第16話 シェーンベルク 浄夜 ミトロプーロス指揮 ニューヨークフィル/ラサールSQ

 以前、別の随想にウィリアム カペルの事を書いた際に、ブラームスの協奏曲の指揮をしているミトロプーロスに触れた。ギリシャ産まれのこの指揮者も動乱の欧州を避けアメリカに渡った指揮者の一人である。その人がニューヨーク フィルという、当時アメリカでも最も優れたオーケストラの常任指揮者に選ばれたという事実はこの指揮者の並々ならぬ才能を示していると思う。

 しかしセル、ライナー、ミュンシュ、ワルターといった他の指揮者がステレオ録音全盛期まで活躍したのに比較して彼はアメリカ国籍を取得したにもかかわらず、1957年にニューヨークフィルの首席をレオナード バーンスタインに譲って、その三年後にミラノでスカラ座の練習を行っている最中に64歳の若さで客死してしまう。

 ニューヨークフィルの首席を譲った年齢は61歳、指揮者としては脂が乗り切った年齢であり、その指揮のもとでニューヨークフィルが欧州の優秀なオーケストラと匹敵する実力をつけた事は間違いない。セルのもとで躍進したクリーブランド管弦楽団、ライナーやショルティの下で実力をつけたシカゴ交響楽団、ミュンシュの指揮で成功したボストン交響楽団など、第二次世界大戦で欧州を離れた実力者で花開いたアメリカの音楽世界であったが、残念ながらミトロプーロスは彼らに比べてあまり知られてない。或いは敢て低い評価に晒されている。

 その一つの証左として宇野功芳氏がワルターの「大地の歌」(共演:ウィーンフィルロンドン・デッカMZ5013)のライナーノーツに書いた文章が挙げられよう。「当時(戦前)はニューヨーク・フィルの最低の時代で、トスカニーニが辞任してからバーンスタインの就任まで、七大交響楽団のラストにランクされた」と記載されている。

 この記載はやや曖昧でバーンスタインの就任をどの地点で捉えるのか(バーンスタインのデビューは1943年 ワルターの代役として登壇したが就任は1957年、ないし1958年となる)の問題はあるが一般的に音楽監督として就任する1958年と解釈するのが普通であろう。戦前からそこまでは実際はワルター、その後ストコフスキーとミトロプーロスが率いていたのが実情で、ワルターやストコフスキーは古典的な曲をメインに、ミトロプーロスは現代音楽を多く取り上げていたのである。その能力は恐らくワルターを凌ぎ、トスカニーニに匹敵するものであった。

 ただ、その実力に反し、ミトロプーロスはニューヨークフィルの団員と深刻な確執を抱えていた。その理由もまた彼が現代音楽を頻繁に取り上げたことに起因していたようで、そこらへんがあの時代のアメリカのオーディエンスやニューヨークフィルの限界だったのである。ミトロプーロスがニューヨークフィルにいた時のストレスはかなりの物だったらしく、もしかしたらそれが彼の急死に繋がったのかも知れない。

 そして彼が日本で余り知られていない理由といえば、これは恐らく戦前・戦後直後における日本のクラッシック音楽界における欧州重視の傾向(これが改まったのは1950年代半ば以降であろう)と、ミトロプーロスがニューヨークフィルを去ったタイミングの問題であろう。ニューヨークフィルを率いた彼の一つの不幸はレオナード バーンスタインが居たことである。生粋のアメリカ人指揮者であり作曲家としてもピアニストとしても実力を備えたバーンスタインの登場をアメリカは歓呼して迎えた。ボストンにもシカゴにもクリーブランドにもフィラデルフィアにもバーンスタインは居なかった。唯一ニューヨークフィルに存在した。とはいえ、ミトロプーロスとバーンスタインの間には確執らしき物はなかった。そもそもバーンスタインはミトロプーロスに憧れており、ミトロプーロスもバーンスタインを可愛がったという。


 日本では戦後のアメリカの最有力なオーケストラ指揮者と言えばワルターとバーンスタインを挙げる人が多いだろうが、これは必ずしも指揮者の実力と呼応していない。トスカニーニはもちろんミトロプーロスやミュンシュ、セル、ライナー、クレンペラーといった飛び抜けて優れた指揮者たちがあの時代、欧州を離れてアメリカで極めて優れた仕事をしていた事を忘れてはいけない。その土壌の上にバーンスタインは生れたのである。

 彼に対するアメリカとその聴衆の期待を感じたミトロプーロスは毅然とニューヨークフィルを去ったのである。その時の彼の心中はどのようなものだったか、僕らには知るべくもない。また彼はその心情を語るような人物ではなかったようだ。1960年生地であるギリシャでもなく、移住したアメリカでもなくイタリアのミラノでマーラーの交響曲をスカラ座の団員と共にリハーサルしている最中に彼は死んだ。その時彼の頭の中で鳴り響いた曲はなんであったか?

