第23話 オットークレンペラーの演奏I(ベートーベン・ブラームス・モーツアルト)

 オットー クレンペラーが指揮する演奏が、僕にとって「沼」化したのはベートーベンの7番の演奏に関してこのエッセイに書いた時からである。(ご興味があれば第13話を参照ください)

そこではカルロス クライバーの演奏について書いたのだけれど、比較対象を幾つか聞いた結果、それに劣らぬ演奏としてクレンペラーのものを採り上げた。

 それまではクレンペラーは無骨ぶこつ、無愛想な、どちらかというととっつきにくい指揮者であり、7番もまた幾つかのメンデルスゾーンの曲もその性格に相応ふさわしい演奏スタイルであるとずっと思っていた。

 その基本的な感想は今でも変わらない。だが、改めて聴いて驚かされたのは1950年代から60年代の演奏に関わらず、古臭さが全く感じられないという事実であった。その後の指揮者による演奏、例えばカラヤンの一部の演奏などが時間の経過と共にどこか時代遅れの音をかなでることになったことを考えると、これは驚異的なことである。

 こうした「時代を超えた普遍性」というものが存在するという事実を後々のちのち認識させられるというのがクラシック音楽の醍醐味の一つである。「時代に左右されにくい芸術」というものの中にも不易流行ふえきりゅうこうというものがあるのだ、とつくづく思いしらされる。

 末尾(第24話に亘る)に所有しているアルバムを表示しているが、単純にEMIのレーベルで記載されている3枚がそれまで所有していたもので(僅か3枚)、それ以外はここ1-2年以内に購入したものである。こちらは合計54枚あるわけで、僕の「沼っぷり」が相当なものだと理解して頂けるだろう。

 これでもVOXレーベルで収録されたものはまだ集めていないし、EMIには他にも宗教音楽、ワーグナーやシュトラウス、ブルックナーの演奏も存在する。しかしそれまで集めたら・・・収納に支障がでてきそうな気がしている。家が狭いと、こう言うときに気持ちが萎縮いしゅくする。困ったものだ。


 クレンペラーに関してはその幾つかの逸話いつわを既に別のところで記した。その数々の奇行は多くのクラッシック音楽ファンは知っているであろう。

 いつか、彼とウォルター レッグ(EMIのプロデューサー:カラヤンやリパッティなどの才能の開花に寄与した、またエリーザベト・シュヴァルツコップの配偶者でもある。しかし彼のプロデューサーとしての最大の功績はクレンペラーという沈没しかけた豪華客船を完全復活させたことにある)という稀代きたいの奇才の邂逅かいこうに関して誰かが映画を制作してくれるに違いあるまい。

 この二人の人生は単独でも面白い人生であるし、その二人の出会いは奇跡としか言いようのない、クラッシック音楽界におけるとびきりの人生劇である。

 映画のタイトルは"OTTO"ないしは”OTTO & Walter"かな・・・?


 ・・・という残念ながら今のところ叶えられそうにもない妄想は脇に置いてまずは正規録音になる彼のベートーベンの第7番の聞き比べをしてみる。

 フィルハーモニア管弦楽団(後のニューフィルハーモニア管弦楽団を含む)との第7番は3種類あって、ベートーベンの交響曲の正規録音では最も多い。1955年10月、1960年10~12月、1968年10月と数年おきに録音されており、演奏時間はこの順に長くなる。(38.40/41.29/43.03) ちなみに僕が沼にまる原因になったのはこのうち1955年、最初の録音である。

 この演奏の凄まじさは何回聴いても衰えることはなく、聴く度に耳が驚かされる。レコードなら針を落とした瞬間、CDならばスタートボタンを押した瞬間から広大な太平洋の逆巻く波に翻弄された小舟の中にいるような、或いは夕日に照らされたアルプスの迫り来る影を眼前にしているような、途方もない集中力のもたらすエネルギーを持つ第1楽章に圧倒される。聴き手はそのまま第4楽章に至るまで、息を呑むような展開を聴かされることになるのだ。この盤の感想に関しては重複するので先の13話に譲りたい。

それに比べるとその後の二つの演奏は全集版の解説でRichard Osborne氏が書いているようにlumbering gait(重い足取り)を感じさせるものになる。

 1960年のものは冒頭部分の煽るような演奏手法において1955年のものを踏襲しているが、1968年の演奏(ニューフィルハーモニア管弦楽団と名前を変更した楽団との演奏になる:実質は同じ楽団)は全く異なるアプローチとなっている。テンポは遙かにゆっくりと、泰然自若たいぜんじじゃくとしたもので、1955年の演奏に感じる凄まじさは微塵みじんもないといって差し支えないだろう。

 となると、クレンペラーにとってのこの曲の解釈は、どちらが「本当なのか」という疑念がきざす。

 クレンペラーが再録をした3つの交響曲はいずれも1955年、ベートーベンの全集の最初を飾った3番、5番、7番、それを1959年から60年にかけて2度目の録音を行い、最後に7番のみを再々録音した形で、それだけを考えるとクレンペラーは最初の録音(3/5/7)のいずれも気に入らず、5年後に全てを再録音、7番については2度のいずれも気に入らなかったので再々度録音をすることにした、という経緯ではないかと誰しもがはかるに違いない。

 この時代の再録音というのはそれに伴うリソースの消費を考えると、(例えば)後年カラヤンが再三行ったベートーベンの交響曲全集の再録音に比べ相当に抵抗があったに相違あるまい。

 カラヤンは最初にフィルハーモニア管弦楽団と、後に主にDGレーベルでベルリンフィルと(最低)4度に渡って全集を演奏している。何度にも渡る録音が可能になったのは、クレンペラーの時代に比べ、技術の発展と共に編集作業が相当容易になったこと、即ち一発勝負の時代に比較して随分とレコード会社にとって負担が軽減された背景がある。加えて、昔気質むかしかたぎのクレンペラーは余り録音に関わる編集作業を快く思っていなかったようだ。

 そうした背景を考えた上で、この「3度に渡る録音」を聞き比べると妙味みょうみは更に増す。恐らく殆どの人は1955年盤をベストとして推すに違いない。とにかく「神懸かり」という言葉に相応しい演奏であり、名演である事は間違えない。ならば、なぜクレンペラーは敢て3度の録音をしたのか?

