第11話 モーツアルト ヴァイオリン協奏曲全集 グリュミオー C・デービス指揮 ロンドン交響楽団

 卵からかえったひなが最初に見た動くものを親鳥と認識してなつくのと同様に、最初に聞いた演奏をその曲のベストだと考えてしまう傾向は無きにしもあらずだと考えている。そうした刷り込み現象に近いものが、僕にはグリュミオーが演奏したモーツアルトのヴァイオリン協奏曲集に存在する。

 これはある程度仕方ないことで、もし最初に聞いた演奏がつたない演奏ならそもそもその曲も好きにならない筈だ。名演だからこそこういう現象が起きるのである。

 全て長調で、変も嬰もつかない調性の明るく素直な協奏曲の集合クラスタの最も似つかわしい組み合わせがグリュミオー/コリンデービスのもので、それがたまたま最初に聴いた演奏であるという事だと僕は信じたい。もっとも1960年代、今から60年前に録音されたこの演奏を現代のモーツアルトの演奏の標準とすることには異議もあるであろう。グリュミオーのヴァイオリンはモーツアルトの演奏として歌い過ぎている、という評価もある。それに・・・その後にもたくさんの素晴らしいバイオリニストが輩出しているではないか?例えば、ギドン クレーメルやアンネ ゾフィー ムター、チョン キョンファ、ヒラリー ハーンなどなど。

 にもかかわらず今のところ、僕にとってこの演奏を越えるものはない。例えばクレーメルがアーノンクールが指揮するウィーンフィルと共演している演奏を一式持っている。世評の高いクレーメルはアバドやマゼールを凡庸な指揮者として非難したようだがそれが本心なのか、それともウィーンフィルがアバドをアーノンクールより評価したことに対して異論があったのか良く分らないが、伴奏者として考えた際アバドが極めて癖の少ない指揮者だとすればアーノンクールは正反対に癖の強い指揮者である。クレーメルも決しておとなしい性格とは言えない(それが悪いとは言えないが)。この変わり者同士がウィーンフィルを挟んで共演した演奏は、「変わったモーツアルト」の匂いが強くなりすぎて僕には楽しめない。

 カラヤンがお気に入りのバイオリニストであるムターを伴奏した演奏も聴いてみた。管弦楽側は立派な建付けではあるが、そもそも立派すぎるモーツアルトというのはどこか奇妙なものである。その上ムターのバイオリンも力強いので全体が骨太なモーツアルトになっていく。モーツアルトをベートーベンやブラームスと同じ感覚で演奏するのはどうも馴染めない。

 クイケンがラ プティ バンドと演奏したものはもう少しモーツアルトに近いが、どこかプロムナードのような「街頭での演奏」を想起させる。ハイフェッツやオイストラッフの演奏はだいたい想像がつくし、それらは僕が希求するモーツアルトの姿とは少し違うような気がする。


 落語に例えれば、クレーメルは立川談志、グリュミオーは三代目の三木助である。

 立川談志というのは、鋭い感性の持ち主で、かつ落語の未来とかそういうのを凄く心配した人であった。江戸時代から明治へと脈々と続いて、新作と共に発展してきたはなしはそれは素晴らしいものであるが、そのまんまで落語は庶民芸術しょみんげいじゅつとして残っていけるのか、という焦燥感しょうそうかんが彼にはあったに違いない。その激しい焦燥感は自らの弟子ばかりではなく、五代目の円楽なんかにも感染し、(彼らの目から見れば)のほほんと旧来の噺に依存している落語協会の重鎮たちに対する激しい批判の源泉となったのであろう。一方でその重鎮たちは重鎮たちで「ではどうすればいいの?」という疑問符だけしか浮かばなかったわけでそもそも会話がみ合っていない。クレーメルがロッケンハウスでやっていることと談志がやっていたことは余り違いはない。

 昔からある作品をどれほど磨いていくか、というのは落語のみならずクラッシック音楽の世界でも主流の考え方で、もちろん新作を否定するものではないにしろ、なにが稼ぎかと言えばベートーベン・ブラームスであり、芝浜や品川心中なのであって、ツェムリンスキーでもなければ新作落語でもないのが現実である。あらゆる演奏家は古典ばかりではなく、数回、或いは十数回に一回は現代音楽を演奏しある意味アリバイ作りをしているが、現実にそうした音楽に聴衆が集まるかとか、そうしたCDが売れるかと言えばそうではない。僕自身、ベルグとかシェーンベルクあたりは何の支障もなくクラッシック音楽として聴くが、ツェムリンスキーとかスルンカとかになると少し構えざるを得ない。

 昔は作曲家と聴衆はコンサートという闘いの場で演者を通して対決したものだ。ストラビンスキーの「春の祭典」がパリでピエール モントゥの指揮で初演を行ったとき大混乱に陥ったというのは有名な話だが、実はモーツアルトだって何回もそうした憂き目にあった訳で、それこそが作曲家と聴衆の対話であったのだ。

