第20話 LLIBRE VERMELL DE MONTSERRAT(モンセラットの朱色の音楽譜) ジョルディ サヴァル指揮 

 この歳(六十歳超)になると新しいものに感動するという事は滅多になくなるものである。どんなに素晴らしい書籍を読んでも、斬新なアイディアに接しても、素晴らしい風景を見ても、若いころに感じたあの新鮮な驚きや揺さぶられるような感情というものが掘り起こされることは、ほぼ・・・ない。

 音楽にしてもそうである。ポリーニの演奏するショパン、ホロビッツの月光、フルトベングラーのシューベルトの第九番の交響曲、ウィリアム カペルのピアノ演奏、ラサールSQの弦楽四重奏、フルニエによるベートーベンソナタやドボルザークのコンチェルト、僕にとってはそうした音楽が心を揺らし、成長するにあたっての精神的な支えの一つになったことは間違えない。

 同様にロマンロランの「ジャンクリストフ」やスタンダールの「赤と黒」などの小説群、三島由紀夫の「豊饒の海」・中島敦の「山月記」、トルーマンカポーティの小説群、そうしたものに加えてアーウィン ショーの「夏服を着た女たち」のようなこじゃれた小説も僕を精神的に成長させてくれたと思う。

 だがそうした音楽や小説のほとんどは二十歳前に聴いたり、読んだりしたもので、それらを読み直したり、聞きなおしたりすることによって追体験をすることはあっても、新しい音楽や小説に感動するという事は久しくなかった。

 そう、もう少し若い頃には音楽にも小説や詩にも、そして女性にももう少し強く熱い情熱を持っていた、そんな記憶を懐かしむ歳に僕はいつのまにか達しているのだ。


 だが、がんを患った僕はその入院中に一つの新たな音楽を新鮮な感動を持って享受することを得た。その音楽の方がこの「モンセラットの朱色の音楽譜」(一般的には「モンセラットの朱い本」と訳されている)である。

 それは入院していた病院で、朝早く目覚め、他に何をすることもなく、体の奥底にしこる痛みに耐えながら暁前の共用スペースでイヤフォンを嵌めてNHKの「らじるらじる」の聴き逃し機能を使ってクラッシック音楽を聞いていた。そのうちの一つ(たぶん「クラッシックカフェ」という番組だったと記憶している、)から流れてくるクラッシック音楽を聞いていたまだあたりは昏い未明の事だった。ブルックナーやべートーベン、メンデルスゾーンやメシアン・・・さまざまな音楽を聞きながら日々を過ごしていた僕の耳に、突如として澄明ちょうめいな鐘の音が響いた。

 そう、この曲を聴いたことのある人なら必ず覚えのある冒頭のあの鐘の音・・・。いったいあの朝、薄暗い病院の朝暮に僕の耳に響いたあの鐘の音は心を救うための音色だったのだろうか、或いは裏手に墓のある、教会の鐘楼から鳴り響いた死を予告する音であったのか、いずれにしろ極めて魂に近い場所にある音色であり、それに続く音楽であったことは間違えない。

 いや、それは今となっては僕の記憶違いなのかも知れない。実を言えば最初にあの鐘の音を聴いてからこの曲にはまっていったのかは鮮明に覚えていない。だが、病院の暁まだ暗い建物の中で、この曲が急速にこの音楽が僕の心を虜にしていったことは間違えないのだ。

 確実に覚えているのはこの放送で紹介されていたのが二つの録音の演奏であり、その一つがジョルディ サバールの指揮したものであったことである。そしてそのCDを買い求めてプレーヤーに掛けた途端に鳴り響いたあの鐘の音に僕の心は再び捉えられたのだ。


 そもそも古楽というものを僕は余り聴いたことは無い。せいぜいプーランクとかマレといったフランス系の古楽を聴くくらいで、その上宗教音楽は近代音楽作家でもどちらかとして遠ざけてきた。モーツアルトやフォーレのレクイエムもたまに耳にすることがあるがそもそもキリスト教の信者でない普通の日本人の耳にとって、キリスト教を題材にした宗教曲は違和感があっても何の不思議はないと思う。

 だがその古楽と宗教曲が合さったようなこの曲がどうして突然僕の心を魅了したのだろうか?

 そう思いながら何度目だろうか、このCDを聴き始めた。冒頭の鐘の音が再び耳元に響き、その後に敬虔な祈りのような歌声が聞えてくる。だがそれは他の宗教曲のように宗教的な圧力を感じさせる響きはなく、ひたすらに謙譲を思わせる慎ましやかな歌声であり、やがて響いてくるリュートの優しげな音と交差する。僕は目を瞑る。バルセロナのセメトリー・・・太陽のもと、白い建物の奥に並んだ墓の景色が蘇る。

 Cuncti sinus concanetes(さあ、共に歌いましょう)の部分で流れるマリアを呼ぶ声にはさすがに宗教的な色合いは強く出るし、それ以外のパートでも宗教曲特有のメロディに溢れているのにどこも押しつけがましさのない流れるような歌声が僕を魅了した理由なのであろうか?

 それとも死を予感せざるを得なかったあのときの、心の状態が単に曲想とシンクロしただけなのだろうか?(そうだとしたら、今もなおまだその状況は続いているわけで、今聴いても同じ感情に揺すぶられるのは同一の理由に過ぎないのは明白であるが)

 その理由もはっきりとしないまま、時間は過ぎ、ボーナストラックであるQUANT AI LO MON CONSIRAT(世界の全ての事象を考慮した上で)へと曲は流れ込み、突如曲は終わり、僕は一人また現世に取り残されている。目の前では消音にした刑事もののドラマの中で犯罪者が人をいともたやすく殺している。


*LLIBRE VERMELL DE MONTSERRAT(Cants i danses en honor de la Verge Negra del Monestir de Montserrat siglo XIV)

LA CAPELLA REIAL DE CATALUNYA HESPERION XXI

Jordi Savall

ALIA VOX AVSA 9919

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