 指揮者はピアニストほど肉体的・技術的な衰えはないが、カラヤン、バーンスタイン、小澤征爾などの指揮者にも共通して見られるとおり、歳を重ねるほどテンポが遅くなる傾向がある。

 クレンペラーもその例に漏れず、それを「衰え」の一種として見ることもできなくはない。例えば1968年盤の第4楽章の主題の繰り返し部分など「どうした?」というほど平板に聞こえてくるのも事実である。

 しかし、では再録音は無駄な作業であったのか?良く聴けば、以前の演奏では弾き飛ばしていた(こちらは聴きとばしていた)細部にこだわった音が聞こえてくる事も見逃せない。1955年の演奏が神の手になる演奏ならば、1968年の演奏は人間の手に取り戻された演奏なのである。(ないしは別の神が1968年には住んでいるのかも知れない)

 ただ、逆の順番で聴くとすなわち1968年盤から聴き始めてしまうとクレンペラーの凄さは感じることが出来にくい。その意味では1955年盤だけを単独で発売していたEMIは見る目があった。1968年盤を単独で発売した場合、恐らく聴き手は1度聴いた感想で「平板な演奏」とレッテルを貼る可能性が高いと思う。68年盤はクレンペラーをかなり聞き込んだ上で耳にすべき演奏であり、そうしてこそ正当な評価を下せる演奏だと思う。


 では、他の交響曲はどうであろうか?まずは複数回の録音がある第3番と第5番の聞き比べをしてみよう。先ずは第3番の1955年の演奏を聴いてみた。第3番も1959年盤(53.26)に比較すると1955年盤は49.29と短い。そんな事もあって第7番と同じような関係になるのかと想像したが、第3番はそうではない。そもそも第3番の1955年盤は第7番がそうだったような悪魔的デモーニッシュな演奏ではない。曲想からすると第7番よりも悪魔的要素が強いように思えるのだが、むしろこの曲に関しては次いで聴いた1959年盤の「少し遅め」の演奏の方が心地よく感じられるのだ。「心地よい」というのが適正な表現なのか・・・しっくりくると言った方が良いのだろうか。曲の構成が7番よりも3番のほうがかっちりとしているので、自由な展開が許される分が少ないだけそういう印象になるのであろう。1959年盤の「英雄」の姿はいかにも「英雄」らしい押し出しをした演奏なのである。その意味ではこの曲の再録は一般的にも理解されやすい再録音だと言えよう。

 第2楽章の葬送、第4楽章のアレグロ モルトなど淡々としていながら端正で、かつ風格のある素晴らしい演奏である。コーダのオーケストラの底から溢れだしてくるようなリズムで飾る掉尾とうびには聴き手の誰もが感動するのではないだろうか?

 複数録音されたもう一つの交響曲である5番の、1955年盤は意外とおとなしめの「ドアノック」から開始される。これは指揮者の見識のなせる技で「運命の扉」は人を怯えさせたり、驚かせたりするものではない。

 全体にかっちりとした演奏で、余り劇的でないところに不足を感じる人もいるかもしれないし、時折、僅かな乱れを生じるオーケストラをただす人もあるかもしれないが、クレンペラーの厳格さはセルの厳格さと異なって、そうした乱れをひとつひとつ直すようなものではない。そこに何が存在するかと言えば徹頭徹尾てっとうてつび「ムズィーク」なのである。

 ご存知の通り、この曲は第3楽章からアタッカで第4楽章に突入する。その第4楽章のアレグロ-プレストの指定を指揮者は少し横目で眺めながら悠然とタクトを振り続けていく。プレストの指定を無視した(ちなみに第4楽章に関して各盤の記載はアレグロしか記載していないものとアレグロ-プレストと記載してあるものがあるけれど、概して追加記載のあるものの方が指定を無視している傾向があるのが興味深い)その悠然とした足取りでしか拾えない音と律動が存在しているのだ。取り分け第3楽章から遷移する直前、弦楽器による細かな囁きにも聞こえる音の粒立ちが1959年盤はより明確で鮮明に演奏するように「きちんと丁寧なピッチカートで」「一音一音がはっきり聴衆の耳に届くように」と指揮者によって指摘されていると思われる。これを含め様々な表情の違いがありながら、この二つの演奏は統合された精神から発する音楽である。

 この部分(第3楽章から第4楽章に遷移する部分)に関して所有する5番の各演奏者(7番に比較すると少ないがクレンペラー以外に13種の演奏がある)を念のため確認してみた。クレンペラーの1959年盤のような演奏に近い指揮者はシュトラウス、フルトヴェングラー(2つの演奏どちらも)で、新しい世代ほど滑らかに演奏していく傾向があるように思う。弱奏になり、聴衆が耳をそばだてた途端にアタッカで感情の解放が成されるこの短い交響曲の肝の部分であり、その「感情の怒濤のような解放」を演出するためにもっとも効果的な細部である事であるのは疑いを入れない。

