第18話 スクリャービン ピアノ協奏曲 ウゴルスキー ブーレーズ指揮 シカゴ交響楽団

 クラッシック音楽を聞いているうちに、どうしても好みが偏ってくる。それは仕方が無いことで、僕らはクラッシック音楽というものが好きだと言うより、やはり個別の「モーツアルトのバイオリン協奏曲」や「ワーグナーのオペラ」が好きなのである。クラッシック音楽ジャンルそのものは尊重するが、必ずしもそれを構成する全てが好き、なわけではない。

 ついつい好きな音楽はたくさんの演奏を買ってしまうのに、名前は知っているが聞いたことのない音楽もたくさん存在する。そして、なかなかそういう音楽には手を出す機会がない。手を出す機会が無いほどその音楽とは更に距離が広がっていく。

 音楽というのは単純なもので聞いている内に自然に馴染んでくる物であり、場合によってはどんな「駄曲」でも繰り返し聞いている内についついメロディーを口遊んでしまう、そんな事もある。繰り返し聞かせていれば「大ヒット」に繋がるというのは必ずしも神話ではない。

 人間の脳、などというのは案外そうした単純な物である。 


 僕個人は、最初ロシア・東欧の音楽から入り、モーツアルトやベートーベン、バッハを経てロマン派、現代音楽まで範囲を広げてはきたものの、取り残している音楽家は少なくはない。

 スクリャービンもその一人である。今まで聞いたスクリャービンといえば殆どピアノ曲の小品ばかり、その多くはホロビッツやリヒテルが演奏会などで録音したもので、纏めて聞いたことはなかった。交響曲も幾度かテレビなどで演奏されたものを聞いたことがあるだけで、レコードでもCDでも買ったことはない。

 最近少しずつ聞く音楽の幅を広げようとショスタコーヴィチの交響曲やオルフ、ニールセンなどを買っては聞いてみている。このスクリャービンの一枚もその中の一つであった。

 余り期待せずに聞き始めたのだが、思ったより遙かに魅力的であった。とりわけピアノ協奏曲は今までなぜこんな名曲を聴き逃していたのか、と思うほどに。

 スクリャービンはラフマニノフと同じ学校でピアノ科の一位、二位を分け合ったほどのピアニストであり(ラフマニノフの大きな手と比較してスクリャービンは酷く手が小さかったがほぼ対等の成績だったらしい)

 その彼が作曲したピアノ曲ともなれば、良い曲なのも当り前だという気もするが、ホロビッツやリヒテルほどのピアニストが弾いたソナタや小品ではそれほど感銘しなかったのはなぜであろうか。よくよく聞き直して見ねばならない。またなぜホロビッツやリヒテルがこの協奏曲を演奏しなかったのか、という点も注意するに値する。

 今回聴いたスクリャービンの三つの作品の中ではもっとも若い頃、作曲家として成熟していない時代の曲ではあるが、この人の成熟は独特なものがあったので、むしろ若い頃の作品の方が気兼ねなく聴けるような気がしないでもない。

 つい先日ラフマニノフのピアノ協奏曲の1番を聴いた(ジョン リル, piano 尾高忠明指揮 ウェールズ BBC ナショナル)が、それに比べても格段に曲としては魅力的である。おそらくはその曲想がロマン派を強く引き摺っていたので、発表当時には「時代的批判」に晒されたのであろうが、すでに発表から110年も経っているので時代的評価とは別に曲として純粋に評価されて良かろう。

 そのピアノ協奏曲は二つの「交響曲」に挟まれているが、CDのジャケットでは括弧付きの(交響曲)と記されている。さすがに1楽章の「交響曲」というのは余りきいたことがないからであろう。スクリャービンという人は音楽家にしては哲学やら神智学などに傾倒して、その影響がもろに音楽に反映されたらしく、二つの交響曲は神智学に取り憑かれた頃の作品である。神智学というのは「神の存在」を前提としてその「神の智」を特定の人間が悟るという構成を持って権威を生成するものらしい。どうもちょっと怪しげな匂いがするがスクリャービンは至極真面目にこの世界に没入していったようである。