 アメリカの指揮者の中でドイツ産まれでも、フランスでもハンガリーでもない、ギリシャ産まれであったことは彼のキャリアに微妙に冥い陰を落していたのだと僕は思っている。ギリシャは残念ながら有力な西洋音楽の演奏家の揺り籠ではない。そんな中で傑出した才能を持ったミトロプーロスはライバルにも仲間にも恵まれない孤高の存在であったと思う。ポピュラーな音楽は先達に任せ、実験的な音楽に挑戦し続けたことも彼の立場を難しくしたに違いない。

 その孤高をどう評価するか、で彼に対する評価は当時、随分と差があったに違いないが、遺された音楽には彼の偉大さが間違えなく刻まれている。その意味でカペルとミトロプーロスの出会いは間違えなく偉大な音楽家同士の邂逅であった。それが今なお、評価する人に恵まれていなくとも。

 

 僕がラサールとミトロプーロスを「浄夜」の名演奏として挙げたのにはこの二者に共通する現代音楽への深い洞察と演奏能力がある。彼らは現代音楽をそれまでの系譜と「異質」の音楽として捉えていない。ラサールはベートーベン後期の弦楽四重奏曲とラベル・ドビュッシーの四重奏曲、そしてツェムリンスキー・シェーンベルグ・ルトスワフスキーに至る現代音楽を一つの地平にある音楽として提示していく。シェーンベルグに至っては後期ロマン派の残滓色濃いこの「浄夜」から無調性へと変化していく四重奏曲集を何の断裂もなくむずび付けていく芸当があるのだ。

 ミトロプーロスはチャイコフスキーの四番、幻想交響曲、そして「浄夜」(或いはプロコフィエフの作品)を一つの地平の中で演奏をし、そのまま「ヴォツネック」に持って行く。同じ事はポリーニにも言えて、現代音楽を苦としない音楽家の大半は無調性という壁を軽々と越えていく読解力をもって演奏をしていくのである。そうした演奏家は稀で、何もそうした音楽家だけを認めるというわけではないが、音楽家の才能というのはやはり「読解力」と「表現力」という二つの強い才能のいずれかは卓越していないと世に認められないのだとつくづく思う。

 カラヤンの演奏は後期ロマン派の最後を締めくくるというべき「浄夜」の演奏は実に見事で、どこか退廃的であり、それでいて冷たく虚無的な音楽を見事に演じている。だが、「管弦楽のための変奏曲」での視点が定まっていない。演奏そのものに瑕疵はないのだが楽譜以上のものが立ち上がってこないもどかしさがある。

 ある意味、それは自然のことである。僕らはオールマイティな指揮者を求めているわけではない。指揮者は誰かにとっての生涯のベターハーフであるわけでもない。僕らはその意味で現代音楽に関する極めて優秀な解釈者を蔑ろにするべきではない、と思う。



<レコード>

*シェーンベルク 「浄められた夜」作品4

プロコフィエフ バレエ「ロメオとジュリエット」

  ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

   CBS 13AC85

*ベルリオーズ 幻想交響曲 14a

 ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

   CBS 13AC84

<CD>

*ARNOLD SCHONBERG

Konzert fur Violine und Orchester op.36

SERGEI PROKOFIEFF

Symphonie Nr.5 B-Dur op.100

 Dimitri Mitropoulos, conductor

Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks

LOUIS KRANSNER Violine

ORFEO C204 891 A

*アルノルト・シェーンベルク

 ≪浄夜≫ 作品4 / 弦楽三重奏曲 作品45 / ≪ナポレオンへの頌歌≫作品41

アントン・ウェーベルン

弦楽三重奏曲 作品20/弦楽三重のための楽章(遺作)/ピアノ五重奏曲

 弦楽四重奏のためのロンド

 弦楽三重奏曲 作品45

 ラサール弦楽四重奏団

Universal Deutsche Grammophon PROC-1142/3

その他の「浄夜」の演奏

*ARNOLD SCHONBERG

 Verklarte Nacht op.4/Variationen fur Orchester op.31

Berliner Philharmoniker / HERBERT VON KARAJAN

Deutsche Grammophon 415 326-2

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