 だからこそこの部分をどのように指示するかは極めて重要で、個人的にはクレンペラーの59年の演奏はとても納得のいくものだと感じている。(ちなみに聞き比べた「運命」のクレンペラーを除く12種の演奏はトスカニーニ&NBC/C・ディビス&シュターツカペレドレスデン/スィトナー&シュターツカペレベルリン/クライバー&ウィーンフィル/フルトヴェングラー&ウィーンフィル/フルトヴェングラー&ベルリンフィル/リヒャルトシュトラウス&ベルリンフィル/ホグウッド&アカデミーオブエンシェント/バーンスタイン&ウィーンフィル/チェリビダッケ&ミュンヘンフィル/メータ&イスラエルフィルwithベルリンフィル/クリュイタンス&ベルリンフィル/ムラビンスキー&レニングラードフィル)

 こうして3番と5番の1度目の演奏と再録を聴き直した上で、もう一度第7番を振り返って見ると、クレンペラーは「この曲は3度に分割してその姿を現さなければ全ての姿が見えないのだ」と示唆しているのではないか、と思い始める。エロイカと5番はなんとか2度で完成させた、しかし第7だけはそうはいかなかったのだ、と。

 では再録のない交響曲はどうなのだろう?しばしば7番とカップルで語られる8番、7番をディオニュソス的とすれば、アポロン的とも評されるこの曲をクレンペラーはどう表現しているのだろうか?第一楽章の主題、非常に明確でどちらかというと明瞭、そして明るい光の方向へと向かっていくようなこの曲を晩年の(苦難に満ちていた筈の)ベートーベンが作曲したことは驚きであるが、クレンペラーは直截ちょくさいにその「曲に現れた表情」のみを描ききる。

 要は「曲想が明るいから明るく演奏する」ような安っぽい演出はしない。かといって晦渋に繋がる変な表情をつけることもない。この完成度の高い交響曲は逆に指揮者の解釈よりも曲そのものを指示通りに演奏することが全うすることだ、とでも考えているかのように。

 ここには「良い食材は焼くだけで美味いのだ、と料理長は胸を張った」、そんな風景がある。

 逆に言えば7番というのはそれだけ「欠陥」の多い曲なのかもしれない。もっとも魅力的な女性というのは欠陥が顕わな女性のことが多いのも事実で(料理とか女性とか妙な譬えであるが)二つの対比の激しい交響曲はベートーベンの素晴らしい交響曲集の中で僕のもっとも愛する交響曲なのだ。8番はもっと優しく、表情柔らかに演奏する事も可能な曲ではあるけれど、曲としても立ち姿を決するバランスの良さを考えるとクレンペラーの演奏はこの曲のベストとしても最右翼の一つであることは間違えない。それほど完成度の高い8番である。

 改めてベートーベンの交響曲・序曲・そして「ミサ・ソレムニス」を聴き直すとクレンペラーがベートーベンに抱いた畏敬の念、それと格闘する音楽家としての情熱を感じることが出来る。もちろんそれは他の指揮者、例えばフルトヴェングラーやトスカニーニ、カラヤンやベームにも感じられることなのだけどとりわけクレンペラーが残した正規録音のパターンはその明確な痕跡で、録音を重ねすぎたカラヤンや結局全集という形では正規録音を残さなかったフルトヴェングラーよりも明確な意図が感じられるのだ。他の指揮者たちも全集という形で残しても、敢てその幾つかを意図的に再録するという事はあまりしていない。

 そして1957年、あのハンス・ホッターが深いバリトンで歌い始める第4楽章の歓喜を録音したのち、9番の再録をしないまま(クレンペラーがフィルハーモニアと再録音をしたのは何故か奇数番号の交響曲のみであるのだけど、1番と9番だけはそれがない)1965年、その補償をするように録音した「ミサ・ソレムニス」と9番の二つは是非聴いてみて欲しい。まるで兄弟のようなこの「合唱を伴った偉大な管弦楽」をこれほどまで厳粛に、深い畏敬の念を持って演奏した指揮者がいるであろうか?


 そしてブラームス。

 クレンペラーのブラームスを聴くと僕はベートーベンの後継者がブラームスであると、どういうわけか納得してしまうのだ。

 どこかにも書いたのだがブラームスという作曲家はオーケストラを鳴らさない曲はどこか「突き抜けた魅力」をなかなか出せない不思議な作曲家である。しかしオーケストラを響かせるとそれが交響曲であろうが、協奏曲であろうが、序曲であろうが全て「名曲」に聞こえる。

 一般的にドイツ音楽の正統と言えバッハ・ベートーベン・ブラームスとなり、ベートーベンの後継者としてブラームスは語られることが多いだけど、ピアノ曲や室内楽を含めて勘案すると、ベートーベンの実際の後継たる音楽家はシューベルトだ、と僕は密かに思っている。(もしもシューベルトが長生きしていたなら越えられない壁は二つに増えていたに違いない)シューベルト自身はベートーベンを敬して遠ざけており、自分自身と異なるタイプの作曲家であると考えていたし、年齢はともかく、死去した年は極めて近く(僅か一年違いであり、シューベルトはベートーベンの棺をかついだ人間の一人であった)、なぜかこの二人は古典派とロマン派に区別されているけれど・・・。

 ベートーベンは天才であり努力家であったが、シューベルトは天才である(努力を感じさせるまでに長生きが出来なかったのは無念である)。だがブラームスは努力家であっても天才ではない、そう思わせる何かがある。逆説的に、だからこそブラームスは尊敬の念を持ってドイツの演奏家に接せられるのかもしれないとさえ思う。