 それはそれとして、タイトルにまでpoemと付けたのだから、交響曲ではなく交響詩で良くない?と僕などは思うのだが・・・。


 先ずは「法悦の詩」これは日本語にするときに「良い子のため」にLe poem de 'extaseを「性的高揚に関する詩」とはせずに厳粛なタイトルに訳したということである。何度か繰り返されるテーマが性的興奮が波のように押し寄せる様を表している、と解釈されている・・・らしいが、ではこの音楽を聞いて興奮するかというとそんなことはない。これでエクスタシーを感じることのできる人は幸せなのか、或いは酷く不幸なのかどちらかではないか。

 僕ならばリヒャルト・シュトラウスの「サロメの踊り」やグリーグの「ペールギュント」に出てくるアニトラの踊りの方がだいぶ艶めかしく聞こえてくる。

 それも当然で、法悦の詩は、その様を表すと言うより、エクスタシーそのもののうねりを音楽的に表現したわけであるから、それをもって性的な感情にはならないのだ。更に性的な感情のうねりは人によって異なるのが当然で、もしかしたらスクリャービン自身は描いたようなパターンをもっていたのかもしれないが・・・。

 というより、音楽そのものはたいていの場合何らかの感情のうねりを表現しているわけで、その中に性的なものが入っていても当然で、作曲家自身が告白しなければそれと分からない。

 モーツアルトのバイオリン協奏曲にだって、ベートーベンのチェロソナタにだってそうした要素が練り込まれている可能性もある。いやベルリオーズの「幻想交響曲」などは性的のみならず麻薬(阿片)によるエクスタシーが表現されていると作曲家自身が示唆している。

 音楽そのものがエクスタシーを惹起するように作られているとも言えるわけで、その意味ではスクリャービンの試みはごくごく自然のような気さえする。同じようなフレーズが弱く、強く繰り返されるのが性的な感情のうねりなのだろう。無調性というより、調性に囚われないフレーズといった方が適当な音楽は例えばベルクとかツェムリンスキーなどよりは聴きやすい、どこかにストラビンスキーの匂いの混じった音楽で僕は余り抵抗感がない。

 プロメテウスはオーケストラにピアノと「楽器としての」コーラスを配したユニークな曲で、これもロマン派後期の香りの強いピアノ協奏曲とはだいぶ趣が異なるが、十二音階的な無調よりはだいぶ耳に馴染みやすいと思う。無調は西洋音楽の行く着いたどん詰まりの様相を呈していて、そこから脱出しないとクラッシック音楽というジャンルは発展する先行きがないように思えるが、スクリャービンやプロコフィエフなどは、ある程度探針の役割を果たすかも知れないと思える。

 ちなみに演奏そのものに関しては、大変結構な演奏で、特にピアノ協奏曲におけるウゴルスキーの演奏は丹念で伸びやかで素晴らしい。初めて聴いたピアニストではなく、シューマンの「ダビッド同盟舞曲集」やシューベルトの「さすらい人」のCDは持っているのだが、強い印象があるわけではなかった(まあ、ロシアの隠れたピアニストというとリヒテルとかベルマンとか癖の強いピアニストが多いのでそれとの比較の意味で、ではあるが)。

 スクリャービンのピアノ協奏曲は彼の強い要望で録音されたと解説にあるので並々ならぬ意欲をもって録音に臨んだのだろう。ブーレーズの指揮は細かいところまで神経の行き届いた演奏である。この時期の彼の指揮には批判も多いが、勝手な期待値をもって演奏家の将来を描く人々たちが自分の思いも掛けないところに行くとくさすという、音楽でもスポーツでもよくある引き倒しのような部分もあるので、余り気にされない方が良い。


*アレクサンドル スクリャービン

法悦の詩 作品54(交響曲 第4番)

ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 作品20

プロメテウス 火の詩 作品60(交響曲 第5番)


アナトール・ウゴルスキー(ピアノ)

シカゴ交響合唱団 (合唱指揮:デュエイン・ウルフ)

シカゴ交響楽団

指揮:ピエール・ブーレーズ

   Deutsche Grammophon UCCG-2108

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