第15話 ストラビンスキー 春の祭典 アンタルドラティ指揮
「春の祭典」は、現代音楽のカテゴリーを既に脱し人口に
今から110余年前、1913年5月29日のパリのシャンゼリゼ劇場では” The Rite of Spring"ならぬ"The Riot of Spring"(春の暴動)が発生したわけで、クラッシック音楽の会場で40人もの逮捕者がでるというのは
残念ながら現在の聴衆はどんな新曲が演奏されようとNonを発することはめったにない。ただ、その場を耐えて静かに拍手を送り、そしてdinnerと共に忘れ去る。そういうケースが多いだろうし、またそれだけ感情に訴える新作もないというのが実情だろう。
「Nonを表明する」という事は、良くも悪くも批評をすることである。批評は作品と同じくらい大切なことで、良い批評は
「批評ばっかりして実際には何も作り出さない」という非難を最近色々なところで見かけるがそれはとんでもない勘違いで、批評、とりわけ質の良い批評と言うのがなければ作家・作曲家も演奏家も陽の光を失った植物の様に
残念ながらクラッシック音楽は良い批評家と良い演奏家を同時に失いつつあるという現状に直面している。場合によっては文芸の世界より状況は悪いかも知れない。世界の音楽はアメリカの音楽(もはやカテゴリーさえ不明になりつつある)やBTSとジャニーズに駆逐されているのだ。日本の文芸が漫画と漫画の台本のような小説に駆逐されているように・・・。(世界の文芸はそこまで悪化していないのだけど)
批評と悪口は同じようで、全く異なるものである。だが最近のクラッシック音楽では
今やクラッシック音楽の愛好者という、残念ながら「少数者」にとっての「名曲」となった「春の祭典」に関しては名曲に
僕が初めて聴いたこの曲の演奏はピエール・ブレーズがクリーブランド管弦楽団を指揮した有名な一枚(1969年盤)であった。今現在、指揮者としてのブレーズの評価は一時に比べて高いとは言えないが、それは聴き手の側の「聴き手としての能力」にも依存するところであって、絶対値としての「ブレーズ」の才能に本来、なんの影響も与える物ではない。だが、「本来」と書いたように「本来」そうであっても現実的にはどうでも好いような指揮者の演奏の方が優秀と書かれたら「それまで」というケースもあるのが現実である。
特にクラッシック音楽の解釈というのは「絶対値」の基準が曖昧であるから、「強く言った方が勝ち」みたいな野蛮な状況に置かれている。このバーバリズムに横溢した曲に関しても強く主張した方が勝ちみたいな
しかしよく考えてみよう。おそらくブレーズの演奏を高く評価した50年前の衝撃は、「春の祭典」という曲に内在するバーバリズムを徹底的に飼い慣らした指揮者の圧倒的な才能への驚嘆であって、その存在があってこそ、逆に「バーバリズム」に心を寄せる人々が出てきたのだとも言えるのだ。ブレーズにはこの盤の出る前に1963年にフランス国立管弦楽団と共演したものが出ている。
この1963年盤の前に既にモントゥー、アンセルメ、カラヤン、バーンスタイン、作者自身など
ではもう一度、僕が所有している盤を一つ一つ聞き直してみよう。
作曲家自身の演奏は1960年、コロンビア交響楽団(この録音はニューヨークで行われているので殆どのメンバーはニューヨークフィルに所属している筈だが、同じ盤に収録された「ペトルーシュカ」は” コロンビア交響楽団” と名称は同じでも録音場所がハリウッドなのでグレンデール交響楽団であろう。その意味では「春の祭典」の方が格上のオーケストラによるものである)と共に録音を行っている。
作曲家自身の演奏であるので、さすがにスコアの読みの深さは十分で、オーケストラも熱演している。残念ながら「若い女たちの不思議な団円」 (Mystical circles of the Young Girls) などを聴くと、ややデッドな録音もあってか艶っぽさが足りないが、録音当時既に78歳に達していたストラビンスキーに初演当時31歳の若々しさを求めるのは無理であろう。
祭典を聴いて激怒した(らしい)ドビュッシーは後年、その成功を知ってもっと激怒した、とストラビンスキーは自身の書いたライナーノーツで振り返っているが、この演奏は今もう一度聴けばmodestなものである。本来ならモントゥーの指揮のものも歴史的見地から聴いてみたい気もするのだが、一方でポスト ブレーズの演奏を聴いてしまった後では正常な評価を出来ないような気もして怖い。
