかなシューベルト。セルらしく、音のたわみはなく流れるように進んでいく。演奏スタイルとしてはどちらかというと8番の曲想に近い一貫性で9番を演奏しているために太い骨格を感じさせるというのではない。

 そして上記の演奏家のアプローチとは異なり5番、8番、9番を貫いてシューベルトを串刺しに「骨太に貫いていく」のがクレンペラーの演奏である。いや、それはシューベルトだけではなくベートーベンからブラームスに至るまでの一貫した音作りの一環と言えるだろう。だからそのシューベルトは「メランコリック」でもなければ「優雅」でもなく、流麗でもない。強靱で骨太なシューベルトである。

 他のジャンル、例えば歌曲とか室内楽とかピアノ曲の繊細さ、やロマンティシズムからすると、このアプローチは相応しくないのではないか、と云う人もいるだろう。しかしシューベルトの交響曲というのはクレンペラーのような演奏が妥当なのではないか、と僕は思っている。

 そもそも「未完成」という交響曲がシューベルトの頭の中で未完成だったかどうかも不明なわけであるし、もし彼がもう少し生き延びていたら、突然自宅の机の引き出しに残された譜面に「あっというまに」二楽章を付け加えて、意外と勇壮な交響曲に仕上げてしまっていたかもしれない。天才という物はそういうもので、凡百が何を言っても、その遙か上を苦もなく飛翔する者たちである。

 で、シューベルトという人をもう一度整理してみると、オーケストラや声、ピアノ、弦楽という区分を他の作曲家とは異なってカテゴライズしている。

 特にオーケストラとピアノの組み合わせはなく、そもそも協奏曲という概念が殆ど存在しない。ピアノの世界では遺作を含めて、パセティックな独自の世界を作り出し、声楽と小編成の室内楽では「明るさ」と「死」の二面をまるで宗教画のように描き出した。大編成の管弦楽では付随音楽や宗教楽曲ではそうした側面を残している。しかし交響曲には敢てそうしたものを持ち込んでいるように思えず、むしろシューベルトという作曲家がもつ「骨太で」「強靱」な部分が感じられる。

 とにかく「書き散らし」の名人であり(それこそが彼の才能の凄さの一部なのだろうけど、彼をわかりにくくさせている理由でもある)未だ謎の多い作曲家であるシューベルトは単なる「歌曲王」ではなく、あらゆる分野でその才能を発揮している「偉大な作曲家」なのだ。その交響曲を卑小な見方から定義する必然性はない。

 彼はオペラもかなりの数を作曲しており、時代もオペラ全盛の時代だった(ロマン派の音楽家たちにとってブルジョワに人気のあるオペラの成功は作曲家として必須であった)のだが、オペラに要求される外連味けれんみに欠ける性格であったらしく、今では殆ど演奏されない。今の時代は「オペラの時代」ではなく、それに代るさまざまな演劇、例えばミュージカルの時代になったので、彼のオペラが再評価される可能性は高くないだろう。僕自身も残念ながら聞いたことは無いし、将来的にも聞く事もないかもしれない。(個人的に余りオペラに食指が動かないという事もある)

 歌曲王と言われながらオペラでは目立った活躍がなく、かといって「オーケストラ」そのものの扱いの素晴らしさはシューマンやショパン・リストなどより遙かに上を行き、ブラームスに匹敵、或いはそれを凌駕するものを持っている。

 こうした作曲家として非常に複雑な性格の持ち主である、シューベルトという作曲家の本質は「未完成」にフォーカスをあてて展開していく演奏より、クレンペラーのような解釈の方が僕には腑に落ちる。フルトヴェングラーの9番は彼の1番の名演だと僕は評価しているが、クレンペラーの演奏はそれに次ぐ物ではないか。そして5番、8番を含めて評価するならクレンペラーの演奏はシューベルトの愛好家は是非耳にすべき、1番に耳にすべきものではなかろうか。


<<メンデルスゾーン>>

 メンデルスゾーンはユダヤ系の銀行員の家系に産まれた。当時のユダヤ系に対する風当たりは、僕らは想像でしか語れないが、もう少し時代を遡ってシェイクスピアの「ヴェニスの商人」を読めば、シャイロックという「ユダヤ系の金貸し」の姿にその評価の一端を垣間かいま見ることが出来る。

 もちろん、それだけがユダヤ人への普遍的な見方ではなかろうし、その当時の良識ある人々にとってならばユダヤ人を「民族」として一絡ひとからげに語る事の愚かさは承知していよう。だが、社会的偏見というのは往々にして、一部の過激な言葉に「なんとなく同調」する風潮というものに大きく左右される。ドレフュス事件のような事態があれば、社会は「ユダヤ人」という民族を切り取ってその窓から物事を見ようとし、その窓には「偏光(偏向)」というガラスがめ込まれているのだ。

 だからこそ、メンデルスゾーンの父親は彼にバルトルディという姓を名乗らせようとし、キリスト教に改宗もした。それでも尚、メンデルスゾーンの一家はいわれのない攻撃を浴び、メンデルスゾーン自身もワグナー一派から執拗におとしめられた。それは逆に並外れた「才能」が彼にあったからで、嫉妬が生み出した産物でもある。

 「出る杭」を打つという愚かな作業はヒトラーの死まで続くことになった。しかし、ユダヤ人を音楽の世界から排斥することはそもそも不可能である。そんなことをすれば、クラッシック音楽の世界は「半分」に縮小してしまう。クレンペラーもまたドイツ系のユダヤ人であり、ヒトラーの台頭によってアメリカに去ることのを余儀なくされた指揮者の一人であった。

 そのメンデルスゾーンの演奏は「フィンガルの洞窟」に始まり「スコットランド」「真夏の夜の夢」を経て「イタリア」の4曲を聞くことが出来る。その全てにおいて、クレンペラーの奏でる音色は他の作曲家のものとは異なる印象を与える。


 これらの曲には全て、ペーター・マークによる非常に優れた演奏があり、僕はLP時代からそれに馴染んでいたのだけど、クレンペラーの演奏はそれとは違った意味で名演である。(以前、ペーター・マークの「スコットランド」について書いた時と多少見解が変わっていることは容赦願いたい。実はその時点ではクレンペラーの演奏を集中して聴く以前の段階であり、その意味で生煮えのまま感想を記していた)

