第21話 シューマン ピアノ協奏曲 ショパン小曲集 アルフレッド コクトー

 所有するCDの棚卸をし、あまり頻繁に聞いていなかった演奏をチェックするという作業を何年かに一度やっている。今年はその年なのだが入院を何度か繰り返したために普段よりペースは遅く、まだチェックを終えたのは半分にも至っていない。

 そんな中、30代の頃にミュンヘンのLudwig Beck am Rathuseckという音楽用品専門店で買った、MERODRAMというミラノに本拠を置くレーベルのCDを何枚か見つけた。中の一つに一枚9.90マルクというシールが貼ってあった。今は亡きドイツマルクはそのころ一マルクあたり90円くらいだったと記憶しているので、一枚当たり900円くらいのCDである。

 MERODRAMというのは変わったレーベルで大手が手掛けない、ソースが怪しげな往年の名演奏(殆どがライブ録音)を商売にしてるレーベルである(今も存在しているのだろうか?)ビクトール デ サバタのニューヨークフィルとの「運命」(もの凄い大喝采で終わっている)やハスキルとグリュミオーによるモーツアルト・ベートーベンのソナタとか、絶妙に「聞いてみたい」演奏を出していて、録音はひどいものだけど900円くらいならいいか、と思わせる巧みな(?)値付けで僕も数枚購入したことがある。

 なにしろその頃のミュンヘンでの生活は忙しすぎて、他に贅沢をすることもなかったのでCDなどは毎週「大人買い」をしていたものだ。たぶん、学生時代の禁欲的生活の反動であろう。その中にコルトーによる掲題の演奏の入ったCDがたまたま紛れ込んだのであろう。あまり熱心に聞いた記憶のない演奏で、寝る前に睡眠導入剤的な感じで聴き始めたのである。

 そういう経緯もあり、正直、最初にかけた時はそれほど思いを持って聴き始めたわけではないが、シューマンの協奏曲のあまりに独特な演奏に引き続き、ショパンの葬送ソナタの特に二楽章あたりからその演奏姿まで彷彿とさせる、鬼気迫る鍵盤捌き(捌き切っているかは別として)から小曲集まで、結局最後まで聞き入ってしまった。眠る前にかけたのは失敗であった。

 そのままベッドに横たわり、リーフレットをチェックしてみる。協奏曲の指揮者はフリッチャイ、よほど珍しい組み合わせで思わず、溜息をついた。フリッチャイは戦後のドイツでナチスの協力を問われたフルトベングラーなどの実力者が自由が利かなかった頃、輩出した若手の一人でベーム(20年年上)やカラヤン(6年年上)ほどではないがベルリン放送交響楽団を指揮し、新鮮な解釈で一時代を画した実力のある指揮者である。その割には正直それほど世間で評価は高くない。白血病で若くして(48歳)で死去したのも評価が上がらなかった理由の一つであろう。それにしてもゲザ アンダとかタマス ヴァシャーリとかとの共演ならありそうだけど(どちらにしろ玄人好みの渋いコンビだ)、コルトーとねぇ、と意外な組み合わせであったことに今更気づいた。迂闊な話である。

 演奏している楽団はとみると、リーフレットの裏にはRoyal Symphony Orchestraとある。あまり聞いたことのない楽団だな、と思いながらリーフレットの中の方を見るとそちらにはRadio Sinfonie Orchester とある。あ、これは多分ベルリンRIASだなあ、と思いつつ確認のためウェブを見る。このレーベルの表記は存外めちゃくちゃで単にこの間違えだけでなく、練習曲やワルツなどの番号の振り方もいいかげんである。(CD紹介欄に表記の通り記載してあるので見てみてください)

 WEBでコルトー、フリッチャイで確認すると結構ヒットして、このシューマンの協奏曲の演奏は日本でも別の形で発売されたことがあるらしいことが判明した。その記事の一つに「宇野功芳が激賞」とあるのを見て思わず苦笑いをした。僕が大学生当時(つまりは45年くらい前)に「レコード芸術」を読んでいた人々には分かるだろうけど、宇野さんはとても特徴的な評論家で、僕は密かに彼を「音楽の霊媒師的評論家」だったと思っている。彼は演奏者を作曲者の「よりまし」(よりましというのは霊がその体を借りて言葉を発したり、動作をしたりするいわば霊媒である)ととらえているようで、彼の「激賞」とは