それと同じ事でブレーズの演奏という「解説書」を最初に聴いてから、別の演奏を聴いたことで、非常に分りやすくなったのと同時に「特色」を聴き逃しがちになるというのは仕方有るまい。作曲家自身の演奏にそういう評価をすることが逆にブレーズの演奏の凄さである。
ブレーズ自身は”nothing can dilute the physical excitement provoked by the tension and the rhythmic life of certain sections"(幾つかの部分における緊張とリズムの実態に喚起された肉体的な興奮を薄めることは何ものにとっても不可能である )"But with Stravinsky, the preeminence of rhythm is shown by the reduction of polyphony and harmony to subordinate functions"(ストラビンスキーに関してはポリフォニーとハーモニーを二次的な機能に貶めることによってリズムを優越させている事が分る)と述べている。(ドイツ語のテキストには翻訳者が記載されていないのでオリジナル言語はフランス語ではなくドイツ語のようでFelix Aprahamianによって英語に翻訳されている)
つまり、指揮者は音楽の根源であったリズムこそがこの曲の肝で、作曲者はポリフォニーやハーモニーを二次的な要素に落としこんでいると宣言している。それこそが「春の祭典」のブレーズによる解析の根源であり、ブレーズ以前と以降はそれを徹底するかどうかの分岐点になっているといえるのだ。
そのブレーズは1991年に同じクリーブランド管弦楽団を指揮して「春の祭典」を再録音している。第二部は1969年の録音より若干ゆっくりとしたテンポになっているが、基本的な演奏のアプローチもテンポも前回の物が踏襲されている。演奏自体はより精緻になり、内在するバーバリズムのコントロールも完璧であるが、例えば次に論じるデュトワのものとは違うアプローチで、明るさとか流麗さというより、精密さというのが前面に出てくる演奏である。1969年の演奏を初めて聴いたときの驚きを聴衆に与える事はできないだろうが、彼のアプローチがより完成された演奏であると思う。(どんな芸術も、スポーツも最初の驚きを与え続けることは困難である。今や大谷がホームランを打っても誰も感激しない。大衆というのは貪欲で忘れやすい生物であり、それを満足させ続けようとするのは困難を極める)
シャルル・デュトワがモントリオールを振った1984年の演奏は非常に分りやすく快適な演奏で、初心者に勧めるならとっつきやすいこの演奏を勧める。いや、この演奏は高度に音楽的で、初心者のみならず全ての音楽ファンに勧めうるものである。デュトワの才能が一杯に発揮された物であり、彼がつまらないハラスメントを起こし(それは明らかに彼自身の問題であるが)音楽界で難しい立場になっているのは残念だ。明快な音色、心地よいリズムとテンポ、湧き上がるような音色、それをとっても一流の仕事であると言えよう。もしも惜しむ点があるとするなら、あまりにも流麗すぎて、この曲に内在するあのスラブ的なバーバリズムがブレーズとは別の場所に隠れてしまったというところであろうか。カラヤンがドボルザークを振るとボヘミアの暗い森の湿った匂いがどこかに消えてしまうような気がするのと同じで、音楽の土着性と普遍性のそちらを取るのかというのは常に難しい問題である。
バーンスタインがイスラエルフィルを振った演奏も別の意味で大変洗練されたものである。デュトワほど開放的でもなく、人によっては冷たさを感じるブレーズの演奏よりは温かみもある洒落たアーバンな演奏とでも言うのであろうか。さほど世評は高くないのはなぜだろう?イスラエルフィルはバーンスタインの都会的な指揮にも関わらず、リズムの底にロシア的な土着性を匂わせるという、なかなかの巧者ぶりを見せている。もしかしたらイスラエルを建国した人々の中にも、戦後暫くして融和したソ連から入国した人々にもスラブの音楽が心の底に住み着いているからかも知れない。決して録音に恵まれている楽団ではないが、演奏の質は高い。