 マークという指揮者とクレンペラーという指揮者には殆ど共通点はない。性格的に問題があり、しばしば共演者ともめ事を起こし、後遺症からくる精神的な問題にも苦しめられた(あるいは周りを苦しめた)クレンペラーと、どちらかといえば温和で自ら修行を行うために音楽的活動を中断したペーター・マークの「精神の態様」の隔たりは大きいように思える。モーツアルトなどはどちらも頻繁に演奏しているが、メンデルスゾーンよりも更にかけ離れた演奏スタイルで、評価の分かれるところであろう。ただ、それは「どちらかが正しく、他方が間違っている」ということではない。

 一概にクレンペラーの演奏はベートーベンにしろ、モーツアルトにしろスタイルへの好みは分かれようが、実によく研究され検討された上で演奏されている。ブラームスやシューマン、マーラーに関しても変わらない。だが、メンデルスゾーンに限って言えばもの凄く情緒的な演奏(emotional)である。それも情緒を前面に出してこないのに、奥底でもの凄く情緒的なのだ。それは多分、クレンペラーの他の演奏を聴いてみないとなかなか理解できないのだろう。

 今風に云えばクレンペラーのベートーベンなどは「構文演奏」とも云えるのだが、メンデルスゾーンの演奏にはそうした要素が全くなく、まったき自然体なのである。ならばマークとも共通して居る点もありそうな物だがマークの演奏はむしろ抒情的(lyric)である。似たようであって、情緒的と抒情的の違いは実は甚だしい。しかしその二つの要素が何の問題もなく両立するのがメンデルスゾーンという作曲家である。

 抒情的というとどこか外面的で、悪く云うと薄っぺらい感じにもなりかねないのだけど、そもそもメンデルスゾーンの「イタリア」とか「スコットランド」という曲が本質的にもつ、抒情の要素、それはウィリアム ターナーの風景画とも通底する要素であり、マークはその本質的な部分を本能的に察知したかのように演奏しているのである。その抒情は彼がスイスに生れ、かつアンセルメのような理屈の世界(アンセルメは数学者だった)と無縁の世界(神学と哲学を学んでいるが数学のようには突き詰めない世界)に生きていたことでつちかわれたのに違いあるまい。彼の出生地であるザンクト・ガレンは一度訪れたことがあるが、アルプスに抱かれた自然豊かな街である。そういう風景に育った彼は、元来抒情性豊かな資質を持っていたのであろう。

 一方クレンペラーの演奏を情緒的と感じるのは、やはりユダヤ系という民族的な共感に起因するものなのだろう。構えることなく、それでいて溢れるような情感に溢れるメンデルスゾーンの演奏はクレンペラーの演奏の中でもっとも優しさに溢れ美しい演奏である。この二つの演奏を聞けば、メンデルスゾーンに関してはもはや他に必要ない、という気になるが、どちらの指揮者もこの二つの交響曲、「真夏の夜の夢」と「フィンガルの洞窟」を重ねるようにして演奏しているのはとても興味深い。


<<シューマン>>

 シューマンについては、4つの交響曲と共に、比較的演奏されることの少ない「ゲノフェーファ」(Op.81)序曲、「マンフレッド」(Op.115)序曲、「ゲーテのファウストからのシーン」(WoO.3)の3曲を録音している。

 シューマンという人の交響曲、というか管弦楽曲をそもそもどう評価するのか、というのは意外な事に日本の聴衆にとっての課題の一つだと思う。「春」にしろ、「ライン」にしろ恐らく耳にしたメロディは断片的に存在するのだろうけど、もし日本に於いて「交響曲ランキング」などというものがあったら、恐らくシューマンはかなり下、ベートーベンやブラームス、モーツアルトに比すべくもなく、マーラーやブルックナーにも差を付けられるに違いない。

 しかし、欧米ではシューマンの交響曲は比較的良く取り上げられる曲であり、レコードやCDも多く出ている。それも4曲全てが録音されるケースが多い。クレンペラーやセル、パレー、マズア、カラヤン、チェリビダッケやサバリッシュなど往年の名指揮者のみならず、セガンやカサドなど比較的新しい世代の指揮者たちも全曲録音している。

 日本での不人気についてシューマンという人のオーケストレーションに問題があるのではないか、という言い方が良くされるが、オーケストレーションが上手な作曲家の曲が全て名曲だというわけではない。何かとオーケストレーションの問題にするのは悪い癖であり(そういう批判が何となく格好良いとでも思ってしまうのだろうか、ショパンとかとりわけ器楽曲が素晴らしい作曲家は往々にして誹りを受けがちである)チャイコフスキーなどは逆にオーケストレーションが上手いばかりに交響曲なぞ、指揮者がよほど締めて掛らないとバレェ音楽と区別がつかなくなってしまうのである。

 確かにクレンペラーの演奏でシューマンの2番などを聞いていると、僕の耳にもなんという平板な、という思いがよぎる。今も「ライン」の4楽章の終わりを聞きながらどこか塩気の薄いErbsensuppe(エンドウ豆のスープ)を飲んでいるような気がしている。不思議なことにオーケストラがあってもピアノ協奏曲はちゃんと楽しめるし、ピアノ楽曲などは名曲揃いなのに・・・。

 だが、これは僕の音楽的センスの欠如を示しているに過ぎない。食事と同じように僕らは長い間培ってきた文化に対する「消化力」というものを固有に所持しているように思う。だからこそ日本人は、外人には消化できない「海苔」を美味しくいただいて消化することができる。それと逆に僕らは、少なくとも僕はシューマンの交響曲を美味しくいただく「消化力」ないしは「酵素」をちゃんと持っていないのだ。ブラームスの「大学祝典序曲」はきちんと消化できても「マンフレッド序曲」はうまく消化できない、」そうした基本的体質なのだ。

 しかしこれは畢竟ひっきょう、経験量の問題であり民族的遺伝に影響される「海苔の消化」とは違って個人として解決可能な問題ではないか、と僕は思う。

 変な譬えかも知れないが女性を見て初見で「きれいだなぁ」と思う女性もいれば、暫くしてからようやく「ああ、素敵だなぁ」と思う女性がいるのにも似ている。 シューマンの交響曲だって同じであり、様々な演奏で聞く事によりその美点が自ずと現われていくのだと思う。

 先だってNHKのクラッシック音楽番組で指揮者の原田慶太楼さんが「なぜ日本ではスクリャービンの曲が人気がないのか」と嘆いていたが、これも同じ範疇の問題かも知れない。いつまでたってもモーツアルトやバッハ、年末にはベートーベンというのではなくてスクリャービンやらメシアンやら、ニールセンを聞いてみましょう。シューマンの交響曲ももう少し演奏されるべきである。