 天才には畏敬を、努力家には尊敬を。

 フルトヴェングラーなどは内心ではブラームスの事が大好きだったに違いあるまい。彼はどちらかと言えばブラームスに近い人物像に思える。敢て(そうした人間がいるとしたなら)天才的な指揮者といえばカンテッリとかK.クライバーの方が想起される。が、そのフルトヴェングラーの演奏を聴いてもベートーベンとブラームスの間には超えられぬ隔絶かくぜつがあるように聞こえるのだ。

 だが・・・クレンペラーはそれを魔法のように取り除く。第1番の交響曲、ブラームスがまさに全身全霊を捧げた交響曲は確かにベートーベンの様式と精神とそして「才能」を受け継いだ、と思わせてくれるのがクレンペラーの演奏だ。

 まあ、それは個人の感想に過ぎないというっことは重々承知なのだけど、僕にとってはベートーベンの名演とブラームスの名演が指揮者で重ならないことが常に不思議に思われていた。例えばブラームスの名演を演出したミュンシュ(1番の壮絶さ)、バルビローリ(ウィーンフィルとの全曲が全て素晴らしい)といった指揮者たちがベートーベンでは必ずしも名演を聴かせてくれるわけでは無い。

 敢て言えばベームがどちらとも良い(クレンペラーとタイプは違う意味である)がフルトヴェングラーなどはやはり幾つかのベートーベンとシューベルトの方が(ザ・グレートの素晴らしさは特筆に値する)良い。古典派やロマン派に関してはカラヤンはフィルハーモニアやウィーンフィルと演奏した頃の方が良いのだけど、僕に取って絶対に欠かせない、という指揮者でもない。

 そういう意味ではベートーベン、ブラームスにしても、その全てを演奏したわけではないシューベルト(5/8/9)やシューマンまで含めてクレンペラーの演奏は質量とも群を抜いている。

 全集は「ハイドンの主題による変奏曲」から始まるのだが、この小品からして悠揚迫らぬタクトで大きな世界を描き出し、その音色は続くハ短調の交響曲の序章とでも言うべき壮大さを備えている。

 ハ短調の交響曲は様々な名演を生んだ名曲であり、取り分けミュンシュの振った盤は印象深い。クレンペラーの演奏はそれと双璧をなす名演である。この交響曲はどうしても一楽章の出だしで大きく印象が変わる曲なのだが良い指揮ほど二楽章以降、全体のバランスを考えて演奏されているものだ。クレンペラーのものは間然とすることなく、全体をよく考えた上での演奏となっていて、取り分け「ぎりぎりにゆっくりと演奏される第二楽章」は(これをぎりぎりと言うとミュンシュの演奏を否定する事になりかねないが)とりわけ素晴らしい。第四楽章の出だし部分なども敢て抑制された響きから入ることで寧ろ全体のスケールが大きくなる。こうした全体を俯瞰ふかんした上での個別楽章の解釈と演奏というのは、指揮者毎に異なるものであるけれどクレンペラーのそれはとても優れている。

 そしてその姿が他の交響曲にも共通しているところがクレンペラーの素晴らしい点である。

 第2番をベートーベンのヘ長調に例えてブラームスの「田園」だという人も居るが、調性も異なる(ブラームスはニ長調でフラット系でさえない)し、両曲が田園風景の中で作られたことは事実としても、両者に余り共通性を感じないのは僕だけだろうか。

 ベートーベンはときおり実験的な音楽を作ることを躊躇しない人で、完全標題音楽(「田園」という曲自身にも、各楽章にも表題が存在する)の五楽章という6番の交響曲やコーラスが入った交響曲(9番)を作り、それらが存在しなければベルリオーズの「幻想」やマーラーの幾つかの交響曲は存在しなかったのだろうなと思う。音楽的には後期の弦楽四重奏団やハンマークラヴィア以降のピアノソナタがやはり「実験的」であり次世代の音楽に強い影響力を及ぼした。

 そしてそうした曲には「それなりの時間と労力」が割かれているが、それに比較するとブラームスの2番は非常に短期間で作られた音楽で、漠然とした「心象風景や作曲された環境」以外に共通するものは殆どないように思えるのだ。

 とはいえ、1番と違って力の抜けたこの曲を愛する人も多いだろう。長調の曲にしてはどこか哀愁を感じさせるこの交響曲をクレンペラーは見事にさばく。変な譬えで言えば「満漢全席」でも広東の鄙びた地方での宴会料理でも、どちらでも見事な料理にできる料理人というところであろうか。交響曲と序曲などの管弦楽、ドイツレクイエムを含んだ4枚はクレンペラーの全集の中でも最も質の高いもので機会があれば是非聴いて頂きたい。

 ただ1曲留保するとしたら、第4番の演奏であろうか。この曲は発表当時は評価が分かれ、過去への回帰を非難する音楽家・評論家と寧ろブラームスの本来の音楽であり、(結果的に)新古典主義の嚆矢こうしとなったとするものたちが存在した「問題作」であったが、今僕らが聞けば、何のことはない、まさに「ブラームスのカテゴリー」の中にすっぽりと収まる曲である。不思議なことに他のどの交響曲よりも「序曲や変奏曲」に響きが似ていて、「序曲集」に聞こえないこともない、と言ったら乱暴であろうか(少なくともブラームスは怒るであろう)。