「そこにシューマンの霊がおりております」

 ということなのだ(と僕は思う)。もしも現実社会でそんなことを言ったらいろいろと問題がありそうだけど、しかし音楽の世界では

「現実にシューマンの霊が降りている」と感じさせることがある。まさにこの演奏はそれであり、ついでにいえばショパンのソナタやエチュードもショパンの霊が

「降りております」

 なのである。晩年のコルトーは音楽の中心地であるロンドンとかパリではなくMonaco(これはMonaco di Bavieraとあるから、まさに当時僕が住んでいたミュンヘンのことであろう)やマドリッドという地方都市でショパンをおろしていたんだ、と思うと少し切なくなった。まあ、ミュンヘンは地方都市であるが、音楽に関しては国際都市の仲間入りをしても良いレベルではあるけれど。

 念のため個人的意見を述べさせていただければ、宇野さんの霊媒師的批評に関しては、音楽へのアプローチは作曲家と演奏家の間に霊が降りているか、どうかだけで決まるわけではないのでそのアプローチだけだとちょっと不足があるとは思う。しかし現実に宇野さんの褒める演奏というのは「気になる」演奏が多いのは事実である。別のところにも書いたが「宇野さんの激賞の一つ」であるエリック ハイドシェックのモーツアルトのピアノ協奏曲を聞いていると、その演奏の向こうでモーツアルトは悪戯っぽい顔で拍子をとりながら聞いているような気がする。もちろん、それはそう聞く人が聞ければいい話で、誰もがそうすべきであるという訳ではなく、ハイドシェックの演奏を評価するのは日本人位、と小馬鹿にしても一向に構わない。残念ながら、結局音楽というものはそういうパーソナルなものなのだ。その代わりこちらも評論家に「この評論家はレコード会社から賄賂を貰っているのか、はたまた音楽的感性を全く持っていないのか」と毒づいて一向に構わないのである。

 もちろん、さっきも書いたように宇野さんの意見が全てかというとそれはそうでもないわけで、音楽家と演奏家と聴衆の立ち位置には様々な様式があってよいわけである。例えば僕はラサールのドビュッシーとラベルの四重奏曲をとても愛するけれど、それは演奏家が作曲家を降霊しているかではなく、彼らが作曲家の意図を綿密に分析し新たに提示してくれたおかげであって、それは別の心地よい関係を齎してくれる。けれど、宇野さんはたぶんこの演奏をさほど評価しないだろう。


 閑話休題。

 戦後のクラッシック界ではコルトーのような不正確な指使いやルバート(テンポの揺らし)の多用は「古臭い」とされ、楽譜を作曲者の指定するように正確に演奏する音楽家が「良い演奏をする」音楽家であるとなっていったようで、エドウィン フィッシャーやギーゼキングから、ヴィルヘルム ケンプやヴィルヘルム バックハウスの肩にピアノの将来は託された。しかしその評価といえば「テストで百点を取るような生徒が賢い」とするようなもので、それは「賢さ」の一面でしかない。とりわけ芸術の世界ではそうである筈だ。

 ブラームスのB-Flatの演奏ミスを「彼はもう少しうまく弾けたのではないか」と指摘されたシュナーベルが「そうかもしれないが、あれにまさる演奏はなかった」と答えたことの意味はそういうところにあると思う。(このエピソードはDenis Matthewsがチボー・コルトーによるフランクのバイオリンソナタにつけたライナーノーツに記載されている:EMI CDH 7 63032 2 ドイツでの販売コード)コルトーの演奏には例えミスがあり、ルバートを多用するという癖があったとしても、その背後には積み重ねられた作曲者への想いと、曲に対する深い研究と洞察が存在する。それを無視してミスが多いと片付けてしまうのは余りに軽率であろう。

 ホロビッツの晩年の日本での演奏に吉田秀和が「ひびの入った骨董」と評し、その尻馬に乗った評論家がホロビッツの演奏を貶すという事象が起こった。(ところで吉田秀和の評論を読むと彼がどんなにホロビッツの演奏に期待を持って接していたかが分かる。一音一音に耳を澄ませ、その音色にダイアモンドの光が輝いていないか確かめているような記事である。だがその期待値の高さゆえに落胆は大きかったのだろう)しかし・・・その際のホロビッツの演奏がたとえ十分でなかったとしてもその後に発売されたいくつかの録音を聴く限り、一回の演奏で演奏家を軽々に論じてはならないと思う(その際の演奏は僕は残念ながら聴いていないがどんなに優秀な演奏家でもパフォーマンスが悪い時があるのは往々にあることで、ミケランジェリやグールドみたいにキャンセルすればそれは良かったのかもしれないけど。それはそれで聴衆に申し訳ないだろうし、ホロビッツ自身がその時万全の演奏ではなかったと認めている)