 では・・・そうしたシューマンの演奏に「慣れる」ための演奏としてクレンペラーが相応ふさわしいかというと、実は・・・・まあ「そうでもない」。僕自身、シューマンの交響曲については様々な演奏を集めているわけではなく、クレンペラーの演奏以外にはクーベリックとセルのものしか持ち合わせておらず、「消化力」のなさを露呈しているのだが、敢て選ぶならセルの演奏がもっとも聞きやすい。おそらく「指揮者の味付け」がもっとも薄い演奏だからであろう。

 例えば「ライン」あたりをセルの演奏で聞きながら「消化力」をつけていくというような作業が「シューマンの交響曲」にはお勧めである。そうした作業を経た上でクレンペラーの演奏に徐々に耳を慣らす、その作業がまだ僕には必要なようだ。    

 最初は味気なかったErbsensuppe(エンドウ豆のスープ)だって8年後、ドイツを離れるころには味噌汁のように、懐かしい味になっていたのだもの。


<<ドボルザーク、ベルリオーズ、フランク、ウェーバー、ヨハンシュトラウス>>

 ロマン派と題された曲集の中で限定して言えば、ドボルザークとフランクの演奏はやや物足りなさを感じる、というのが僕の感想である。

 ドボルザークという作曲家は不思議な作曲家で、経済的理由からアメリカに渡った時代にもっとも有名でありかつ素晴らしい曲、つまり交響曲「新世界より」、弦楽四重奏曲「アメリカ」、そしてあのチェロ協奏曲をかき上げた。「スターバト マーテル」や交響曲の7番・8番 或いは二つのセレナードなどそれ以前に作曲したものに名曲がないとは言えない。そうした作曲があったからこそアメリカに渡ることが出来たのだとも言えるが、しかし演奏機会や録音の数から言っても先の三曲が圧倒する。チェコという故郷を愛したドボルザークがなぜ国を離れた時にもっとも素晴らしい音楽を書き上げたのか。彼自身が言っているようにNative AmericanやSpiritualesが影響を与えたことも否めないだろうが、彼にとってアメリカという国は化学的反応で云えば「触媒」或いは生物学的には「酵素」のようなものだったのだろう。東欧の文化はアメリカという新世界とぶつかり合うことによってドボルザークの中で花を開いた。

 そうした背景もあってか、ドボルザークの名演は東欧文化と「文化のずれ」がある所が融合した場所に存在する。例えばケルテス(ハンガリー人)がウィーンフィルを振った「新世界」やセル(やはりハンガリー人)がベルリンフィルを振り、フルニエ(フランス人)がチェロを弾いた協奏曲、また同じくセルがクリーブランドを振った8番や「新世界」・・・。

 本来なら「国民楽派」あるいは「チェコ国民音楽」というタイトルで括られるこの作曲家がintenationalな名声を得るのは実は強い「望郷の念」のよってであり、異国にいたからこそそれが「純化」されたのではないかと思われる。そうした背景を考えるとき、ブラームスの系統に属する作曲家という位置づけの演奏は、一つの解釈として存在しても、「強い共感をえるまでには至らない」感じがする。

 クレンペラーの演奏もその一つであり演奏の質に不満があるというわけではないが、ドボルザークをドボルザークと「成して」いるものの欠如がどこかに在るような気がするのだ。ブラームスとドボルザークの近しさや相似は屡々しばしば語られるし、ハンガリアン舞曲とスラブ舞曲のように曲の採集の方法も一見似ているが、根の部分にある違いが存在し、(逆に言えばブラームスとブルックナーは根の部分は共通しているのに枝の部分が余りに相違しているのかもしれない)それが演奏に影響してくるのかも知れない。クレンペラーが余りドボルザークを録音していないのはその根の部分が自身とそぐわないと考えたのかも知れない。

 ヨーロッパからアメリカに遁れたという共通した基盤は持つものの、やはり故郷に限りない愛着を持ち、そこへ常に回帰していく志向の強いドボルザークと、どこでも音楽を振れるなら生きていくことのできたクレンペラーの生き方には違いがあるのだろう。

 どういうわけかinternationalを目指したスメタナの方がアンチェル、ターリッヒ、ノイマン、クーベリックのようなチェコと縁の深い指揮者が振った名演が多いのにドボルザークを振る指揮者はもう少し幅が広い。クレンペラーがドボルザークを振っているのにスメタナは振っていないのもそうした微妙な差があってかも・・・、そういう事を思いながら聞くのも一つの醍醐味かも知れない。

 フランクについては評価が分かれるところであろう。演奏に構成力より精妙さを要求することがこの曲の特質でもあり、クレンペラーの演奏はその中間的な立ち位置に存在している。この曲とベルリオーズの「幻想交響曲」の演奏を聴き比べたとき、後者の方がクレンペラーの特質に合致していると思われるのは、クレンペラーの曲の構成に対する理解力という長所が、後者の方により発揮されるためではないか。

 フランクに関しては、異論も承知の上で、カラヤンのような演奏の方が似合っているかも、と思っている。カラヤンとパリ管はチャイコフスキーのピアノ協奏曲(ワイセンベルク)は余り感心できないが、フランクのような精妙さを要求する曲では逆に長所が出てくる。装った狂気と転調の嵐。一見、堅固な構築は修飾に満ちた教会のファサードのように威圧的でもある。だが、僕らはその装飾一つ一つを愛でる必要があるのだ。その意識がカラヤンの指先に宿っている。

 パリ管がフランスのオーケストラであることも微妙にアドバンテージに作用しているのかも知れない。とはいえ、この曲に何を聴衆が要求するかによって、演奏の評価は異なるわけで、クレンペラーの演奏に感じられる多少の「破」が良い景色を生むと見ることもこれは可能なのである。演奏の質はもちろん極めて高い。うねる波に翻弄される小舟の中に投げ込まれ、波飛沫に叩かれ続けられているような気がする、とでもいえば良いだろうか。

 「幻想」にはミュンシュなどの名演はあるが、クレンペラーの演奏はそれらを上回る構築力の高い名演である。ベルリオーズ自身は多作の作曲家ではなく、採り上げられる曲も「幻想交響曲」を含め「イタリアのハロルド」「ロミオとジュリエット」「ローマの謝肉祭」と幾つかの宗教音楽しかない。それにも関わらずこの「幻想交響曲」こそがフランス音楽における交響曲の金字塔であることは疑いない。