 その曲の冒頭からすぐ第一主題の直後、25小節目あたりからどこか意図的にテンポをずらしたような響きが聞こえてくる。そのために和声が立体的に響く効果がある一方で、奇妙にずれた感覚を引き起こしかねない演奏である。バルビローリやジュリーニではもう少しずれが軽減されているし、K.クライバーのウィーンフィル、アバドがドレスデンを振った盤だと殆ど生じていない。チェリビダッケの処理が1番クレンペラーに近いが、彼の場合はそのずれを存在させたまま巧みに隠し、立体感を生じさせつつ違和感を消している。(実は僕はチェリビダッケのブラームスは全体的にテンポが遅く、評価をしていないのだがこういう細かいところの処理は実に良く考えられている)

 クレンペラーは敢てそうした演奏をしているのだろう。第3楽章の冒頭の和音直後の間、しかり。全体的に力の入った弦楽しかり。

 そうした解釈ないしは演奏上の工夫をどう捉えるかは個々人の趣味に依存するだろうが、僕にはこの4番だけが妙に細部に拘りすぎた演奏に聞こえ、やや距離を置いてしまうのだ。交響曲の演奏の中ではこの曲が最も遅く録音されているのだが、実際のレコーディングは1956年11月と1957年3月の2回に分けられている。同じ事は1番にも起きており、この二つの交響曲はクレンペラーにしても一通りの力の入り方ではなかったのだろう。その力は第1番では効果的に使われているのだが、4番ではどうであろうか?

 さてブラームスのそれ以外の曲、ドイツレクイエム、バイオリン協奏曲(独奏者はダビッド オイストラフ:管弦楽団はフランス国立放送管弦楽団)はシンフォニーよりも後、1960年代の録音である。

 先ずはバイオリン協奏曲。バイオリン付交響曲とも揶揄やゆされるこの協奏曲は意外と名演奏が確定しない曲である。それはまさに「バイオリン付交響曲」だからであって、ソリスト、指揮者両者間のバランスがとても難しい曲だともいえる。

 単純に双方(独奏者/指揮者)の主張の強度を強-強、強-弱、弱-強、弱-弱というマトリクスに掛けたとき、オイストラフはどうしても強であり、その相手がクレンペラーやセルでは必然的に強-強のゾーンに入る。ハイフェッツ-ライナーなども同じゾーンの組み合わせで、逆にパールマン、ジュリーニなどは弱-弱のゾーンに入ると言えよう。曲の性格からするとフェラス-カラヤンなどに見られるの弱-強の組み合わせが妥当なのかも知れない。そういう意味で好みがかなり分かれる曲の上に、バイオリン付交響曲と言うわりにバイオリンパートが難解な曲という性格の複雑さもあってか、演奏の機会が相対的に減っているように思うのは気のせいだろうか。

 オイストラフ-クレンペラーの演奏は第3楽章あたりがやや、重い感じがするのだけど、それが却って良いと考える人も居るに違いない。僕にはこの曲の確定的な名演奏というのはまだ存在していないのだけど、有力な演奏の一つである事は間違えない。

 ドイツレクイエムに関しては個人的に声楽曲を余り聞かないため、これが所有する唯一の演奏という事もあって比較の評価さえ出来ない。ただ、一つ言えることはいつどこで聴いても姿勢を正させるような演奏で、迂闊に夜枕もとで掛けるような音楽ではないということである。(一度、その失敗をして、ほぼ一時間睡眠時間が減ったことがある)

 

 ブラームスと同様に高く評価するのは同じロマン派の交響曲(シューマン・ベルリオーズ・メンデルスゾーンなど)を集めた全集なのだけど、続けてしまうと褒めすぎになるので、その前に「モーツアルト」に関して触れておきたい。こう書けば想像されるとおり、僕はモーツアルトだけはクレンペラーの演奏を評価して「いない」のだ。

 当然僕のことなどお構いなくクレンペラーは多くのモーツアルトを演奏している。

しかし・・・全集の最初の盤に収録された小ト短調K.183(1956年録音)を聞いて頂きたい。僕が最初に触れたモーツアルトの演奏がこの曲であったのが、違和感を覚えた理由の一つだったと言えよう。とにかく、滅茶苦茶テンポが早いのだ。

 単純に演奏時間だけで比較することは適切ではなかろうが、ブリテンの演奏(全体で23分)に比べて20分弱で演奏しきってしまう。それも第1・2楽章でその3分差が消費されているのだ。

 フィルハーモニア盤の中では序曲を含めて最も早くに録音された(1956年)のが小ト短調であることも理由の一つかも知れない(カップリングされている他の曲はハ長調を含め63年から65年に録音されたものである)。というのは僕の所有している小ト短調にはもう一つ、1951年にアムステルダムコンセルトヘボーを振った盤(MEMORIES版)があり、これにもハ長調がペアリングされている。ハ長調はRIASを指揮したものだが録音年代は1950年なので傾向を知るには適切であろう。

 結論から言うと、中期の二つの交響曲に関しては、1950年初頭のものの方が明らかにテンポが速い。


ト短調(K.183)

1951年 アムステルダムコンセルトへボー 16分17秒

1956年 フィルハーモニア        19分55秒


ハ長調(K.201)

1950年 RIAS 21分21秒

1954年 フィルハーモニア        24分41秒


 ト短調は「速い」と感じさせた1956年盤よりもアムステルダムコンセルトヘボー盤は更に3分も短く、もはや演奏は「暴走」状態である。只でさえ短いモーツアルトの交響曲で「速い」演奏よりも更に3分強つづめれば「暴走」になるのは仕方ない。

