第22話 チャイコフスキー 交響曲第4~6番 ムラヴィンスキー指揮 レニングラードフィルハーモニー管弦楽団

 昔、レコード会社が自社のレコードに「決定盤」とタイトルを付して販売していた。今ではさすがに少なくなっているが、決定盤という響きには「他を買う必要がない」という排除のニュアンスがあって余り好きになれなかったことを覚えている。とは言え、昔学生の頃はレコードを買うにしても資金の余裕がないわけで、同じ曲を様々な演奏で聴くことが難しかった。従って決定盤と言われると心が動いてしまった、というのが実情である。

 グラモフォンもコロンビアもフィリップスもそれぞれ保有する音源の中で最も自信のある演奏を「決定盤」と標榜ひょうぼうしていた。例えて言えばヴィバルディの「四季」はフィリップスの意見ではもちろんイ・ムジチが「決定盤」であるが、EMIだとルイ・オーリアコンブのものが「決定盤」、そこにカラヤンとミシェル・シュヴァルベがベルリンと共演したものをグラモフォンが「決定盤」として乗り込むという具合で「決定盤」ヤクザの出入りみたいな状況になる。たぶん評論家の幾人かもグロモフォン組やらコロンビア会やらフィリップス一門の下っ端として「決定盤」を推していたのだ。

 けれど、今の時代、音楽は相対的に安くなって「決定盤」はもはや殺し文句ではなくなり、目立たなくなってきた。

 しかし、そんな状況の下でさえ「チャイコフスキー後期交響曲集」についてはこのムラヴィンスキー盤を決定盤として推すことに僕は何の躊躇ためらいも覚えない。まあ、僕が決定盤といっても言うことを聞いてくれる人はそれほど期待できないけどね・・・。

 しかし演奏の緊張感、精密度、完成度という面でこれに勝る演奏は恐らく今後も出てこないであろう、と思う。特に5番の演奏は何度聞いてもその素晴らしさに最後まで引き込まれる。

 チャイコフスキーという作曲家は非常に分りやすく、オーケストレーションが上手であるがために却ってクラッシック音楽の愛好家の中で高い地位を占めているとは思えない。これは芸術を愛する人々の悪い癖で、作曲家であればなんとなく「分りやすい」と、演奏家であれば「誰にでも人気がある」と軽く見る傾向がある。チャイコフスキーの音楽は、クラッシック音楽という範疇の中では「わかりにくい」のと対極にある音楽である。それはメンデルスゾーンなどと共通していることがあり、チャイコフスキーとメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の組み合わせなど「わかりやすさ」の組み合わせでメンチャイなどと「軽く」呼ばれている。失敬極まりない話だが、こういう組み合わせばかりでレコードを作った方にも責任がないとは言えまい。

 さて話を戻すと、たしかに交響曲にしたって、断片的に聞いていると「くるみ割り人形」などのバレエ音楽と区別がつかない。第5番の二楽章の旋律がバレー音楽の中で使われていたとしても何の違和感もないのだ。

 そのうえクラッシック音楽というとやたらと「精神性」の問題が出てくる。特に交響曲というとなぜか曲そのものにも、演奏にも精神性を求める人が増えてくる。フルトベングラーのベートーベンには精神性があるがカラヤンの演奏にはない、というような訳の分らない、それでいて何やら偉そうな批評?が出てくるのだ。

 チャイコフスキーの交響曲にベートーベンやブラームス、あるいはちょっと別の傾向になるがブルックナーやマーラーのような「精神性」をチャイコフスキーに求め出せば、そこは無理筋が出てくる。だが、このムラヴィンスキーの演奏に限ってはそんな問題が忘れ去るほど緊張感と音楽性に溢れていて、「精神性」などどうでも良くなる。それはとても快い。