 その設定から「ドラマ」を前提とした付随音楽のような側面もあり、非社会的なテーマの標題音楽でもあるが、音楽としての力は非常に強く、クレンペラーもがっちりと受け止めた上で演奏している。冒頭の不安げな序奏、やがて迸る煌めきのようなリズム、浮ついた思考、微熱を帯びた精神の衰えと震え、混沌。正常な精神が演奏すれば、異常に聞こえる音楽は、「異常さにシンクロされた作曲家と指揮者」によってむしろ明確な構造を呈する。僕はとりわけ第二楽章、ハープの奏でるメロディにオーケストラが合せてくbalの部分が好きで、決してバレー音楽を演奏しなかったクレンペラーが異常なまでに細心にここを演奏しているのを聞く度に鳥肌が立つ。どこかその美しさに狂気を感じてしまうからだろう。

 こうした演奏を聴くとこの交響曲がフランスの「お国もの」ではなくmondialな音楽であるという事がひしひしと感じられる。ベートーベンの演奏と並ぶクレンペラーにとって会心の演奏の一つではないか。

 ウエーバーの「魔弾の射手」「オベロン」やリヒャルトシュトラウスの「こうもり」「ウィーン気質」「皇帝円舞曲」などを集めた1枚には謹厳実直(本質的にはそういうタイプの人間である)な指揮者がほどよくリラックスした時の「思いがけない楽しさ」が溢れ出ていて楽しい。

 クナッパーツブッシュとかもヴィエナーワルツを演奏する時に、大真面目に演奏しながらも、どこか楽しげで、本職のボスコフスキーなどとはまた違った味を感じたものだ。クレンペラーもちょっとタイプは異なるけど、やはり実に楽しげな演奏をしていて是非聴いて貰いたい演奏であり、軽音楽などと馬鹿にしたものではない。


<<チャイコフスキー>>

 ロマン派を集めたCD集について、最後にチャイコフスキーについて触れよう。チャイコフスキーという作曲家をどう評価するのかというのは、クラッシック音楽の愛好家にとって意外と難問のような気がする。

 メロディとかオーケストレーションとか、様々な意味でチャイコフスキーとか、少し色は異なるがワーグナーとかは「人を惹き付けてやまない」媚薬のようなものを持っていて、その魅力に抗うのはほぼ不可能なのである。一方で、卑俗である(これはクラッシック音楽の愛好家にとって評価の非常に低くなるtermであって、概してクラッシック音楽の愛好家という物は「高尚」であることに大変重きを置く)という評価も付き纏うチャイコフスキーあたりは「クラッシック音楽」というジャンルにおいてどこかアンビバレントな存在の作曲家であり、ラモーとかマレとかギボンズとか、逆にノーノとか、そういう「人の余りしらないところに精通し、語りたがる人々」にとっては「周辺諸国」扱いになりかねない。だが、こういうことはハードロックとかでも起こりうる現象で、「実は高尚とかそういうのと無関係に」「趣味人」の陥りやすい罠の世界のできごとでしかない。

 まあ・・・チャイコフスキーと云うと確かに何を聞いても「白鳥の湖」の一部じゃないか?的なメロディの巧みさが却って仇になり、演奏によっては「交響曲的ではないなぁ」という感想はもってしまうことになりかねない。従ってこの作曲家の交響曲に関しては、「交響曲的」存在であり続けるためには。カラヤンとかムーティの指揮では困る(逆に言えば弦楽セレナーデとか1812年とかバレー音楽ではカラヤンなどは絶品である)という意見を持っても(実際僕はそうである)致し方あるまい。

 その意味でのお勧めは、ムラヴィンスキー、クレンペラー、セルの「強面」三大指揮者。とりわけムラヴィンスキー(グラモフォン盤)は個人的には「これがあれば他はいいんじゃない?}というほどの名演奏だとは思うけど、クレンペラーの演奏も引けを取らない存在である。

 他にもミトロプーロスがニューヨークフィルを指揮した「悲愴」やチェリビダッケがロンドンを振った「4番」などが名演の一角を形成していて、それぞれが選んだ「曲」の選定も合せて感慨深い。逆に滅多にチャイコフスキーを演奏しないウィーンフィルはかつてはジャンマルティンとロリン マゼールの演奏しかなかったのだけど(どちらも持っているのだけど)やはり相性は余り良くない。 クナッパーツブッシュが指揮した「くるみ割り人形」などは名演と思うのだけど、ウィーンとチャイコフスキーの相性は必ずしも良くなさそうである。そう言う意味ではある意味、フィルハーモニア管弦楽団のような新しく、バイアスのない楽団の方がチャイコフスキーの音楽的価値を引き出してくれるのかもしれない。

 クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団の最大の特色はムラヴィンスキーに見られるロシア的なclimate(単に気候ではなく、民族や文化に根付く様々な雰囲気)に起因する凄絶さと少し距離を置いてそうした要素をベートーベンなどと同様にムジークに還元した形式で聴衆に伝えようとする姿勢ではないかと思う。

 クレンペラーはほぼ、バレー音楽というものを録音しておらず、チャイコフスキーに関しても交響曲以外は(協奏曲を含めて)録音をしていない(と思う)。それをどのように見るか、というのは「チャイコフスキーをさして評価していない」とも「4-6番に関してはドイツ系の作曲家、例えばベートーベンと同列とまで評価している」ともとれる。僕は後者だと考えており、ドイツものではないこうしたシンフォニー、つまりチャイコフスキー、ドボルザーク、フランク、ベルリオーズの選ばれた曲のみがクレンペラーの「お目にかなった」交響曲であったのではないかと思う。なんせ、プーランクのピアノ協奏曲を指揮したときに、演奏家でもあった本人の前で

「どうですか」

と訊ねられた際に、

「フランス語でシャイゼ(くそ)、ってなんて言うんだ?」

と言い切った男である。なかなか眼鏡にかなう音楽はなかった人であろう。

 ちなみにフランス人だって「シャイゼ」が何を意味するかぐらいはしっている、と僕は思うのだけど・・・大丈夫だったのだろうか。誰かmerdeとか putainですぜ、と余計な親切をしていないと良いが。


<<ブルックナー>>

 ブルックナーの音楽は「厚い皮で出来た袋」のような音楽であり、どこか茫洋として、テクスチャーもざらざらとしているのだが、何度か聞き返している内に「味」がでてくる、という不思議な曲が多い。