 ではそれ以外のものではどうであろう?かなり録音は古くなるがまだクレンペラーがアメリカにいた時代、ロサンジェルス交響楽団を指揮した1938年のハフナー交響曲(35番 ニ長調 K.385)がMEMORIES版の録音には残っており、僕の所有している中ではこれが最も古いものであった。これも二十分足らずの短い交響曲であるが、やはり自身が1960年にフィルハーモニア管弦楽団を振った演奏より2分以上も速い。


 ここまで書くと、ベートーベンと同じように年齢を重ねるに従ってテンポがゆっくりとなっていくのと同じではないか、と思う人も居るだろうが、事はそれほど単純ではない。

 先ずは「速いテンポの演奏」の説得力の有無の問題がある。そして、モーツアルトに関してはベートーベンやブラームスに見られる確信(それは演奏の変化を含む)と性質の異なる「迷い」が存在しているのではないかと思われるのだ。

 先ずは後者を見てみよう。ベートーベンとは異なり後期の殆どの交響曲でEMIで複数回の録音をしている。全てはフィルハーモニア管弦楽団、ないしはニューフィルハーモニア管弦楽団との録音であるから、楽章毎に比較をしてみたい。(ここでは表記上、秒数で示している)


38番 録音日時 楽章   1 2 3 4 計

   1956/7/24     793 486 340 1619

   1962/3/28     653 539 360 1552

39番

   1956/7/24     492 575 242 343 1652

   1962/3/28     498 583 256 366 1703

40番

   1956/7/23     521 536 254 303 1614

   1962/3/11     398 536 262 318 1514

41番

   1954/11/24    481 496 246 507 1730

   1962/3/7     557 548 288 405 1798


 ざっと並べた限りに於いては全体として極端な演奏時間の差はないようであるが、38番や40番のよう楽章間のトレードオフが存在していることに気づくであろう。またベートーベンの7番のように、後期になるほど演奏時間が長くなるというのではなく、曲によって長くなったり短くなったり、ばらばらな傾向が見える。

 あくまで個人的な感想ではあるが、ベートーベンの曲に関してはクレンペラーの眼光はスコアの紙背を徹し、その上でオーケストラという道具で様々な様相を描き出したと感じられるのに、モーツアルトでは何度演奏しても迷っている、そんな姿に見えてくるのだ。

 ここには記載していないが40番にはRIASとの演奏(1957年:クレジットではベルリン・イエスキリスト教会でのスタジオ録音となっているが演奏終了時の拍手からはおそらくはライブ録音の音源だと思われる)では最終楽章の反復を行っており、そのため演奏時間は通常の倍近い616秒となっている。この反復(誰もが一瞬、演奏が終わったと勘違いする奴で、ホグウッドとかブリテンの録音も確かその反復を行っているが、それほど多くの指揮者が採用しているわけではない。クレンペラーはそんなところでも迷いを窺わせるのである。


 にもかかわらずおそらくクレンペラーはモーツアルトを愛している、と思わせる何かがある。好きな女の子にちょっかいをかける不器用な男の子のような愛。

 一方のモーツアルトは、なんだかクレンペラーの過剰な愛情におびえ懸命にその姿を捉えさせまいとしている、そんな鬼ごっこのような景色が見えてくる。無理矢理押さえつけようとしたり、わざと放っておいたり、そんな指揮者の迷いを逃げおおせた先の舞台袖から悪戯っぽい表情でモーツアルトが眺めている。指揮者はそれに気づいていて、ちらりちらりと視線を送りながらしかめ面をしている。

 ベートーベンやブラームスでは難なく思い通りに動かせる音が、どうにもふらつく。そんなあやふやさを感じてしまう。敢て暴言と誹られのを甘受すれば、クレンペラーのモーツアルトを評価する人は「無条件にクレンペラーが好き」なのであって「モーツアルト」が好きなわけではない、と思うのだ。クレンペラー自身、モーツアルトに関してどのように思いながら演奏をしていたのか、彼と管弦楽団の中で閉じる管弦楽はあれほど多く演奏しているのに、協奏曲が極めて少ない(正規の録音はアラン・シビルとのホルン協奏曲とバレンボイムとの25番のピアノコンチェルトくらいのものである。それ以外にはやはり25番をブレンデル、27番を(あの!)ハスキルとライブで共演したものが残っているくらいだ。あの協奏曲が苦手(というか共演者になかなか巡り会えない)カラヤンでさえ、もう少しレパートリーは広いのに。それが独奏者と「共有するモーツアルト像」を抱けない指揮者の迷いと思うのは誤解であろうか?

 その意味ではモーツアルト演奏の第一人者であるハスキルとの共演はとても興味深いのだけど、残念ながらまだ聴く機会に恵まれていない・・・と長々と時間を掛け、ぐずぐずと書いている内に遂に実は「買ってしまった」。クレンペラーのモーツアルトを評価していないくせに?まあ、そう言わないでください。

 だからこそたくさん聴いてみたいではないか、謎解きも篭めて・・・。

 結論から言うと、この演奏、クレンペラーは完全にハスキルに「合せて」いる。なんか怖いほどに・・・。クレンペラーがこんなに「可愛く」「チャーミング」に演奏する事など想像もしていなかった。だからと言って最初からではない。この演奏は1956年9月モントルーで行われた全曲モーツアルトのチクルスで、41番の交響曲はMEMORIESのCDにも収録されており、以前にも聴いていたものである。K.201(23分18秒で1954年のフィルハーモニアのものより速い)やアイネクライネナハトムジークを含めてやはり「食い気味」に進んでいく演奏で、ピアノ協奏曲も第1楽章の最初の2分半は同じような調子で進んでいくのだが、ハスキルの少しテンポを抑えた優雅なピアノが響いた途端に様変わりする。ハスキルのピアノの音色は「綺羅綺羅」と、とはいえ、ギレリスの「鱒」のような朝、小川の水面に光るような「キラキラ」ではなく、ポリーニのショパンの前奏曲の「きらきら」でもなく古い宝石箱の中に仕舞われたルビーがランタンの炎に照らされたような色合いで、突然オーケストラはそれを大切に包むビロードのような音色に変化する。