 とにもかくにも人は何かを杓子にして優劣をつけざるを得ない生き物らしい。とりわけ評論家はそうである。それが彼らの仕事なのだが、いったいどういう基準で彼らが評価しているのか、「評論家や批評家を批評する」のは読者の責務である。その判断の基準は複眼的でなおかつクリアであることが望ましい。どの点でいうと基準のあいまいな評論家に比べて宇野さんは分かりやすかった。まあもっとも譜面に書いてある通り正確に演奏するというのはある意味、否定のできにくい基準であり、それが芸術的かどうかは別として普通の聴き手には分かりやすく(分かりやすいという基準だけで)響いたという事なのだろう。

 残念ながらその結果として、コルトーは古ぼけた骨董品であるかのように扱われ(ナチスの前で演奏したという事もあったのだろうけど)、ミュンヘンやマドリッドでミューズを地上に迎えていた。そういうことだ。それが録音されていたということは偶然にしろ、必然にしろ、望外の僥倖と思うべきであろう。既にコルトーを録音しようと考えていたレーベルはEMIを含め存在しなかったはずだ。例え、どんな形であれ残っていた、という事実に僕らは感謝すべきだ。

 そしてこの演奏は音楽というものの一面を見せてくれる。例え、どんなに正確に音符をなぞろうと、それはすべてではない。それは本質ではない。

 もちろんそれは音符を正しく演奏する、という事を否定するものではなく、音楽の多面性を僕らは真摯に考えなくてはいけないということ、そして批評家のコメントや時代に流されるのではなく、一人一人が確固たる基準を持って芸術に向かい合うことの大切さである。ウェブの記事によれば、「シューマンを演奏するときにコルトーは指の形を構えて弾き始めた」という。そのことについて・・・僕らは笑うべきではなく、芸術家としてのコルトーの凄みを感じるべきなのである。

 さて肝心の演奏に関していえば、シューマンの協奏曲については巷で言われるほどのミスタッチはない。ルバートは確かに多用している。しかし、ルバートが多用されているから一律に悪いとか下品だという意見には僕は与しない。ルバートにも様々なものがあり、気持ち悪いものもあればそうでないものもある。コルトーのそれは決して下品ではない。積み重ねられた豊かな感性と詩情がそこには厳然として存在している。呟くように始まるピアノパートの初めから聴く人を惹きつけるものがある。

 それに・・・何よりも伴奏のフリッチャイもベルリンRIASの団員もコルトーの演奏をリスペクトし、アシストとしている。「あのフリッチャイ」がである。評論家が何を言おうが素人がどんな口を聞こうが、その一事ですべては明白である。

 ショパンのソナタの一・二楽章はそれに比べれば、ミスタッチというか、ショパン作曲、5%コルトー編曲みたいな「ん?」という音がたくさん聞こえてくる。それなのに・・・一楽章から終楽章まで通して、瞼に浮かび上がるのは舞台上で眼を瞑り皺だらけの老いた手でショパンを真剣につまびく老コルトーの背中である。そしてそこには確かにショパンの姿が寄り添っている。

 ショパンのソナタはシューマンの協奏曲の録音から5年後、79歳の時の録音であの三年前に演奏された練習曲やワルツ、夜想曲のタッチがしっかりしているのに比べると分は悪いが、むしろその一音への魂の込め方には凄まじいものを感じる。まあ、それをどう感じ取るかどうかは人それぞれだし、感じ取らない人に何を言っても無駄であろうけど。それに・・・毀誉褒貶の激しそうな演奏であることは疑いないし、それは仕方ないけれど。

 まあ、聞いたことのない人はとにかく一度、ぜひ聴いてみてください。僕はお勧めします。そこにはあなたたちが知っているシューマンとかショパンと別のものがある。そのことは保証できると思います。


*Alfred Cortot

Robert Schumann

Concerto in la minore per Pianoforte e Orchestra Op.54

Royal Symphony Orchestra (so remarked on the backside of leaflet)/Radio Sinfonie Orchester (inside the leaflet) "however actually performed by Berlin RIAS Symphony Orchestra"

Direttore :Ferenc Friscay


Frederick Chopin minor

Sonata in si bemolle minore Op.35

Etude in mi bemolle maggiore Op.10

Etude in sol bemolle maggiore Op.25

Waltzer in do diesis minore

Nocturne in fa diesis maggiore

Waltzer in sol bemolle maggiore

Waltzer in la diesis maggiore Op.69 No.1

Waltzer in re bimolle maggiore Op.64 No.1

Nocturne in mi bemolle maggiore Op.9 No.2

Berceuse in re bemolle maggiore Op.57


Melodram MEL18018

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