 「厚い皮でできた音楽」というのは僕の感想で、言わんとしているのは「自在に伸び縮みができる」風合いである。厚い牛革や豚革でできた鞄がちょっと引っ張ったくらいではぜんぜん伸びないのだけど、ものをぎゅうぎゅう詰めていっても何となく入ってしまう感じ。例えばブラームスとかシューベルトの音楽というのは「ゆっくり演奏すると間延び」するのだけどブルックナーに関してはゆっくり演奏しても「間延び」するという事がない。ドイツにはLangsam(ゆっくり)という単語があるのだけど、ブルックナーの曲にはどこまでもLangsamという指定がついているかのような印象があり、その感覚がクナッパーツブッシュとかチェリビダッケの演奏を際立たせているような気がする。

 もっとも当初はそんな感覚がわからないので、「非常に退屈」な音楽だと思う人も多いわけで、むしろ最初の内はカラヤンのような演奏から入った方が分りやすいかもしれない。実際僕は7番を最初に聴いたのはカラヤンである意味非常に「わかりやすく解説してくれる演奏」であった。

 クナッパーツブッシュのような演奏を聞くと初心者は「地図のない場所を歩いているような感覚」に陥るのだけど、カラヤンなどはちゃんと目印があるような気にさせてくれるのだ。クレンペラーの演奏は、僕は6番しかもっていないのだけど、カラヤンと違った意味で「聞きやすい」演奏である。クレンペラーの演奏はカラヤンとは少し異なり「曲の構造」を顕わにするタイプの演奏で、別の譬えをすると「大海の波の曲線や飛沫が見えてくる絵」のような演奏である。

 「ああ、だからこういうメロディが続いて、なるほどここで波が合さって強奏だよねぇ」というような流れと構造が見えてくる。その意味でとても重宝していて、時折胃もたれするブルックナーはクレンペラーがきちんと癒やしてくれるのだ。

 どういうわけだか、ブルックナーに関してはワーナー(外盤)から全集が出ていない。探しても見つからないので残念である。もっともブルックナーは既に棚にクレンペラーやチェリビダッケ、ベーム、シューリヒト、ワルターなどなど錚々たる指揮者の演奏が山積みではあるのだけど、しかし6番の演奏を聴く限り新たな発見をクレンペラーは齎してくれている。


<マーラー>

 マーラーはロマン派の一部、「世紀末のロマン派」とカテゴライズされる。しかし、ウェーバーのあたりから始めて、マーラーまで一括ひとくくりにしてしまうと、さすがに定義が広すぎて、カテゴリーとしての意味がなくなるという懸念があるのではないかと僕は考えている。さもないと、クラッシック音楽は「バッハを含むバロック」「モーツアルト」「ベートーベン」「ロマン派」「ドビュッシー以降の現代音楽」くらいに分類されて殆どの既知の作曲家が「ロマン派」に分類されてしまうことになりかねない。

 とりわけ、クレンペラーを語るとき、マーラーはそれ以外の「ロマン派」の一人として語るのは抵抗がある。クレンペラーにとってマーラーは自らを「舞台」へ引き上げてくれた決定的な「恩師」であり、例えばシューマンと「同列」に論じるには作曲家との「距離が近すぎる」のではないか。

 まあそれは置いておくとして、クレンペラーは恩師にも容赦はない。彼が録音したのは2番、4番、7番、9番、そして「大地の歌」の5曲。「巨人」というタイトルで有名な1番や傑作とされている(傑作である)5番は全くというほど演奏せず、逆に8番は演奏を望んだがその「スケール」のために、晩年の自らの体調もあって断念せざるをえなかった。

 クレンペラーとマーラーの関係についてはワーナーから出ている全集にRichard Osbone氏が興味のある文章を書いている。

 掻い摘まんで一部を紹介すると出会いはマーラーがハンブルク オペラの首席指揮者であった頃である。子供であったクレンペラーが学校へ行く途中にあった「立派な頭をもっているがかなり足を引きずってあるく小さなおじさんを見た」のだが、それがマーラーであった。その作曲者の曲を彼が初めて聴いたのはベルリン(おそらくベルリンフィルの演奏であろう)で、あの幻の名指揮者と言われるアルトゥール ニキシュの演奏による「5番」だったらしい。その演奏(曲)に「とってもがっかりした」事に、クレンペラーが「5番」を演奏しなかった根深い理由があるのだろう。また生涯に1番はただ1度だけしか演奏しなかったが、その理由は終楽章がbombastic(中身の割には大仰な)という理由であるそうだ。

 マーラーから頂戴した「私、グスタフ マーラーはオットー クレンペラー氏がその若さに拘わらず卓越した音楽家であり、経験を既に有しているだけではなく、指揮者としての今後の経歴を運命として持っている方として推薦する物である」で始まる「紹介状」を生涯離すことはなかったという感謝の念と、音楽に対する一徹した考えは彼の中で同居しているらしい。その徹底ぶりには頭が下がる。さして難しい英文でもないので興味がある方は是非読んでみると面白い。


 それにしてもマーラーの曲の中で選りに選って、2番、7番、9番というのは長大、難解でとっつきにくい選択肢である。ついては比較的短く、また聴きやすくもある4番と「大地の歌」から聞いてみよう。

 4番はクレンペラーが演奏した交響曲の中では世俗性の高い曲で、アルプスの牧場で聞こえてくるような笛と鈴の掛け合いで牧歌的に始まる。曲想としてはクレンペラーが好みそうな感じではないのだけど、ハンブルクでデビューしたのが、この曲だという経緯もあってか彼は頻繁にこの曲を演奏をしたらしい。曲の細部に拘るより、基本的な構成・構造を重視するタイプの指揮者としては逆にこうした曲は「得意ではない」のでは、と思うのだが、僕でも彼によるこの曲の演奏は二種類(1961年:フィルハーモニア管弦楽団 ソプラノ:シュワルツコップ/1956年:バイエルン放送交響楽団 ソプラノ:リンダーマイヤー ライブ録音)持っている。聞けば他にも幾つかの演奏が残っているらしい。

 僕の所有になる二つについていえば、どちらの演奏もクレンペラー自身のアプローチは余り変わらない。またバイエルンのものは1956年の演奏だが、モノラルとは思えないほどの上々の録音である。ただ1楽章で管楽器が音を外したりするので気になる人はスタジオ録音の方がいい。クレンペラー自身が「ペテン」と呼んでいた切り貼修正はスタジオ録音でしかできないのだから。

 ひるがえってみると僕がこの曲を最初に聴いたのはセル-クリーブランドで、クレンペラーとややタイプは違うが「ザッハリッヒ」的な側面は共通性のある演奏であった。逆に言えばワルター的な演奏と対極にあるスタイルである。