 「細心に」とクレンペラーが突如バイオリニストを睨む。指揮者の突然の変貌にギュルツェニヒの団員は必死に従うが、ソリストは気づいていない(そんな執事の気遣いなどには「お嬢様」は気づかないものである)。第2楽章はピアノから始まる。そろそろと進むお嬢様に付き従うかのようなオーケストラの音色は随分とK.201と違うではないか?

 このまるでタイプの違う(解説者:川瀬昇氏によると病歴を含め大変似たところもある)二人の音楽家が奏でる不思議な名演。いや、違うタイプだからこそ深みがあるのかもしれないし、倨傲きょごうで知られる指揮者が「競争」ではなく「協奏」を躊躇いもなく選択したことに意味があるのかも知れない。

 「お嬢様抱っこ」のような演奏は最後まで続く。一つの演奏会の中でこの曲だけ全くオーケストラの音色は事なって僕には聞こえるのだ。なぜ、クレンペラーがベートーベンやブラームス、そして滅多に大指揮者が手を付けないショパンでも協奏曲の演奏をしたのにモーツアルトでは「数少ない」のか、どこかその理由が見え隠れするのがこの演奏である。


 長々と書いたが、なぜ僕がクレンペラーのモーツアルトを評価していないのか、というのは即ち「らしくない」からである。迷いをそのまま演奏に持ち込むのは一向に構わないのだけど、最後まで迷いが解けなかったように思えてならない。とはいえ、そんな中でも記憶に残る名演はいくつか存在する。

 例えば1956年フィルハーモニア管弦楽団と録音したト短調やアムステルダムコンセルトヘボー(1955年)やニューフィルハーモニア(1964年)とのアイネクライネナハトムジーク、或いは39番(1962年)とか、力みが見えない時のクレンペラーの指揮棒の先にはちょっと真面目な顔をしたモーツアルトが確かに宿っている。ただ、その時のクレンペラーはあのベートーベンやブラームスを振るときの峻厳たる男ではない。モーツアルトに強く諭され、少しおとなしくなった親戚のおじさんのような感じがする。それもまた悪くはないのだろうけど、そこにはモーツアルトは存在するけれどクレンペラーの影が薄い。

 一方でジュピターなどを振るとクレンペラーは作曲家に抗おうとする。その拮抗する感じもまた僕には居心地が悪いのだ。ベートーベンやブラームスでは僕は作曲家の書いた曲とクレンペラーの演奏を同時に(統合して)楽しむ事が出来るのに、モーツアルトだとそれがままならない、そう記せばある程度理解して貰えるのだろうか?

 少し長くなってしまった。それ以外の演奏については第24話に譲ることにして一旦筆を措かせて貰うこととする。


*LUDWIG VAN BEETHOVEN

Sinfonie Nr.7 A-dur, Op.92(*)/'Prometheus' Overture Op.43

PHILHARMONIA ORCHESTRA

EMI CDM 7 69183 2 *recorded in 1955

*ベートーヴェン 荘厳ミサ曲 作品123

 エリーザベト・ゼーダーシュトルム(ソプラノ)

 マルガ・ヘフゲン(アルト)

 ヴァルデマール・クメント(テノール)

 マルッティ・タルヴェラ(バス)

 ニュー・フィルハーモニア合唱団

 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

  WARNER CLASSICS WPCS-23098

*BEETHOVEN

THE ORCHESTRAL RECORDINGS SYMPHONIES & OVERTURES

Symphony No.1 in C Op.21 recorded in 1957

Symphony No.6 in F Op.68 'Pastoral" recorded in 1957

Symphony No.2 in D Op.36 recorded in 1957

Symphony No.5 in C minor Op.67 recorded in 1959

Symphony No.3 in E flat Op.55 'Eroica' recorded in 1959

Gross Fuge Op.133 recorded in 1956

Symphony No.4 in B flat Op.60 recorded in 1957

Symphony No.7 in A Op.92 recorded in 1960

Symphony No.8 in F Op.93 recorded in 1957

Leonore No.1 Op.138 recorded in 1963

Leonore No.2 Op.72a recorded in 1963

Leonore No.3 Op.72b recorded in 1963

Coriolan Op.62 recorded in 1957

Symphony No.9 in D minor Op.125 recorded in 1957

Aese Nordmo Lovberg(soprano) ,Christa Ludwig(mezzo-soprano)

Waldemar Kmentt(tenor),Hans Hotter(baritone)

Philharmonia Chorus master Wilhelm Pitz recorded in 1957

Symphony No.3 in E flat Op.55 'Eroica' recorded in 1955

Leonore No.1 Op.138 recorded in 1954

Leonore No.2 Op.72a recorded in 1954

Symphony No.5 in C minor Op.67 recorded in 1955

Symphony No.7 in A Op.92 recorded in 1955

Leonore No.3 Op.72b recorded in 1954

Fidelio Op.72 recorded in 1954

Die Welhe Hauses Op.124 recorded in 1956

Die Geschopfe des Prometheus Op.43 recorded in 1957

Egmont - Incidental Music Op.84 recorded in 1957

Birgit Nilsson(soprano)