 チェリビダッケがロンドンフィルを指揮した第4が冒頭、首を捻るほどテンションが低い音で始めながら徐々にパトスを奮い立たせるような激しい演奏に導くのとは異なり、最初から最後まで等価の緊張感を保つという人間業とは思いえぬ位の演奏だ。チェリビダッケとロンドンフィルの演奏も人間業とは思えぬほどの演奏ではあるが、ムラヴィンスキーとレニングラードは全く異なる方向性のこの演奏を合計僅か6日間のロンドン/ウィーンの滞在で成し遂げた。1960年のソ連はスターリン亡き後(1953年)、その独裁的な支配への批判を行ったフルシチョフが実権を握っていたが、それ以前からレニングラードの常任指揮を振い、スターリン賞を受けていたムラヴィンスキーにとって政治は常に危険を伴うファクターであったに違いない。社会主義の政権は社会の全ての要素に支配を振うが、その殆どは妨害である。とりわけ文化に対する政治の容喙ようかいはどの体制にあっても百害あって一利もない。

 そんな政治状況のもとで幾つかの団体と幾人かの演奏家が鉄のカーテンを越えて欧米にやってきた。リヒテル・ギレリス、ダヴィッド・オイストラッフ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、らの演奏家、そしてムラヴィンスキー率いるレニングラードフィルやモスクワ放送交響楽団、ソヴィエト国立交響楽団であり、その演奏は政治から常に圧倒的である事が求められた。そして現実的に欧米に匹敵する質の演奏を提供することができたのは驚くべき事象である。本来政治的な抑圧を受けた音楽家が優秀なパフォーマンスをするのは困難であると思うが、まだ演奏家の方がショスタコーヴィチを初めとする作曲家より有利で、それは想像力や創造力の範囲が演奏家と作曲家の間で異なるためであろう。ショスタコーヴィチが13番交響曲(別名:バビ ヤール)の初演をムラヴィンスキーに依頼したが、これをムラヴィンスキーが断り代わりをキリル コンドラシンが演奏した事で様々な批判や賞賛が交錯した。政治(当時はフルシチョフは書記長)が文化に介入する事の愚かさを演奏家に押し付けるのは誠に悲しいことだ。この時の「ドイツのファシズムを阻んだロシアの偉業」という言葉が「ウクライナはファシズムだ」という主張と共に今なおロシアの為政者から発せられているが、現実はロシアこそ今「ファシズムに近い体制」なのである。

 ムラヴィンスキーが生きているうちに「ソ連」という壁は破られることはなく、彼はその枠の中で演奏し続けた。その演奏するモーツアルトは「明るく愉快な」モーツアルトではなかったし、ベートーベンは「ナポレオンを痛罵する」気概のあるベートーベンではなかったが、演奏のレベルは非常に高かったと思う。それは僕の持っているモーツアルトの33/39番の演奏や、ベートーベンの7番交響曲からも感じ取ることが出来る。だが、このチャイコフスキーの交響曲のクラスターほど完成度が高く、なおかつ何かを訴えかけてくるような演奏ではない。

 この演奏をソ連から離れたロンドンとウィーンで手兵のレニングラードフィルと演奏しながらムラヴィンスキーは何を思っていたのだろう?

 僕の手元にあるショスタコーヴィチの演奏がある。一つはキリル コンドラシンがミュンヘンのヘラクレスザールで1980年にバイエルン放送交響楽団とともに演奏した13番、「バビヤール」 もう一つはその2年後にムラヴィンスキーがレニングラードで手兵と共に演奏した8番である。自らに捧げられた13番は演奏しなかったがムラヴィンスキーはその後もショスタコーヴィチを振り続けた。そこに僕は彼の心を見いだしてあげたいと思っている。


ペーター・チャイコフスキー

交響曲 第4番 ヘ短調 作品36

交響曲 第5番 ホ短調 作品64

交響曲 第6番 ロ短調 作品74≪悲愴≫

レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

指揮:エフゲニ・ムラヴィンスキー

 ユニーバーサル UCCG-4643/4

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