 クレンペラーはマーラーという作曲家を通してワルターとかなり「強い」対立をもっていた。有名な話は英国BBCの番組で、彼はワルターについて聞かれた時に「彼は好い指揮者なんだけど」と言った後、続けて「ワルターはモラリストであり、僕はイモラリストだからね」と述べた。この発言に関しては様々な解釈があるのだけれど、単純に言えば「ワルターの解釈は抒情的で断片的だけど、僕はそうじゃないし、そうじゃないことに誇りを持っているんだ(モラリストはこの場合、道徳家という意味ではない)」という趣旨であろう。(Richard Osboneによればこの発言は「マーラーの音楽の裏にある精神的ないしは心理的な逃げ場に対して僕(クレンペラー)はワルターほど関心をもっていない」という主張とされている。これはクレンペラーがR.シュトラウスとの会話で、シュトラウスがマーラーの「救済」を執拗に求める姿勢を批判したという話を踏まえた上での解釈であろう)それにしても、この言い方はワルターを認めるなら「僕を認めなくてもいいよ」というかなり挑戦的なものいいである。どうもワルターの方はそれに気づいていなかった節はあるのだけど。

 クレンペラーはマーラーが生涯抱えていた精神的な不安定さを理解しており、またワルターがそれに寄り添う形でマーラーの曲を解釈している事を理解した上で、「それじゃだめなんだ」と強く主張しているのだと思う。そうした苛立ちはワルターを通してマーラー自身に向けられている。先ほど「マーラーという作曲家を通してワルターとかなり『強い』対立」と書いたが、実際の所は「ワルターのような形で解釈していったらマーラーは決して音楽界で重要なポジションを得られない、辺境の音楽になってしまう」という危機感ではないか。マーラーという作曲家はクレンペラーにとって、それだけの「大作曲家」であり、その「弱みにぬけぬけとつけこむ」ことは絶対に許されない行為であったのだろう。

 もちろん、弱い方のマーラーに惹き付けられる聴衆も多い。とりわけ日本では、かつてマーラー即、ワルターという流れが主流であったが、それはちょっと偏っていると僕も思う。「大地の歌」のところでもう少し深掘りをするとして、この4番に関して言えば、感傷的にならない演奏が好ましい、とだけ言っておこう。

 フィルハーモニア管弦楽団との演奏で特筆すべきは独唱をエリザベート シュワルツコップが担当していることで、彼女の伸びやかな歌声は本来クレンペラーと相性が合わないように思うが、この演奏に関しては良い方に作用している。バイエルン放送交響楽団とのリンダーマイヤーの歌も上出来なのだが、同じソプラノでもシュワルツコップの方が少し声が明るく、軽やかだけに天上の響きに相応しい音色だ。


 「大地の歌」は様々な演奏があるが、日本ではブルーノ ワルターが振った演奏が最も人口に膾炙しているといっていい。ワルターは何度かこの曲を指揮しているが、脂ののりきった時期のウィーンフィルとの演奏をベストとする人も多い。僕もレコードの時代にこの演奏を購入した。カスリーン・フェリアーの歌声は傾聴に値するし、テノールも悪くない。ワルターはこの曲の初演者であり、マーラーとの師弟関係もこの曲の解釈の正統性を裏付けているのであろう。だが、全く別のアプローチを見せるクレンペラーの演奏は決して引けを取らない。一楽章の冒頭から両者が全く違っているとは思えないが、1楽章、テノールの声と共に両者は乖離していく。片方は更に深い山へと向かい、片方は豊饒な台地へと歩き始める。二つの演奏を聞き比べながら、僕は近くの寺の掲示板に貼ってあった「お言葉」を思い浮かべた。曰く

「甘さは毒、苦さは薬」

 この言葉に照らせば、ワルターの演奏は甘さ、クレンペラーの演奏は苦さであろう。ならば、クレンペラーの演奏の方が正しいのか、と言えばそうではない。

 そもそもこうした言葉は実はある条件下での警鐘であり時代の反映であって、裏返せばどの時代・場所にも共通する言葉ではない。もしも僕らが飢えの時代に生きているなら、甘さこそは薬で、苦さは死へのpreludeなのだ。僕らが救済を求めている荒廃の精神ならばワルターの甘さを、僕らが規律に殉じる覚悟があるならクレンペラーの苦さを、ということに過ぎない。全ては相対的であり、状況や時代や精神の有り様に縛られている。だからこそ、人によってこの二つの演奏の見方は変わってくる。それで構わないのだ。

 僕はクレンペラーの演奏を好みながら、ワルターを否定しない。変な譬えかも知れないが、お好み焼きを頼みつつ、アイスクリームを食べる人を否定しても仕方ないであろう。

 そうした見方の違いを踏まえた上で、僕はクレンペラーの演奏を支持している。その上、何せ共演者がWunderlichである。この伸びやかで説得力のあるテノール(声楽を余り好まない僕としては個人的には唯一テノール歌手として素晴らしいと思う)と、抑制的なクリスタ・ルートヴィヒのメゾソプラノの組み合わせはクレンペラーの指揮と共に正に中国の奥地、墨絵に描かれた深山幽谷を描く壮大な演奏なのだ。それは、ワルターの描くもう少し年代の古い、削れて丸みを帯びた山々と異なる風景を見せてくれると僕は思っている。


 「復活」と題された第2番の交響曲は複雑な経緯をもって生れた交響曲で、僕に取って、イメージが一定しない曲である。

 そもそもこの曲は「葬礼」という題を付した第1楽章が交響詩として作られたが演奏も出版も叶わなかった。それにもかかわらず、その後マーラーは第4楽章まで完成させる。しかし、初演の形式は声楽の入らない第3楽章まで、その後「復活」というタイトルの源となった「汝よみがえれ」の詩を基に第5楽章が作曲される。しかも・・・その詩は第1楽章を交響詩として演奏・出版する事を堅く拒んだハンス・フォン・ビューローの葬式で読まれたものであり、まさに曲自体が「死」と「復活」をビューローという人物を媒介にして成立しているという不思議な成り立ちなのである。

 マーラーという作曲家は、自らの曲をコピペして回すというパターンを多用していて(作曲家では普通のことであるものの、マーラーの場合は極めて大規模である)その上この曲においては作曲している内にテーマが死から復活へと反転していく。更に途中で「子供の不思議な角笛」のテーマが混じってくる(4楽章)という複雑さが内在する。いわばぎ・・・そもそも最初のテーマである「葬礼」が途中で「復活」というのは余りに・・・と僕などは思うのだけど、ワルターもクレンペラーもこの曲の信奉者であるらしく、ワルターは初演の日を以て「彼は作曲家として最高の地位を得た」としているし、クレンペラーは演奏する事実でこの曲を評価しているのである。