Konig Stephan Op.117 recorded in 1959

Die Welhe Hauses Op.124 recorded in 1959

Fidelio Op.72 recorded in 1962

Symphony No.7 in A Op.92 recorded in 1968 *

Die Geschopfe des Prometheus-Ballet Op.43 recorded in 1969 *

Philharmonia Orchestra

New Philharmonia Orchestra(*)

  WARNER CLASSICS 50999 4 04275 2 2 (10CDs)

-------------------------------------------------------------

*BRAHMS

SYMPHONIES & OVERTURES /EIN DEUTSCHES REQUIEM

Variations on a Thema by Haydon (St Anthony Chorale) Op.56a

Symphony No.1 in C minor Op.68

Symphony No.2 in D Op.73

Symphony No.3 in F Op.90

Academic Festival overture Op.80

Tragic Overture Op.81

Alto Rhapsody Op.53

Christa Lutwig(mezzo-soprano)/Philharmonia Chorus master William Pitz

Symphony No.4 in E minor Op.98

Ein deustche Requiem Op.45

Elisabeth Schwarzkopf(soprano) Dietrich Fischer-Dieskau(baritone)

Ralph Downes(organ)

Philharmonia Chorus master Reinhold Schmid

  WARNER CLASSICS 50999 4 04338 2 0 (4CDs)

*ブラームス ドイツ・レクイエム 作品45

 ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)

 エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)

 フィルハーモニア合唱団(合唱指揮:ラインホルト・シュミット)

 ラルフ・ダウンズ(オルガン)

 フィルハーモニア管弦楽団

  WARNER CLASSICS WPCS-23100

*ブラームス ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77

 ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)

 フランス国立放送局管弦楽団

  WARNER CLASSICS WPCS-23309

---------------------------------------------------------------

*MOZART SYMPHONIES OVERTURES SERENADES

Cosi fan tutte K588 Overture *

Symphony No.25 in G minor K183

Adagio and Fugue in C minor K546

Symphony No.29 in A K201 * recorded in 1965

Symphony No.31 in D K297 'Paris'

Symphony No.33 on B flat K319 *

Symphony No.34 in C K338

Symphony No.40 in G minor K550 recorded in 1956

Masonic Funeral Music K477 *

Symphony No.35 in D K385 'Haffner'

Symphony No.36 in C K 425 'Linz'

Symphony No.38 in D K504 'Prague' recorded in 1962

Die Zauberflote K620- Overture

Serenade No.13 in G K525 'Eine kleine Nachymusik' * recorded in 1964

Symphony No.39 in E flat K543 recorded in 1962

Symphony No.41 in C K551 'Jupiter' recorded in 1962

Serenade No.10 in B flat K361 'Gran Partita' for 13 wind instruments **

Serenade No.11 in E flat K375 ***

Serenade No.6 in D K239 'Serenata notturna'  

Serenade No.12 in C minor K388 ***

Die Entfuhrung aus dem Serail K384-Overture

Le Nozze di Figaro K492-Overture *

Don Giovanni K527-Overture *

La clemenza di Tito K621-Overture *

Symphony No.29 in A K201 recorded in 1954

Symphony No.38 in D K504 'Prague' recorded in 1956

Symphony No.40 in G minor K550 recorded in 1962

Symphony No.39 in E flat K543 recorded in 1956

Symphony No.41 in C K551 'Jupiter' recorded in 1954

Serenade No.13 in G K525 'Eine kleine Nachtmusik' recorded in 1956


Philharmonia Orchestra

New Philharmonia Orchestra(*)

London Wind Quintet & Ensemble (**)

New Philharmonia Wind Ensemble(***)

  WARNER CLASSICS 50999 4 04361 2 8 (8CDs)


*Wolfgang Amadeus Mozart

Symphony No.25 in G Minor, K183

Concertgebouwochestra Amsterdam 18/January/1951

Symphony No.29 in A Major, K201

RIAS Symphonie-Orchester 20/December/1950

Symphony No.35 in D Major, K385 "Haffner"

Los Angels Philharmonic 1/January/1938

Serenade No.6 in D Major, K239 'Serenata Notturna'  

RIAS Symphonie-Orchester 20,21/December/1950

Symphony No.38 in D Major, K504 "Prague"

RIAS Symphonie-Orchester 22,23/December/1950

Symphony No.39 in E flat Major, K543

Hungarian Radio Symphony Orchestra 17/April/1949

Serenade No.13 in G Major, K525 "Eine Kleine Nachtmusik"

Concertgebouwochestra Amsterdam 10/November/1955

Symphony No.40 in G Minor, K550

RIAS Symphonie-Orchester 21/January/1957

Symphony No.41 in C Major, K551 "Jupiter'"

Gurzenich-Orchster Koln 9/September/1956

Maurerische Trauermusik K477

Concertgebouwochestra Amsterdam 12/July/1951

Don Giovanni K527-Overture *

RIAS Symphonie-Orchester 19/December/1950

MEMORIES REVERENCE MR2492/2494(3CDS)

*Wolfgang Amadeus Mozart (Mozart Abend)

Symphony No.29 in A major, K201

Piano Concerto No.27 in B flat major, K.595

Serenade No.13 in G major, "Eine Kleine Nachtmusik" K525

Symphony No.41 in C major, K551 "Jupiter'"

Piano: Clara Haskil

Gurzenich-Orchster Koln

Live Recording: 9/September/1956 Montreux

     Altus ALT477/8

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