 だが、今現代音楽を演奏してそんな騒ぎになることはない。聴衆はどんな音楽でも、だまって(多くの場合我慢して)曲を聴き終えると控えめに拍手しつつ、二度と聴くことはないだろうと内心呟いている。その時代間の温度差がクラッシック音楽の退潮を顕著けんちょに表しているわけで、落語家も演奏者も「芝浜」やベートーベンの交響曲をないがしろになどはとてもできないわけである。

 談志もクレーメルも本人たちは古典を現代に合わせようとする活動が中心で、新作を中心とした活動ではない。だが危機感は感じている。


 芸術は時代ときしみの音を立てていく。

 そうした事情は芸術には常に付きまとい、とりわけ古典には必至ひっしのものである。クラッシック音楽や古典落語はその呼称からしてその背景からのがれることなどとてもできない。

 三木助が芝浜の夜明けを絵画のように描き、寛永寺の鐘の音を音楽のように鳴らす事に専心しているのを談志は「それがどうした?」と問うているわけで、そのギャップは埋まらない。埋まらないが、落語会の年寄りたちも談志たちの気持ちが少し分っている。その二つの集団が見ている先は同じなのだが、その思いは必ずしも聴衆には届いていない。三木助の芝浜に心奪われても古典を現代に移し替えたり新作落語を育てるほどの思いはないのが普通である。そして談志がどんなに悪口を言おうと、いや逆に言えば言うほど、三木助の芝浜は心を打ち、残念ながら談志の芝浜はそこに及ばない。そうでないと強弁することは可能だが、実態は寄り添おうとする演技を批判的な演技が越えることはそもそも無理なのである。談志は優れた評論家であり、落語を心から愛した人間であったが、それに比較すると優れた落語家ではなかった。いや、優れた落語家ではあったが、他にも違うアプローチを持って歩む優れた落語家が多かった。圓生、志ん生、文朝、文楽、馬生、圓蔵、正蔵・・・。


 僕らは残念ながら平凡な聴衆である。恐らく「そもそも新作落語とは何か『新作』ほどすぐに色褪せてしまうではないか」、とか「クラッシック音楽のクラッシックってそもそも古典と言う意味だよね」、という事実を覆すほどの強力な聴衆は絶滅危惧種よりも少ない。存在するのかわからぬニホンカワウソのような存在で、それこそがある芸術分野の退潮を顕著に示している。

 アニメやアイドルやらに対する情熱は熱く迸るように存在するのに比較すればまるで火山から流れ出た溶岩が冷えていくように退潮していく芸術なのかも知れない。それでもなお、そこに希望を持ち情熱を捧げる人々は存在するし、そうした存在を僕らは貴重な物として尊ばねばならない。

「アニメやらアイドルやら」を馬鹿にするつもりはないが、僕には「アニメやアイドル」が将来にも評価される芸術であり続けるとは思えない。いや、だからこそこれほど熱情的なファンが存在するのかもしれない。燃え上がる炎はやがて消えるが、その「刹那」性が多くの人を引きつけるのではないか?、と考えてしまうのだ。

 だが現実は分らない。昔は演者が河原乞食と蔑称された歌舞伎が今となっては日本古来の芸術のような顔をしているのは事実だし、宝塚もなんだか芸術のような顔つきになっている。ニューヨークでもロンドンでも今はオペラよりもミュージカルであり、フィガロでもカルメンでもなく猫やらお化けやらが大きな顔で主人公を張っている。それで誰かが困っているわけでもなさそうである。

 そんな風に考えるとますますクラッシック音楽の将来とか落語の先行きとか心配になるが、もう僕らが心配しても仕方ないのかも知れない。せいぜいCDを買ったり、演奏会に出掛けたりして演奏者の懐にお金が入るように少しだけ協力をするしかないのである。


 話をCDに戻そう。「芝浜」・「へっつい幽霊」・「火事息子」、その上「宿屋の仇討ち」「三井の大黒」のような明るい噺が詰まったバイオリン協奏曲集を演じるグリュミオが三木助だとすれば、その伴奏は出囃子というわけで、その「つくま」を演奏しているのは三十代半ばのコリン ディビスである。自らの主張を貫くと言うよりグリュミオに寄り添った形で演奏しているのだろうが、端正で余計なものを省いた素晴らしい演奏である。



*WOLFGANG AMADEUS MOZART

DIE 5 VIOLINKONZERTE

Nr.1 B-dur KV207/Nr.2 D-dur KV211/Nr.3 G-dur KV216/Nr.4 D-dur KV218/Nr.5 A-dur KV 219

ARTHUR GRUMIAUX, Violine LONDON SYMPHONY ORCHESTRA

Dirigent : COLIN DAVIS


PHILIPS 422 938-2

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