 僕は寧ろ第5楽章を「単独」で成立させても良いのではかなどと勝手に思っており、壮大さは評価するもののその複雑さにちょっとついていけない曲のため、僕に取っては演奏を評価する事が難しい。(あくまでクレンペラー、バーンスタイン、シノーポリの演奏を聴いた限りに於いて)

 因みにこの演奏でも4番同様、シュワルツコップがソプラノを担当しているのだけど、シュワルツコップの魅力というのは時折見せる、彼女特有の明るい「華やかさ」にこそあり(それこそが、あの憂鬱なヴォルフの曲に艶やかな白い花を咲かせる)この曲ではその特長が出せていないような気がする。


 7番、9番は「復活」に劣らず長大な曲であるが、どちらも声楽パートがない。そもそも声楽パートのある交響曲というのが、ベートーベンの発明であるとしたなら、その恩恵を最も受けたのはマーラーであるに違いない。彼の交響曲のほぼ半数が声楽付で、他の作曲家に比べて断然割合が多い。

 声楽を伴う交響曲は一般的に「宗教的」な歌詞を選択しており、その意味ではオラトリオと純粋な器楽交響曲の中間に位置していると言えようが、逆にいえば、「交響曲」が本来、解釈を規定しない音楽であるのに作者自身がそれを「かなり厳密に規定する」性格を持つ。その意味でマーラーは「言葉」によって曲を語るタイプの作曲家なのだが、7番に関しては「言葉」のないままNachmusikというタイトルのみを与え更に印象を難解にしている。

 本来は交響曲的な性格を持つこうした曲が「歌詞がないことがわざわいしてわかりにくい」という不思議な現象であるが、その前の二曲は歌詞がないなりに分りやすい「感じ」があった。それに比べて・・・7番はという話である。

 とはいえ、この曲はメタへの移行でもポストモダンでもない。もしそうだとしたら8番と9番の説明がつかないのである。

 しかし曲のストーリーが分らないと往々にして聴き手は不安になり、やがて苛々したり退屈になり、終いには音楽家を罵倒することになる。既に世俗の地位を得ていたマーラーを罵倒する者はいなかった。そして、マーラー自身もこの曲について「余り自分自身の言葉で語っているようには」思えない。そんな「儀礼的な讃辞」を受けたとされる交響曲を作ったとき、マーラーは既に自らの曲を説明する必要もなく、わからん奴はそれでいい、と思ったのかもしれない。

 そしてまたクレンペラーもなぜこの曲を選択したのか、特段の説明はしていない。そんな事も含めて謎の多い「長い曲」となった7番はマーラーの中で決して人気のある曲ではなくわかりにくい曲でもある。

 だが、演奏時間としては最長を誇る(100分!)のこの演奏を僕は冗長とは思わない。例えば同じ7番でもベートーベンをニューフィルハーモニア管弦楽団と最後に演奏した盤は、どこか弛緩が感じられるときがあったのだが・・・。むしろ長さをして「この交響曲の長さを説明する」という不思議な感覚に陥っていくのである。

 なんというか、何かをこの曲は「観じている」曲と言う印象が極めて強いからだろう。

 例えば、アルプスの麓で、山を眺めている。視線を移せば牧人が羊を追って野を歩いて行く。日が燦々と照り、森には鴉やら鶫やらが騒いでいる。やがて夜の帳がおり、家に燈が点る。どこかで狼の遠吠えがする。

 日はまた昇る。農家の老人が鎌をもって収穫に出掛け、その老妻は家で洗濯物を干している。で、何か、というものではない。それが生きているという事ではあるまいか。ああ、教会の鐘が鳴っている。空に魂が漂い、天上へと運ばれていく。そんな景色を説明するまでもないとマーラーは言い、クレンペラーが頷く。そんな感じなのだ。

 とりわけ、終楽章、末尾部分の教会の伽藍がらんから溢れ出る光のような描き方はこれはなかなかクレンペラー以外の指揮者ができる技ではないので、この部分だけでも聞く価値はある。晩年のクレンペラーの全てはここにある。

この音楽は動かない。語りかけてくることもない。だから不人気なのだろうけど、そもそも音楽の側から語りかけてくると言う前提を外してみたとき、僕らはそこにそれまでと違った景色を見ることが出来る。

 アルプスでも富士でも、或いは名の知れぬ山や川でも、100分眺めることが出来ればこの音楽を理解できるだろう。10分で飽きてしまう人は理解できないだろうが、それはそれで良し、自然は理解して貰おうと考えていないし、それににた音楽があっても良い。だが10分しか理解できない人でも、この曲のこの演奏の、終わりの10分だけを聞いてください。もしかしたら、いずれ100分を耐えることができるかもしれない。


 それに比べれば9番は同じ長大な曲でも能動的に動いてくれる、おしゃべりな曲である。決してくだらないお喋りではない。だから、時折何を言っているのか分らないこともあるかもしれないが。でも7番と違って、そのお喋りを聞いているだけで心地よくなれる。同じ仏頂面で強面(まるでクレンペラーその人である)でも喋り掛けてくると親しみが湧くのは自然であろう。

 本来マーラーはブルックナーなどと違ってtalkativeな作曲家なので、同じ長大な曲を書いてもだいぶ親しみやすい。2番や7番はやや例外なのである。

 9番の交響曲は「死を意味する」(ベートーベンに始まり、一応ブルックナーあたりまで有名作曲家の交響曲はなぜか4曲とか9曲で終わるケースが多い)ことを恐れ、わざわざ「大地の歌」を番号なしにしたにも関わらず、結局この曲を9番として10番を書き終えずにマーラーはこの世を去ったのだが、そうしたジンクスを真面目に考えてしまうのは誠にマーラーらしく、彼のtalkativeで繊細、神経質な側面が良く分る。「大地の歌」を番号なしにしたのはソナタ形式を欠いていたから、などという説もあるが、こういう人はジンクスを重んじる余りわざとソナタ形式を外すこともやりかねないわけで、おそらくジンクスを重んじたのは間違いなかろうが、10番を完成させられぬまま、番号付ではジンクスのとりこになってしまったのは誠に気の毒である。

 「合唱付」でベートーベンが作ったジンクスは、マーラーが「合唱付」の大地の歌を交響曲から外した事により消え去り、ショスタコーヴィチは15番まで交響曲を作れた、のかもしれない。