そうした名演があるにも関わらず、1981年、ドラティがデトロイト交響楽団を振った演奏をこの曲の一番の演奏に挙げるのはなぜか?ドラティが(余り認知が高いとは言えないが)20世紀の名指揮者の一人であることは疑いようがない。しかしドラティの薫陶を受け急速に改善したとは言え、デトロイト交響楽団は「疑いようのないほど優秀な交響楽団」とは言いにくい。アメリカにはニューヨーク・ボストン・クリーブランド・シカゴに世界的に有名でかつ優秀なオーケストラがあり、ロサンゼルスやフィラデルフィア、サンフランシスコなどがそれに次ぐ。デトロイト交響楽団はその後塵を常に拝してきた、といえよう。
1980年代のデトロイトは、日本車の台頭のせいで衰退したアメリカの自動車産業の象徴であり、危険な都市の一つ(日本人にとっては更に危険)であった。そんなデトロイトの衰えがはっきりと見えた時代、このオーケストラが見せた高度な演奏はまさに長い冬を抜けた春の如く明るい報せであったように思える。残念ながらこの演奏そのものがデトロイトの復活そのものを招いたわけではないし、現実的にはこの街はその後財政破綻という厳しい現実に直面した。
そうした背景が反映したわけでもあるまいが、この演奏からは弱者が必死に這い上がる、そんな鬼気迫る音がしてくる。それは当時のデトロイトという都市、デトロイト交響楽団というオーケストラの姿でもあった。
近年、デトロイトは復活しつつある。そしてこの「春の祭典」はそれを祝賀するかのように鳴り響く。ブレーズが提示した解釈を引き継ぎ、それを次の世代へと渡すパフォーマンスは様々有るが、冷静な解釈にハンガリー人特有の(ライナーにも共通する)独特のテンポを加えたバーバリズムを醸すこの演奏を最上の演奏として推しても異論あるまい。
とはいえ、ブーレーズの二種、デュトワなど勝るとも劣らぬ演奏を有したこの曲は110年という時を超えてこれからも人々の耳に鳴り響き続けるのであろう。
() shows the month/year of recording of the piece
<レコード>
バレエ音楽≪春の祭典≫
ピエール・ブレーズ指揮 クリーヴランド管弦楽団
CBS SONY SOCL1076 (1969年7月28日録音)
<CD>
*PETROUCHKA (Complete Original 1911 version)/LE SACRE DU PRINTEMPS (+)
PIERRE BOULEZ, Dir
Paul Jacobs, Piano NEW YORK PHILHARMONIC
CLEVELAND ORCHESTRA (+)
CBS MK42395 (ditto)
*Petrouchka(version originale de1911)/Le Sacre du printemps
PIERRE BOULEZ
The Cleaveland Orchestra
Deutsche Grammophon 435 769-2 (1991/Mar)
*Petrouchka/Le Sacre du printemps
Detroit Symphony Orchestra
ANTAL DORATI
DECCA 417 758-2 (1981/May)
*Le Sacre du printemps(version de 1921)/Symphonies of Wind Instruments(original version, 1920)
Orchestra symphonique de Montreal
CHARLES DUTOIT
DECCA 414 202-2 (1984/May)
*Le Sacre du printemps Tableaux de la paiennne en deux parties(version de 1913)
L'Oiseaux de feu(Version de 1919)
ISRAEL PHILHARMONIC ORCHESTRA
LEONALD BERNSTEIN
Deutsche Grammophon 431 045-2 (1982/Apr)
-
**Petrouchka/The Rite of Spring (part of IGOR STRAVINSKY 1882-1971 Ballet Vol.1)
Columbia Symphony Orchestra
IGOR STRAVINSKY
SM3K 46 291 (1960/Jan)
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