 ま、そもそもこの形式を作ったハイドンは67歳で106曲、モーツアルトは35年の人生で41曲は作ったわけでそもそもそんなジンクスはないのであるが・・・。

 結局そのジンクスの掉尾を飾ることになったこの交響曲には、死を予感させるような不吉なものはない。どちらかと言えば7番や「大地の歌」の方が不穏である。第4楽章の終わりにはersterbendという指定があるが、これはあくまで指定であって曲の終わりは甘美な死を迎える「ごとき調子」ではあるけど不吉ではない。

 マーラーもそんな積もりで指定したわけではなかろう。クレンペラーの演奏はこの部分も7番と同じく、ごく美しいのでここだけでも聞いてみて欲しい。むしろ、7番も9番もこの最後を聞かせるために残りの部分がある、といっても良いくらいである。


*Felix Mendelssohn-Bartholody

Symphony No.3 in A minor, Op.56 "Scottish"

Symphony No.4 in A, Op.90 "Italian"

Philharmonia Orchestra

EMI CDM 7 63853 2

*Johann Strauss II

Die Fledermaus Overture

Franz Liszt

Piano Concerto No.1 in E flat, S.124

Annie Fischer piano

Felix Mendelssohn-Bartholody

Symphony No.3 in A minor, Op.56 "Scottish"

Symphony No.4 in A, Op.90 "Italian"

Philharmonia Orchestra

EMI CDM 7 64144 2

*ROMANTIC SYMPHONIES & OVERTURES

Franz Schubert

Symphony No.8 in B minor D 759 'Unfinished'

Symphony No.9 in C D 944 'Great'

Symphony No.5 in B flat D 485

Felix Mendelssohn

The Hebrides Overture Op.26 'Fingal's Cave'

Symphony No.3 in A minor Op.56

A Midsummer Night's Dream Incidental Music Op.61

Heather Harper(soprano) Janet Baker(mezzo-soprano)

Philharmonia Chorus

Symphony No.4 in A Op.90 'Italian'

Robert Schumann

Symphony No.1 in B flat Op.38 'Spring' *

Symphony No.2 in C Op.61 *

Symphony No.3 in E flat Op.97 'Rheinish'*

Symphony No.4 in D minor Op.120

Scenes from the 'Faust' WoO3*

Carl Maria von Weber

Der Freischutz J277

Euryanthe J291

Oberon J306

Robert Schumann

Genova Op.81*

Manfred Op.115*

Johann Strauss II

Dir Fledermaus-Overture

Wiener Blut - Waltz Op.354

Kaiserwalzer Op.437

Hector Berlioz

Symphonie fantastique Op.14

Cesar Franck

Symphony in D minor*

Anton Dvorak

Symphony No.9 in E minor Op.95 'From the New World'

Pyotor Ilyich Tchaikovsky

Symphony No.4 in F minor Op.36

Symphony No.6 in B minor Op.74

Symphony No.5 in E minor Op.64

Philharmonia Orchestra

New Philharmonia Orchestra(*)

  WARNER CLASSICS 50999 4 04309 2 8 (10CDs)

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*MAHLER SYMPHONIES 2,4,7&9 DAS LIED VON DER ERDE

Symphony No.2 in C minor 'Resurrection'

Elisabeth Schwarzkopf(soprano) Hilde Rossl-Majdan(mezzo-soprano)

Ralph Downes(organ)

Philharmonia Chorus master Wilhelm Pitz

Symphony No.4 in G

Elisabeth Schwarzkopf(soprano)

Lider (Ich bin der Welt abhanden gekommen/Um Mitternacht/Das irdische Leben/

Ich atmet' einen Duft/Wo die schonen Trompeten blasen)

Christa Ludwig(mezzo-soprano)

Symphony No.7*

Symphony No.9 in D*

Das Lied von der Erde(Bethge:Die chinesische Flote) partly*

Christa Ludwig(mezzo-soprano), Fritz Wunderlich(tenor)

Philharmonia Orchestra

New Philharmonia Orchestra(*)

  WARNER CLASSICS 50999 4 48398 2 2 (6CDs)


*ANTON BRUCKNER

Symphony No.6 (Ed/Robert Haas)

New Philharmonia Orchestra

EMI CDM 7 63351 2


*Gustav Mahler

Symphony No.4 in G Major

Das Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks

Elisabeth Lindermeier

MEMORIES MR2266

(Coupled with MR2267

Franz Joseph Haydon: Symphony No.101 in D Minor, "CLOCK"

same Orchestre

Wolfgang Amadeus Mozart: Symphony No.25 in G Minor K.183

Serenata Notturna in D Major for Orchestra K.239

RIAS-Symphony-Orchester)

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(参考)

「未完成」の比較対象

(レコード)

*シューベルト:交響曲第8番 ロ短調<未完成>

 カール・シューリヒト指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 (モーツアルト:交響曲第35番ニ長調、K385<ハフナー>)

 キングレコード ロンドン GT9026

(CD)


*FRANZ SCHUBERT

Symphonie Nr.8 h-moll D759 >>Unvollendete<<

(Symphonie Nr.3 D-dur D200)

Wiener Philharmoniker CARLOS LKEIBER

Deutsche Grammophon 415 601-2

*FRANZ SCHUBERT

Symphonie No.8 en si mineur D759 "Inachivee"

(Symphonie No.3 en re majeur D200)

(Symphonie No.5 en be-moll majeur D485)

(Symphonie No.9 en ut majeur "La Grande" D944)

NILOLAUS HARNONCOURT Royal Concertgebouw Orchestra

TELDEC 0630-11203-2

(このCDは外側には未完成をNo.8 ザグレートをNo.9としてあるのに中のリーフレットでは未完成はNo.7、ザグレートをNo.8とナンバリングしている。外側はフランス語表記、リーフレットは英語表記という不思議な組み合わせでもある。ここでの表記は外側の表記に準じた)

*FRANZ SCHUBERT

 SYMPHONY NO.8"Unfinished" B Minor

SYMPHONY NO.9"The Great" C Major

GEROGE SZELL CLEVELAND ORCHESTRA

CBS MK42415


「大地の歌」の比較対象

(レコード)

*マーラー 交響曲「大地の歌」

 ブルーノ・ワルター指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ユリウス・パツァーク<テノール> カスリーン・フェリアー<コントラルト>

  キング・レコード MZ5013

(CD)

*Mahler Das Lied von der Erde

Kathleen Ferrier (contralto) Julius Patzak(tenor)

BRUNO WALTER WIENER PHILHARMONIKER

DECCA 433 332-2


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